5分だけあげる(終幕御礼・御感想お待ちしています。次回公演は2012年2月下北沢駅前劇場・下北沢演劇祭参加決定) 公演情報 MU「5分だけあげる(終幕御礼・御感想お待ちしています。次回公演は2012年2月下北沢駅前劇場・下北沢演劇祭参加決定)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    【本編:5分だけあげる】極限の精神状況に至る心理的過程をもっと描いてほしかった
    特にここ数日は高評価の方が多いので、
    少々そのことを気にしながら書いています。
    また、正直、非常に感想の書きにくい内容と思いました。

    大体の筋は、「解説」や、他ユーザーの「観てきた」のとおりです。

    ネタバレBOX

    しかし、私が、まず気になってしまったのは、
    ラヴェル「ボレロ」が初めに流れた後、
    ベテラン女性教師が、やはりボレロを鼻歌で口ずさみながら教室に入ってくる。
    そして、教室で、持ってきたダイナマイトを取出し、教卓の中に隠す。

    だが、自爆テロ的に、自らも死ななければならず、
    そして、憎む者のみならず、それ以外のものを巻き添えにしようという行為に至るのであれば、
    相当追いつめられた、いわば極限の精神状況であるはず。

    誰かが観ている前のパフォーマンスで鼻歌を歌うのではなく、
    誰も見ていないところで鼻歌を歌う余裕があるだろうか?

    また、多分に建て前的であっても、あれこれ教えを垂れたり、
    謹厳な教師という割には、生徒に優しい言葉をかけることがあったりもする。

    もちろん、現代日本では無差別殺人も珍しいニュースではなくなってしまったし、
    海外に目を向ければ、自爆テロについても同様であろう。

    ただ、数年前、別の劇団で、バスジャック犯人を描いた演劇を観た記憶があるが、
    そちらでは、犯人が犯行に至るまでの心理的過程を描こうという努力はあった。
    (ちなみに、三島『金閣寺』も、放火に至るまでの心理的過程を詳細に描いた
    成功作であるといえよう。)

    つまり、今回の観劇で最も私が気になってしまったのはそこで、
    人を「殺してやりたい」と思うことなら、多分誰でも(?)経験しているだろうが、
    しかし、それを実行するためには、それなりのハードルを越えなければならず、
    さらに、関係の無いものまで殺す無差別殺人となれば、
    実行には相当高いハードルを越える必要があるはずである。
    1時間弱という短い公演時間が意図的なものであったかどうかは別として、
    本来描かれるべき「女性教師の心理的過程」に
    ほとんど触れられていなかったのが残念であった。

    また、SEXをしてしまった小6の男女も、
    将来に自信の無い男の子と、
    早く大人になって忌まわしい環境から逃れたい女の子の、
    それぞれニュアンスの若干違う刹那的な「逃避」に過ぎない。
    別に未来に夢があったわけでもなく、何らの希望も見いだせない。

    女性教師にしても、この男女にしても、
    その精神(病理)的深層は、
    裏(の裏(の裏・・・))サイトによって表象されているが、
    それ以上観客に訴える者もなかったのではないか?

    演出面では、最初に小6男女が出てきて会話をする場面の後、
    児童や、机上の教科書等がそのまま残ったまま、
    そこに彼らの親たちが登場したので、
    教室で参観が始まるのかと思ったら、
    そこはマックが舞台という設定になっていて、
    そこで周囲を省みない言い合いが始まる。

    いわば、児童達は黒子のような設定で、
    子供世界と大人世界を重層的に表現させよう
    という趣旨なのかな? と思ったりもしたが、
    親たちが引っ込むときは普通の暗転で、
    それならこの演出は何だったのだろう? と思ってしまった。

    それと、舞台中央には教室と設定される空間があって、
    その周囲には壁も何も置いていないのだが、
    登場人物は、その周囲を4分の3ほど回って教室内に入る演技をするので、
    それが長い廊下を観る者に想像させるのである。
    ところが、ドタバタ状態になると、出入りやこの集会がぞんざいになってしまい、
    せっかく心の中にできていた「廊下」が消し飛んでしまったことも残念であった。

