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2017年度 1-10位と総評
「蝉の詩」

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「蝉の詩」

劇団桟敷童子

桟敷童子の公演は決してハズレはない―それを再認識させた舞台だった。
17年の桟敷童子は4回観たこの「蝉の詩」と、5回観た「標〜shirube〜」の2つ。さてどちらをベスト10に入れるべきか随分迷ったが、総合的にみてこの「蝉の詩」を選択。

公演が始まる前に4ステージ分の予約を済ませていたのだったが、後悔はしなかった。第1回目の観劇は2日目のソワレで、某大手出版社の相談役(昨年まで会長)と小澤征爾氏の一番弟子で国際的に活躍されている指揮者の方との二人をお誘いしてのものとなったが、お誘いして間違いはなかった(出版社相談役には昨年12月公演を初めて観ていただき、その後「桟敷童子の公演は必ず誘ってくれ」と言われていた。そもそも3年前の花園神社野外芝居での東憲司作・演出「廃墟の鯨」で初めて観劇をご一緒したのだったが…)。 

舞台全体を覆い尽くすかのような緑の葉…開場時から蝉の鳴き声が響き渡っている。上手手前に胸くらいの高さまでの水溜めが作られているが、思わず2年前の8月公演「エトランゼ」を思い出してしまった。まさか、またあそこから大手忍が飛び出してくるんじゃないだろうな(笑)。 

下手脇の花道様の張出舞台にはアイスクリーム売りの手押し車が置かれているが、開演10分前に鈴木めぐみが登場し、そこでうらぶれた老女としての演技を始める。まだ客席案内の声が飛び交う中でもあり、ほとんどの客の目は当日パンフやスマホの画面に向いており、または連れとの雑談ばかり。が、これは勿体ない。鈴木の演技はなかなかの見もので、さらにそれを注視していることで東憲司がこの作品に籠めたテーマが浮かび上がってくる。
因みに当日パンフの表紙に“作:サジキドウジ、演出:東憲司、美術:塵芥”と書かれているが、これは全て東のことである。 

ここ数公演、前説と開演の宣言は若手の内野友満が担当しているが、この日も元気一杯にこなして、ほぼ定刻に開演。上演時間2時間10分。 

冒頭、スポットに浮かび上がった鈴木めぐみが蝉に語りかける。彼女がこの緑地公園で暮らし始めてから3週間(要するにホームレスという訳だ)、が彼女は以前この地区で暮していたと言い、5歳で初めてここに来た時は石炭で遠賀の川は真っ黒だったと語りだす。そして場面は昭和25年の夏に…。
舞台に3人の女が登場するが、うち一人は血に塗れた包丁を手にしており、人を刺してきたとやや震えを帯びて声で告げるが、後の二人は「よくやった」「あんな男は死んで当然」などと力づける。この3人は姉妹で、長女・壱穂が刺したのは父親であり、石炭の運搬で一帯に名を鳴らした舟運送会社の親方・鍋嶋六部(通称:鍋六)だった。この場面で客の気持ちはグッと舞台に引きずりこまれ、それ以降はストーリーの展開に引きずられ放しで、一瞬として気を逸らせない。いつもながら見事な構成の脚本だ。 

鍋六が刺された時に背負っていた大きな籠には、彼が飯盛宿の女に産ませた末娘・織枝が入っていた(やっぱり大手は思いがけないところから出てくる。笑)。こうして物語はこの四姉妹と鍋六、その周囲の人々との関係の中で展開していくのだが、時折下手脇の老婆にスポットがあたり、彼女が蝉に語りかける言葉がエピソードの繋ぎとなっていく。 

舞台となっているのは“かけや町”と聞こえるのだが、遠賀川の流域というから芦屋町辺りがモデルか。鍋六はいわゆる「遠賀の川筋者」であり、気性の激しい我侭勝手な男として描かれているが、それを演じる佐藤誓が実にウマい。傍若無人とみせながらも、終盤で織枝に刺された後で一人残った亀吉にだけ「オレがここで死んだら織枝が人殺しになってしまうじゃないか」と言って、舟に乗り遠賀川を流れていく…。四姉妹と激しくいがみ合いながらも、その底に流れていた心情が垣間見えて胸をうつ。 

