再/生 公演情報 東京デスロック「再/生」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    (たぶんというか、間違いなく脳が騙されていると思うけど)快感!
    再演みたいだが、前情報まったくなして観た。
    それは正解だった。

    にしても、東京デスロックは、やっぱりとんでもない劇団。
    これを最後までやり切って、かつ、この気持ち良さ。
    素敵すぎる

    ネタバレBOX

    ダンスというよりはポーズの連続。
    どこまでがアドリブでどこまでが決まりなのかは判然としないが、ときどき入る「再生(リプレイ)」で、全部がアドリブではないことに気づかされる。

    『再/生』というタイトル(真ん中に/が入っているものの)や大音量のサザン『SUNAMI』、そして‪相対性理論『ミス・パラレルワールド』‬なんて曲が流れたりするから、やっぱり3.11を意識して観てしまう。「再」と「生」と分けて考えるとなおのこと意味が増してくる。
    SUNAMIとか大変なことが起こっての、「再生」というとらえ方だ。

    それはまったく見当違いかもしれないが、ここを端緒にして観ていくと、「日常」という言葉が浮かび上がる。
    「日常」を「再生(蘇らせる・リボーン)」すること、それはすなわち「日常」が何の疑いもなく「再生(リプレイ)」続けていたように見えた時間への希求。

    「日常」の「再生(リプレイ)」(していたように見えていたこと)は、貴重なものであったと認識せざるを得ない3.11後の世界にいる。
    「日常」の「再生(リプレイ)」は、完全なる「再生(リプレイ)」ではなく、同じように繰り返されていても、1日として同じものは存在しないことにも気づく。

    それは音楽が同じ楽譜による演奏であったとしても、演奏者や楽器、場所、時間、演奏者の気持ちなどによって、必ず同じではないことに似ている。

    舞台の上のポーズは、音符であり、それを「台詞」や「日常」や「大音量の音楽」でアレンジしつつ繰り返されていく。
    同じようで同じではない。デジタルではない、肉体による「再生(リプレイ)」だからそれは当然であり、それが当然のように延々と繰り返される。

    極々個人的な感覚的な気持ちの良さの回数だけ繰り返される。
    だから、苦痛に感じる人もいて当然だ。

    「日常」の「再生(リプレイ)」は、苦痛でもあり、幸福でもあることが、わかった今、感じるこの舞台がある。
    快感でもあり苦行でもある。

    舞台の上の俳優たちは、「日常」を演じている。
    その姿には、「苦痛」もあるが、「快楽」の表情も浮かぶ。それが失われつつある「日常」の表情。舞台という繰り返しの中にあっても、異なる「再生(リプレイ)」。

    役者たちの本気度は熱い。死ぬ気でやってるようだ。
    手抜きはないところにも快感を感じてしまう。観客も(たぶん)演じている本人たちも。観客のほうは「疑似的」ではあるが。

    やり切った後の役者の無表情は、すでに演技(していること)ではないとしても、また、演出家が意図してる、してないにかかわらず、これは演出で演技だ。

    ここまでの感想は、大音量の音楽などなどの諸々に騙された(会場のサイズも大いに関係あり)、単なる妄想であったとしても、そうした「非日常的日常」の、この気持ち良さ、このヘンテコな感覚はほかでは味わえない。

    東京デスロックは、やっぱりとんでもない劇団だ。

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    2011/07/24 06:57

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