    なお、他ユーザーも指摘しているとおり、
    現代では決して珍しくない教師達、児童達、親達を、
    それぞれ役者がしっかりと演じていたことはたしかである。
    私的には上記のような物足りなさを感じてしまったが、
    次回以降に、より良い作品をまた期待したい。

    4

    2011/07/05 08:27

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  • ハセガワアユム様
    コメント拝読致しました。

    都合で多少前後して引用させて頂きますが(文意を損ねる意図ではございません)、

    >ですから、いろいろな想像ができると思っています。
    >映画『太陽を盗んだ男』も主人公の動機がブラックボックスであるように、
    >またそういった仕組みの作品はいくらでもあります。
    >好みといってしまえばそれまでですが、それを超えて、こうあるべきだ、と
    >自分の考えを、そもそも作品の方向が違うものにまでに求めてしまうのは、
    >勿体無いかな、と思います。

    おっしゃるとおりで、「いろいろな想像ができる」と思いますし、
    また、裏を返せば「その人にとってはできない想像もある」ということにもなろうかと思います。

    失礼ながら、今回のコメントは、作者なりハセガワ様なりの「想像」が、
    私に押し付けられているように取ってしまったというのが、
    正直な感想なのですが、それも一面的に過ぎますでしょうか?

    その原因が、受容する側の私にあるのか、
    それとも発信される側にあるのか、
    あるいは双方にあるのかも、正直私には分かりません。

    ただ、作り手側、発信側は、当然連日作品に向き合っているわけですが、
    観る側は基本的には一度だけの体験になります。
    音楽同様、演劇も時間芸術ですから。
    良いことではありませんが、見間違い、聞き間違いだってあるでしょうし、
    複数回鑑賞する機会が与えられた場合、
    「一度目には気が付かなかったことが、二度目で気が付いた」
    と言うことも良くあります。

    ですから「勿体無い」とか、「ほんのもうちょっとだけ反芻してみてください」
    という言い方で、作り手側の解釈を観る者に押し付ける方が、
    むしろ私には奇異に感じられます。
    私がこの立場であることを始めにお断りしておきます。

    >だいたいは、みささんが代弁して頂いたことが僕の考えとも合っています。

    >>誰かが観ている前のパフォーマンスで鼻歌を歌うのではなく、
    >>誰も見ていないところで鼻歌を歌う余裕があるだろうか?
    >この部分は意味がわからなくて、
    >鼻歌って普通ひとりのときにやりませんか?
    >梶浦にとっての、人生の歌がボレロだったのだろうし、
    >自分を鼓舞させたり落ち着かせていたんじゃないでしょうか。
    >また、みささんがご指摘のとおり、彼女は達観や諦観の位置から
    >物語が始まっていて、よしさんの求める心理的過程はすべて前提で
    >ブラックボックスです。

    みささんの投稿は私もいつも参考にしておりますし、
    もちろん好みの違いは当然ありますが、
    信用できる投稿をされるユーザーのお一人、と私も認識しております。
    ですから、もし、みささんはじめ私以外の多数の観客が、
    作り手側の意図をしっかり認識された一方で、
    私にそれができなかった、ということならば、
    「私のクセの強い好み」によるものなのかもしれませんし、
    それとも、私の「受容能力の欠如」なのかもしれません。
    どちらかなのかは、私自身では判断できませんし、するべきでもないでしょう。

    >作者的老婆心ですが、書き込みいたしました。
    >今後ともよろしくお願い致します。

    みささんも、
    「MUの舞台は観客の感性に投げ逃げする作風」
    「こちらの感性に任せる作風」
    と書かれていますが、
    もしそうであれば、好みや人生経験、
    そして貴団の、また他団もふくめての鑑賞体験の多寡等で、
    様々に受け止められてしまうこともまた必然なのではないでしょうか。

    もちろん芸術家の中には「分かる奴だけついて来い」という方もおりますし、
    その中には、単に傲慢なだけの方もおりますが、
    死後も名を遺した芸術家となった方もいますから、
    「そういう態度はよろしくない」ということはできないでしょう。