壱穂役の板垣桃子と土井垣鳴明堂社長・亀吉役のもりちえも素晴らしい。板垣は「泳ぐ機関車」「夏に死す」そしてこの「蝉の詩」と並べてみると、本当に演技の幅が広くなってきた。次女・菜緒役の井上カオリ(椿組)もいいし、三女・輝美役のみょんふぁも2月のアトリエセンターフォワード「路地裏海賊譚 カコノユクエ」とは全く違った役柄をうまく演じている。そういえば「路地裏海賊譚」で近しい役を共に演じた中野英樹とはこの舞台でも思い合う仲だが、その中野の汗のスゴサは尋常じゃなかった(始終ボタボタと床に滴り落ちている)。
織枝役の大手忍は中盤で中学生に成長した後は極めて自然体に見えるが、そう見える演技を(一見やすやすと)できるのが彼女の能力の高さだろう。 

鍋六や壱穂が仙造(稲葉能敬)や稲盛(中野英樹)に暴力をふるう場面では、稲葉や中野の体が激しい勢いで舞台に立ててある杭にぶつかりそうで、ハラハラさせる。ここらも随分と稽古が重ねられたのだろう。大手の右の二の腕に傷跡があったのは稽古の時のものだろうか。 

3人の姉は事故死したり病死したり自殺したりとそれぞれに亡くなって、「とびっきりの人生を送りたいとです」と言っていた織枝は今ではその日のお金にも困るホームレスとなってしまい、蝉にとっては最期の7日目を思い出が詰まった公園(かつての鍋嶋舟運送の跡地)でとやってきたのだが、死の直前に思い出の中に登場した全員から「歯を喰いしばって生きろ」と声をかけられ、「まだ生きなきゃいけんのか」と呻きながらもアイスクリーム売りの手押し車を押し、旗を振ってそれに応える…生きることの苦しさが伝わってくる、残酷といえば残酷な結末である。
故に終演後に重いものが残りはするが、「いい芝居を観た」という満足感がひしひしと湧き上がってくる。これが3,500円(この日は割引デーで2,800円だった)というのは驚愕しかない。 

因みに私は佐世保市の出身で、織枝の夫となる倉橋はピカドンの時に佐世保に居て助かったという設定に思わず反応してしまったのだったが、8月9日は佐世保に隣接する東彼杵郡波佐見町にあった母方の祖父母の家からでも長崎市が焼ける炎で夜空が真っ赤に染まっているのが見えたという。

グランパと赤い塔

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グランパと赤い塔

青☆組

初日の開演1時間半前には劇場に。全席指定席だからそんなに早く行く必要はないのだが、逸る心が抑えきれなかったのだ。

「グランパ」という言葉で私がすぐに思い出すのは、石原さとみのデビュー作である「わたしのグランパ」。03年の映画で、筒井康隆の原作、菅原文太がグランパ役だった。この映画で石原を観て、これはいい女優になるなぁと思ったものだったが、その予感は間違っていなかった。
そういえば青☆組の土屋杏文(この下の名前をなかなか読めなかったのだが、「つちや・あずみ」と読むらしい)も青☆組加入後の最初の舞台は青☆組ではなく、おおのの「さよなら、先生」(16年4月)だったのだが、その時にも「これはいい女優になるな」と直感し、たまたま客席におられた藤川修二さんに終演後に「青☆組、楽しみな女優が入りましたね」とお声をかけたことを思い出す。

客席に入り、セットの全景を見て、先日のけいこ場見学(チケット早期予約者の中から抽選での特典)の時の床にテープで示されていた配置図とホワイトボードの図面を思い出しながら、「なるほどこうなるのか…」と納得。上手に洋間、下手に和室とそれを取り囲む廊下、中央やや上手寄りに2階に続く階段(途中に小さな踊り場が)がある。

戦前から続く工業所を営む一家の昭和44年とそれを遡る33年の物語。

開演5分前に貴子(福寿奈央)が登場、家のそこかしこに残る思い出を懐かしむようにゆっくりと見て回る中を、作・演出である吉田小夏による前説。この小夏さんの前説の時の声が本当にいい。毎回この声を聴くと心が和むのを感じる(笑)。上演時間135分。

