桜の園 公演情報 地点「桜の園」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    桜の園の満開の下
     チェーホフの『桜の園』の「読み」は様々だろう。その中には少女小説的な読みがされてきた一連の流れもあって、これはもの凄く乱暴にまとめてしまえば、没落貴族であるヒロインの哀しみを描いているという感傷的な読み方だ。演出家もそれを念頭にして、登場人物たちにしきりと「涙」を流させる。
     ところが「地点」の三浦基は、彼ら彼女らに一切の涙を流させない。泣きの芝居を入れない。それどころか、舞台を終始支配するのは、狂気に満ちた「哄笑」である。
     この「感傷」を徹底的に排除する姿勢は面白い。三浦基は原作戯曲をいったん解体し展開を変えて再構成、四幕のものを一幕の超ダイジェスト版にスピードアップして見せるが、これはチェーホフの否定ではない。原作の描いた「感傷」の果てには「狂気」がありえることを、演出家が喝破した、一つの解釈である。

    ネタバレBOX

     日本の女子校の演劇部には、例年卒業制作として『桜の園』を上演するところがあるというが(笑)、それは、日本においてはチェーホフのロマンチシズムあるいはセンチメンタリズムのみが抽出されてきたことの象徴的な現象だろう。
     近年は初期作品も含めて、ユーモリストとしてのチェーホフが再評価されているが、『桜の園』も本来は「喜劇」としての側面が強かった。「桜の園」に執着するラネフスカヤ夫人の姿は普通に鑑賞すればかなり滑稽なのである。
     日本の新劇は、これを「感傷劇」として定着させた。今回アフタートークで指摘されたことでもあるが、これには日本語とロシア語という言語の違いも原因としてあるだろう。あっさりとしてテンポのいいロシア語に比べて、日本語はどうしても感情を“溜め込む”。貴族の台詞ともなれば、既に日本人には日本的なイメージ、「山の手」的な、あるいは「皇室」の気品と優雅さを備えた言い回しが前提とされてしまう。母親は「お母様」であって「ママ」ではないのだ。
     こういった「チェーホフの日本化」は、新劇のみならず、文学では太宰治『斜陽』に、映画では吉村公三郎『安城家の舞踏会』での没落華族の描写にも影響していく。これらはよく言えばチェーホフと日本との幸福な融合であるが、見方を変えれば「どこの国の話だ」という違和感、非現実感を生んでしまうことになる。チェーホフの「現代化」における新たなアプローチは、この「違和感」をどう解消したらよいか、という点にかかっていると言える。

     舞台の中央には「窓枠」の山が積み上げられている。床には一面、一円玉。四方を取り囲む長大な“ベンチ”はプラットホームの謂いだという。
     「桜の園」の人々は、その「窓」に囚われている。舞台上を彼らは殆ど動かず、立ちつくしたままだ。彼らの喋る言葉に抑揚は存在するが、感情には明らかに欠落がある。前述したように「哀しみ」の感情が極力排除されているのだ。
     もちろん原作でも一家は「桜の園」に執着し続けるのだが、それは自らの没落を受け入れれば、未来に絶望しか見出だせなくなるからである。
     しかし、この舞台の「桜の園」は言わば精神病院であり、彼らは「窓」という鉄格子の中に閉じ込められてはいるが、精神の欠落ゆえにかえってその心は解放されている。
     ハッとさせられるのは彼らの「哄笑」を聞いた瞬間で、「感傷」を捨て去り、哀しみが狂気に変換されれば、たとえ鉄格子の向こうにいようとも、人間はこんなにも自由になれるのだ、という事実だ。実際、物語の最後になっても、一家は「さよなら」と言いつつつ、自らの立ち位置を変えることはない。彼らは「どこにも出ていかない」のである。
     原作と違い、ラネフスカヤ夫人のモノローグで終わるこの「桜の園」は、子宮の中で眠る、幸福な「胎児の夢」を描いているのだ。

     しかし、登場人物を全て狂人にしてしまうという大胆な手法は、反面、キャラクターへの観客の感情移入を拒むことにもなる。安易に舞台に狂人を出せないのはそのためだ。
     狂人だけでなく、愚か者、僻み者、悪人、犯罪者などのアウトローに観客がシンパシーを抱くためには、彼らを相対化するための「常識人」が舞台上に必要になる。『男はつらいよ』の寅さんが乱暴狼藉を働いても「善人」と見なされるのは「とらや」の人々が彼の「本質」を見抜いてあげるからだし、『レインマン』のダスティン・ホフマンの感情の欠落した振る舞いの更に奥底に人間らしい感情があることを見抜くのは、トム・クルーズの役割なのだ。
     本来なら、その役目は桜の園を買い取るリアリストのロパーヒンが受け持たなければならないところだろう。ところがベンチの上を歩き回り、舞台上で踊りまわり、たまに一円玉に足を滑らせ、さらに金をばらまく「自由度」を獲得している彼もまた、一家と同じく「狂気の人」なのである。
     彼は物理的には一家を救いはするが、精神的に、“観客のために”一家を救いはしない。彼もまた観客の感情移入を拒んでいる「あちら側の人」なのである。
     結果として、狂人だけの舞台は単調なものにならざるを得ないが、そうしたリスク、あるいはハンディを引き受けてなお、三浦基はこの戯曲から「感傷的要素」を除去したかったのだろう。固定化しているとも言えるチェーホフの戯曲解釈に一石を投じ、観客が安易な感動に流れることを拒絶、演劇の感動とは「涙だけではない」ということを示したかったのだと思う。
     外に出て行かないラストシーン一家の姿は、そのまま「幸福な家族のポートレイト」として通用する。幸せは「狂気の果て」にも存在しているのではないか、三浦基はそう主張しているようにも思えるのである。

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    2011/05/22 09:32

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