    ただ、私としては、一度だけ観て、そして投稿したように感じてしまったわけで、
    それを、(しつこく引用して申し訳ありませんが)
    「勿体無い」「ほんのもうちょっとだけ反芻してみてください」
    という言い方で、暗に修正を求められても、
    過去に感じてしまったことの修正はできないことも御理解頂ければと思います。
    そしてもし、作り手側の意図をくみ取れない観客は困った存在であるとお考えでしたら、
    おそらく私がMUさんの次の作品を観ても、
    同じようなことになる可能性が高いと思うのですよ。

    それに、観劇前のメールのやり取りで、
    ちらっと「以前悪意のある投稿で苦労があった」旨が書かれておりました。
    もちろん私の投稿は、悪意を持って書いたつもりはまったくございませんが
    (悪意をもっての批判的投稿は論外だと思っております)、
    これもいわば発信側の論理ですから、
    もし、受容側のハセガワ様が、私の投稿をも含めて悪意的に受け止められたのでしたら、
    原因の所在は別のこととしても、遺憾のことであるとは思っております。

    そういうことのもろもろを考えますと、皮肉でもなんでもなくて、お互いの幸福のために、
    やっぱり私は、今後は貴団の公演は控えた方がよろしいのかな、
    とも、正直思っております。

    なお、これまでの投稿をも含め、もし表現等で失礼の段等ございましたら、ご容赦下さい。
    立場や考え方は違っても、「より良い芸術を希求する」方々であれば、
    芸術面でも興行面でも御成功されることを私も願っております。

    2011/07/10 00:55

    MUのハセガワアユムです。ご来場ありがとうございました。
    本来、作者である本人が出てくるのもなんですが、気になったことがいくつかあったので、
    書き込みします。

    だいたいは、みささんが代弁して頂いたことが僕の考えとも合っています。

    >誰かが観ている前のパフォーマンスで鼻歌を歌うのではなく、
    >誰も見ていないところで鼻歌を歌う余裕があるだろうか?

    この部分は意味がわからなくて、
    鼻歌って普通ひとりのときにやりませんか?
    梶浦にとっての、人生の歌がボレロだったのだろうし、
    自分を鼓舞させたり落ち着かせていたんじゃないでしょうか。
    また、みささんがご指摘のとおり、彼女は達観や諦観の位置から
    物語が始まっていて、よしさんの求める心理的過程はすべて前提で
    ブラックボックスです。

    ですから、いろいろな想像ができると思っています。
    映画『太陽を盗んだ男』も主人公の動機がブラックボックスであるように、
    またそういった仕組みの作品はいくらでもあります。

    好みといってしまえばそれまでですが、それを超えて、こうあるべきだ、と
    自分の考えを、そもそも作品の方向が違うものにまでに求めてしまうのは、
    勿体無いかな、と思います。

    よしさんの想定していたものとは別ですが、物語に心理的変化はありますよ。
    ラストシーンの2人がぶつかりあい、出て来た言葉はなんでしょう?
    こんな現状、またはこんな自分に諦念してた梶浦からシュートへ、
    「じゃあ入らなきゃ」と結ばれます。
    ほんのもうちょっとだけ反芻してみてください。

    作者的老婆心ですが、書き込みいたしました。
    今後ともよろしくお願い致します。

    2011/07/09 16:38

    みささま
    いえいえ、観劇量は圧倒的に違いますし、
    私の方こそ、いつもみささんのレビューを参考にさせて頂いております。

    >あくまでも個人的な受け取りですが、教師は自爆テロ的に、自らだけを破壊しようと考えたのではな
    >いかと感じました。
    >ですから、教室の半分までの破壊を計算にいれて、後方に座っている生徒には危害のないように
    >作ったのかなとも思いました。

    最初の場面で、ダイナマイトを出した際、「この辺までかな?」という台詞があったことを
    私も記憶しています。
    なので、そうかもしれません。
    ただ、私個人の受け止め方ですが、結構ダイナマイトが派手で
    (まあこれは後ろの観客まではっきり分かるようにという趣旨が第一なのかもしれませんが)、
    イメージ的に、あれで自分1人だけの自爆というイメージを受けなかったことと、
    「この辺まで」という言い方は、多少の巻き添えはやむなし、とも取ってしまいました。
    私が最前列で見ていたので、余計そう感じられたのかもしれません。

    >更にこれから死ぬ自分の最後の言葉として、生徒に優しい言葉をかけ、二人の生徒に教室を出て
    >いくように指導していたような場面がありました。(違ったかな?)