舞台は貴子の母親であるりつの初盆。遅れてやって来た貴子の二人の娘・ともえと幸子の前に女中の和子は押入れの天袋の中から見つけたといって天体望遠鏡を持ってくる。やがてその部屋に一人になったともえはその天体望遠鏡をのぞき込む。と、その後ろにグランパと祖母、そして居候だった鼓太郎が運転手姿で現れる。鼓太郎の「茄子の牛の牛車(のアイドリングに)は時間がかかる」という台詞に思わずニンマリ(最近の若い人は“茄子の牛”と聞いてもピンとこないかもしれない…)。そして舞台は11年前に…。 

さて、この冒頭の場面でアポロ11号の月着陸が話題になっているが、アームストロング船長が月面に「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍」である人類初の足跡を付けたのは日本時間で昭和44年(1969年)7月21日正午ちょっと前で、その日が月曜日だったことも鮮明に覚えている。夏休みに入っていたものの、当時中学生だった私は図書委員の仕事で登校せねばならなかったのだが、早めに切り上げて、胸躍らせながら帰宅してTVにかじりついたものだった。西山千さんの同時通訳が印象に残っている。 

昭和33年。工業所の社長である加納盛(グランパ)の存在は絶対的なものだったが、好人物でもあり、誰からも慕われていた。同居する娘夫婦の夫・次郎は完全な亭主関白でなにかと口うるさく妻・貴子を叱りつけている。その反動でもないのだろうが、貴子は娘たちに厳しく、娘たちは女中の和子に慰められている。次女の幸子は風邪をこじらせていたかと思っていたら実は結核で、療養所に隔離されてしまう。この家の敷地内には工業所従業員の独身寮もあって、従業員たちも始終この家に出入りしている。ここに盛が建設中の東京電波塔(東京タワー)の工事に携わっている小林を下宿させるために連れてくる…。
これらがともえの視点で描かれていくのだが、群像劇としての厚みも加わり、観応えがある。 

盛や次郎の帰宅を土下座して迎える様など現在からみれば多少オーバーに思えるかもしれない(私の家でもさすがにそこまではなかった)が、当時は家長はそれくらい大きな存在だったのだ。
従業員の独身寮が敷地内で一緒になっているほど大きな家で女中もいるのに、風呂は銭湯に行くというのも、懐かしさを覚える(江戸末期には大店の商家でも内風呂を持つようになったものの、本格的な内風呂の普及は第二次世界大戦以降の高度成長期になってからなのだ)。無論、私のように小さな家で少年期を過ごした(今もだが…)者にとっては、銭湯はごく当たり前のことだった。銭湯にはちゃんと湯桶が置かれているのに、行くときに自前の桶や洗面器に石鹸箱などを入れて持って行ったのも、今考えるとちょっと変なのだが、それが普通だった(かぐや姫が歌う「神田川」の中で♪小さな石鹸 カタカタ鳴った♪というのは、きっと洗面器の中で石鹸箱が音を立てているのだ)。 

いかん、いかん。こんな自分の子供時代に重なる作品を観ると、ついつい懐旧談が長くなってしまう。これも歳をとった証拠…。 

妻に口うるさい次郎が実は心の奥では妻を思っていたことが、終盤になって明らかになるのだが、そのきっかけが、劇中で何度も流れていた唱歌「冬景色」。この選曲も実にいい。この曲を口ずさんでいた妻のことを次郎が懐かしむのが終戦直後の南洋だけにその歌詞が一層際立つ。
そして、この終盤で、劇中のそこかしこに見えていた戦後10年以上経ってもまだ癒されぬ影がくっきりと浮かび上がる。こうした作劇は声高に戦争反対を叫ぶよりもずっと戦争のもたらす悲しさを訴えてくる。見事という他はない。 

今回の舞台で面白かったのは役者陣で思いもかけない姿が見れること。どちらかといえば無機質な感じを与える小瀧万梨子がコミカルな演技を見せたり、竜史(20歳の国)のニッカボッカ姿なんてのもちょっと他では見れないだろう(因みに私がニッカボッカという名前を知ったのは大学に入ってワンダーフォーゲルに入部してから。こう見えて山男だったのダ。10年ほど前までは毎年北アルプスで登山道の整備などのボランティア活動もやっていた…)。
鼓太郎を演じる藤川修二も軽妙ながらもその人生を感じさせる演技をみせる。
そして、序盤では幸子を、その後の昭和33年の部分では母親・貴子を演じた土屋杏文…本当に上手くなった。20代半ばである彼女から昭和の女性らしい雰囲気が滲み出すのも驚きだ。 

