首のない王妃 マリーアントワネットのその後 公演情報 武田光太郎「首のない王妃 マリーアントワネットのその後」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    消化不良
    武田光太郎という俳優はよく知らないのだが、女形のマリー・アントワネットということで、有名な首飾り事件を扱っているし、興味をひかれて観に行った。

    結論から言うとまず、脚本に難がある。

    同じような場面とセリフの繰り返しで、1時間35分にやっと引き延ばしている感じ。

    「人は憎しみを忘れ、真実を知り、すべてを許すことで初めて救われる」というのがテーマのようだが、違和感だけが残った。

    音楽や舞台美術はそれらしいのだが、内容も未整理で人物設定にも疑問が残った。

    海賊ハイジャックあたりが料理してくれたら、面白い題材だと思いながら観ていた。

    ネタバレBOX

    幕開きは墓場の墓堀人夫2人、(新本一真,江連健司)の会話で、現代のパリだという設定らしく、街頭では、マリーの恋人、フェルゼン(高橋将仁)が洋服屋に生まれ変わっているが、あえて現代を出した理由がわからない。

    墓場での会話はジャコバン党の血の粛清の話で21世紀ではなさそうだ。

    街頭に蝋人形のように立つ貴婦人たちが紹介されるが、肝心のマリーがどこにいるかまったくわからない。

    占い師の老婆のような姿で華がないのだ。

    回想場面になり、墓堀りたちは宝石屋に変わる。

    狂言回しの彼らの会話が空回りして、2回も似たような会話をするが、本来笑わせるところで客が笑わない。

    ジプシーを表現したいのか、藤節子の長いソロのフラメンコダンスも意味不明

    断頭台の露と消えたはずのマリー・アントワネット。チラシの説明によると、貴族たちは冥界をさまよい、天国のマリーに会いに来ると書いてあるが、マリーも決して救われてはいない様子。

    息子が平民に捨てられ、餓死同然で獄死したことを知らず、それを知りながらマリーに知らせることを迷うポリャック夫人(夕貴まお)。

    しかし、すべてを知らなければ、マリーに神の救いはないという。これで観る限り、マリーは天国にはいないことにしないとおかしいのでは?

    マリーから宮廷で娼婦上がりの先王の愛人としてさげすまれ、7年間も口をきいてもらえなかったことを恨み抜いているデュバリー夫人(高汐巴)。

    高汐は、「7年間も口をきいてもらえなかった」という台詞ばかり繰り返し、脚本上、きちんと役が描けていないので、演技力を発揮するまでもなく、持て余しているようで、観ていて気の毒になる。

    夕貴は、宮廷の堕落した生活やマリーへの裏切りを悔い改めてからの優しさを強調。時折、日本の時代劇調の言い回しの癖が出るが、驕慢さも出る後半の演技はよかった。

    フェルゼンに対し、「私を利用しただけだったのね」というマリーも、どうしてそう思うのか説明不足。

    10歳で亡くなったルイ王太子(渡辺慎一郎)がやってきて、母に身の上のすべてを話し、マリーは号泣するが、「私たちは普通の家族として幸せに暮らしたかった」と語る。

    王太子は成人男子になっていて、マリーも死後、年を取っていったようにしか見えないし、時代設定がいつなのか、観ていて混乱する。

    観念的な台詞ばかりで、まったく心を動かされなかった。

    0

    2011/10/06 19:05

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大