ねずみとり 公演情報 ゲキダン大河「ねずみとり」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度

    素養のないもの通しゃせぬ
     アガサ・クリスティーの、言わずと知れた世界最長ロングランを現在も更新中の本格ミステリーである。
     マザー・グース「三匹のめくらネズミ(劇中では『目の見えぬネズミ』と翻訳)」の調べに乗せて起きる連続殺人。クリスティーお得意の「童謡殺人」もので、しかも舞台は閉ざされた雪の山荘。集められたのは正体を隠した一癖も二癖もある人物ばかり。犯人はいったい誰か? ミステリーファンには垂涎の筋立てだ。
     『検察側の証人』『そして誰もいなくなった』と並んで、謎解きの難易度が高く、クリスティー戯曲の中でも傑作と評されるが、これだけ有名な作品だと、既に犯人もトリックも一般にかなり浸透している。しかし二度、三度観ても楽しめるように数々の「仕掛け」を施しているのがクリスティー戯曲の醍醐味だ。その「仕掛け」を俳優がいかに演じきるか。観客の楽しみはその点に集中する。
     ところが実際の舞台を観る限り、演出にも俳優にも、その「仕掛け」の意味が理解できているようには見えなかった。「ミステリーを愛好するには『素養』が必要だ」と主張したのはミステリー評論家兼映画評論家の故・瀬戸川猛資氏だったが、その「素養」が制作者たちには決定的に欠けているのだ。
     ミステリーを書こうと思う者、舞台に掛けようと思う者は、すべからく氏の言葉の重みを噛みしめておくべきだろう。

    ※ネタバレBOXには、トリックについて詳細に述べておりますので、未見の方は決してお読みになりませんよう、お願い申し上げます。原作戯曲はハヤカワ文庫で読めます。

    ネタバレBOX

     謎解き中心のミステリー戯曲を演じるに当たって、最も難しいのは、登場人物の全てにダブルミーニングの演技が要求される点である。
     犯人以外の人間もまた犯人らしく見せかけるためには、「犯人らしい行動」を取ってもらうしかない。しかし真相が明かされた後では、犯人以外の人物の行動は、どんなに犯人らしく見えていても、「別の意味があった」と観客に納得させなければならない。

     たとえば、主人公夫婦のモリーとジャイルズ。
     彼らは第一の事件当日、それぞれ別々に山荘を離れて事件のあったロンドンに出かけていた。なぜそのことを秘密にしていたのか、彼らはお互いをなじる。実は翌日が二人の結婚記念日で、それぞれがプレゼントを買いに行っていただけなのだが、その程度のことなら、さっさと喋ってしまえばよかったではないかと、あまりにあっけない理由に観客は唖然としてしまう。
     そう観客に思わせてしまってはいけないのだ。戯曲を子細に読めば分かることだが、彼ら二人は、決してお互いを犯人ではないかと疑っていたわけではない。いや、全く疑っていなくて、ロンドンに出かけていた理由も見当がついていたのだ。なのに、妻の方は刑事から夫が犯人かもしれないと言われて、夫の方は妻が客のクリストファにご執心なのに嫉妬して、ついお互いの「秘密主義」にむかついただけなのだ。
     つまりこれは最初からただの“痴話喧嘩”なので、あまり悲愴な感じで演じてはいけない。どこかに「甘さ」を残しておかないといけない。そうすれば真相が判明したあとで、「そう言えばあの時のケンカは激しいようでいてどこか相手に甘えるようなところがあったよなあ、疑心暗鬼にとらわれて怖がっていたわけでもなかったなあ」と観客は気がつくのだ。
     ところが今回の舞台上の二人は、本気でののしりあっている。これは完全に解釈を間違っている。だいたい、「本気で相手を疑う」演技をされてしまっては、「二人とも犯人ではない」と観客に思わせることになるではないか。観客に「どちらかが犯人ではないか」と錯覚させるためには、演技を抑制しなければならないのである。

     そして三角関係の一端を担うクリストファを、原作の男から女に変更したことも、戯曲を台無しにする結果となった。
     原作のクリストファは、簡単に言ってしまえばオタクである。しかもやや病的で幼児的な。だから犯人だと疑われても仕方がなく、その彼をモリーが同情してかばうから、ジャイルズは嫉妬することになる。
     それを女性に変えてしまっては、三角関係自体が成立しなくなる。舞台ではモリーとクリストファーが、ジャイルズから百合だと疑われる設定になっていたが、それじゃあ夫は嫉妬する以前に戸惑うだろう。それにクリストファが女の子だと、やたら自意識過剰なお喋りでも「この年頃の女の子にはよくあることだよねえ」で終わってしまう。殺人を犯すほどの狂人には見えないのだ。

     さらにパラビチーニをやはり女に変えたのも、クリスティーの趣向を無意味にしてしまう結果になった。戯曲にしっかり書いてあることだが、パラビチーニはエルキュール・ポアロそっくりの風貌なのだ。観客はラスト近くになるまで、彼が実は名を隠したポアロではないかと疑う仕掛けになっているのだ。女性に変えてしまってはこの趣向が完全に台無しになる。

     せっかくの仕掛けを全て無にしてしまっているので、「犯人じゃない」登場人物を排除していくと、結局は消去法で「犯人」が分かってしまう。あまりにもクリスティーの戯曲と乖離してしまっている。
     劇団としては、男性の所属俳優が少なく、苦肉の策で女性に性別を変えたのだろうが、それならトリックそのものを変更して、新しいトリックを考案するくらいのことはしてもよかったのにと思う。

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    2011/05/15 03:28

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