すぐに影響をうけるワタクシ、観劇後にレモン水を飲みたくなったのだが、劇場を出ると寒かったので帰宅後レモン湯を飲んで(いい子なので)早々に就寝…(笑)。

60'sエレジー

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60'sエレジー

劇団チョコレートケーキ

チョコレートケーキが古川健作・日澤雄介演出という現体制になってから戦後の日本を描く作品は劇団の本公演としては初めてではないか(トム・プロジェクト主催だと「スィートホーム」「挽歌」という作品があったが…)。しかも、奇しくも同時期に上演中の桟敷童子「蝉の詩」と同時代の物語である。 

開演40分前に受付(整理券配布)開始というので1時間前に劇場着。が、すでに3人が並んでおり、受付開始時には20人を超えていた。チョコレートケーキの人気の高さがわかる。
そもそも16年12月の「治天ノ君」再演東京公演ではシアタートラムを予約だけで全ステージ完売させ立見も出たほどなのに、それでもサンモールスタジオという小空間に戻ってこようとする心意気が嬉しい。 

舞台上手に卓袱台が置かれた6畳間。下手はガラス戸に小林蚊帳と書かれた小さな町工場の入口と土間。入口近くに足踏み式のミシンが置いてある。下手端が作業場に続くガラス戸になっている。 

前説は制作担当の菅野佐知子。5分遅れで開演。上演時間2時間15分弱。 

物語は築40年位の古いアパートの一室で老人が自殺し、事件性の有無を確認するために刑事がやってくるところから始まる。部屋はきれいに整理され、覚悟の自殺であったことが窺えるが、派出所の巡査は刑事に大学ノート1冊にびっしり書かれた遺書を差し出す。その遺書を読みだす2人(高橋長英が声のみの出演で老人を演じており、刑事が遺書を読む声に重なっていく…)。
そして物語は昭和35年、会津から集団就職でこの三代続く蚊帳工場に修三がやってくる場面へと時間を遡る。 

「三丁目の夕日」のダークサイド版といった感じの展開であるが、蚊帳というアイテムに時代の流れを反映させる手腕が見事だ。役者陣も皆が真摯にこの時代の日本人と向き合っている。

「地獄谷温泉 無明ノ宿」横浜公演

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「地獄谷温泉 無明ノ宿」横浜公演

庭劇団ペニノ

とんでもない芝居を観た。終演後は呆然となり、演劇を観るということのもの凄さがひしひしと身体を満たしていった。全ての人にオススメできる作品とはいえないが、横浜まで足を延ばす価値は充分にあった。

舞台装置(なんと4面の廻り舞台だ!)といい、役者陣の演技といい、鄙びた湯治場という空気感がひたひたと観客席を包んでいく。序盤から舞台に吸い込まれてしまった。

デッド・ビート・ダッド!

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デッド・ビート・ダッド!

演劇企画CRANQ

この団体は2度目の観劇。
16年11月の「プリモ・ピアット~おいしい関係~」はレストランを舞台にしての、リーディング形式ながらも、全員がプロの声優ということもあって、楽しめる舞台を創り上げていたので、まず間違いないだろうとは思っていた。 

日曜のソワレだというのに19時開演というのも最近ではちょっと遅めの時間設定だが、劇場に着いて入口ドアに貼ってあった上演時間を見てちょっとビビッた。終演が21時15分なのだ。普通だったら何ともないが、なにせマチネで3時間の舞台を観てきたばかり…腰は大丈夫だろうかと不安が頭をよぎる(笑)。 

で、受付から物販コーナー、客席案内に至るまでスタッフは全員喪服か黒服。当日パンフを開けば隅には“お清め塩”の小袋が貼り付けてある…この徹底ぶりは見事だが、不安がますます募る(爆)。 