    はい、この生徒への優しい言葉も、色々解釈可能で、
    「まだ気持ちが揺れ動いていた」とも取れますし、
    「(人間だれしも持っている)矛盾した性格、二面性」かもしれませんし、
    あるいは、「死を決意したものの諦観」かもしれません。

    >今回の作品は心理的過程を超えて苦悩した挙句・・・の後から舞台として立ち上げたような気もしま
    >す。ですから充分な心理的過程の描写は舞台の前の過程だったのでは、と推測しました。

    で、例えば、最初の鼻歌も「諦観」と受け止められれば、おっしゃるような解釈も可能と思います。

    最近よく思うのですが、表面上、評論の見解が全く相違していても、
    よく読んでみたり、あるいは座談会的に意見交換させたりすると、
    実は共通的な認識がとても多くて、
    ただし、どの「要素」にその人の比重が大きくかかっているか、
    により、表面上の結論や見解が大きく異なってしまっている・・・、
    そういうことが結構多いのではないか。

    だから、レビューに書かれている内容や、星の数が、
    一見大きく違っていても、
    「そういう見方もあるな(あるのか)」とか、「あの人ならそう感じるだろうな」とか、
    自分の見方を否定するのではありませんが、
    他者の見方もそのまま受容できる・・・
    そんなことも結構あります。

    >それにしても毎回、本当に良く見てらっしゃって感心します。観終わったずっと後にたまに、よしさん
    >のレビューを拝見して「ああ、そうだった。」などと思い出しています。また拝見させてください。楽し
    >みにしています。

    劇団の方もそうでしょうけど、自分の作ったものは客観視できません
    (だから、レビューが気になるのでしょう)。
    それは、自分の書いたレビューについても同じで、自分はただ正直に書いているだけで、
    それが他者からどう見えるのか、どう評価されるのかは、自分ではわかりません。
    ただ、お一人でもお褒め頂ける方がいらっしゃることは、本当に嬉しい限りです。
    今後ともよろしくお願い致します。

    2011/07/05 12:55

    相変わらず詳細なレビューで頭が下がります。
    気になった教師の件で、ひとこと。

    あくまでも個人的な受け取りですが、教師は自爆テロ的に、自らだけを破壊しようと考えたのではないかと感じました。
    ですから、教室の半分までの破壊を計算にいれて、後方に座っている生徒には危害のないように作ったのかなとも思いました。ボイコットした生徒達も巻き添えにしようという行為はなく、教師は初めからボイコットを知っていたようにも感じました。
    つまり教師は生徒の未来について説法を説きながら自身の未来には一分の魂もない事を知っていて自分のテリトリーである教室で死のうと考えたのだと感じました。
    ですから、自分の命の最後の曲が「ボレロ」なのだと・・。

    更にこれから死ぬ自分の最後の言葉として、生徒に優しい言葉をかけ、二人の生徒に教室を出ていくように指導していたような場面がありました。(違ったかな?)
    今回の作品は心理的過程を超えて苦悩した挙句・・・の後から舞台として立ち上げたような気もします。ですから充分な心理的過程の描写は舞台の前の過程だったのでは、と推測しました。

    MUの舞台は観客の感性に投げ逃げする作風(ハセガワに見られたらヤヴぁイ!)が多いですが、個人的にはこういった、こちらの感性に任せる作風も嫌いではありません。

    勿論、心理的過程を詳細に描いた作家の作品も大好きです。まあ、要するに何にでも食指は動くのですが・・。笑

    それにしても毎回、本当に良く見てらっしゃって感心します。観終わったずっと後にたまに、よしさんのレビューを拝見して「ああ、そうだった。」などと思い出しています。また拝見させてください。楽しみにしています。

    2011/07/05 12:09

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