舞台には客間と茶の間の2間続きの部屋が設えられ、上手は庭と満開の桜の樹。下手は玄関らしいが(開演してそこが工房へ続く入口だとわかった)、なぜかマジンガーZの等身大模型が…。このセットが障子の後ろまできちんと造りこんであって重厚感を滲ませる中で、開場時から客席にはグレン・ミラーの曲が流れている。 

開演12分前に男(蔵之助)が下手から六十餘洲の一升瓶を持って登場し、部屋を抜けて庭に出、桜の花を眺めながらぐい呑みを傾け始め、それが開演まで続く。 

定刻に開演、実際の上演時間は2時間20分強。開演と同時に蔵之助はそのまま眠るように息を引き取る…。 

異才の陶芸家・矢島蔵之助の通夜の夜、長男・聡と次男・勇二が葬儀の際の遺族挨拶をどちらがするかで口論している場面から物語が始まる。妻の家に入婿となり現在は東京で暮らす聡は父と暮してきて工房の跡継ぎである勇二がするべきだと言うのに対して、勇二はあくまで長男がやるべきだと言い張る。実はこの冒頭が終盤に意味を持ってくるのだが、ここらの展開がウマい。 

が、まず私が驚いたのは聡とその妻・恭子以外の全員が長崎弁、それも私の故郷・佐世保に近い方言なのだ。長崎県で窯元というと、舞台となっているのは三川内か波佐見だろう。冒頭に六十餘洲が出てきたことを考えれば波佐見か…(佐世保から東に三川内・波佐見と繋がっているが、三川内焼と波佐見焼は全くの別物)。
実は私の母方の死んだ祖父は波佐見の窯業指導所に勤めており、私は幼児の時に母が病弱で長期入院生活を送っていたために波佐見の母の実家に預けられており、陶磁器(焼き物:“やきもん”と言っていた)は身近な存在だったし、私は今でも(劇中の亜希子と同じように)叔父と叔母を“にいちゃん・ねえちゃん”と呼んでいる。
因みに現在日本で売られている博多人形の9割は、福岡県ではなくこの長崎県の波佐見で作られているという。
そういえば私の高校の2年先輩には村上龍がおり、同級には世界で初めて携帯電話をインターネットに繋げたシステムi-modeの開発者・松永真理(3年の時は同じクラスだった…)やダウンタウンを発掘したTVプロデューサー・菅賢治が、後輩には「永遠の1/2」などの佐藤正午や「オバタリアン」の漫画家・堀田かつひこなどがいるが、2年後輩に六十餘洲の蔵元の娘もいた。彼女は毎日片道1時間半バスに揺られて波佐見から佐世保市の中心近くまで通学していたのだった(すごくカワイイ女子だった。40年以上経った今でも顔を思い出せる…)。 

閑話休題。物語は陶芸界で名を成しただけでなく、酒に女にと(キャバクラ通いをしてキャストに「君をろくろで回してみたい」などとホザいていたそうだ、笑。その台詞に私はおもわず「ゴースト/ニューヨークの幻」のエロチックなシーンを思い出してしまった)好き放題に生きて死んだ蔵之助の思いもかけぬ遺言と、次から次に現われる隠し子たちをめぐって大騒動が展開されるのだが、(“号泣”はしないものの)時折シンミリとさせる場面も散りばめて、見事なワンシチュエーション・コメディに仕上がっている。ただ2時間20分はやや長く感じさせたのも事実。 

遺言書が最初に登場した場面で「あ、それ開封しちゃマズイでしょ」と思ったのだが、そこは中盤に登場した弁護士が遺言書は家裁で検認を受ける前に勝手に開封してはならないことを説明することで、この作者(佐藤秀一)がきちんと理解した上で書いていることがわかる。が、それにも関わらず、終盤に次々と出てくる遺言書をためらいもなく開封していくのはどうしたことか…。
聡が蔵之助と血が繋がっていないことも、戸籍謄本には養子縁組の記載があるはずなので、誰もそれを知らなかったというのはちょっと不自然。 

それにしても、普通このテの方言を多用した芝居は、地元出身者からみれば、どこかしら「あ、そこはそういう言い方しないよ」と思う部分が散見されるものだが、この舞台では長時間にも関わらず、多少イントネーションが綺麗すぎる感はあったものの、そういう不自然な言い回しや標準語に逃げることが全くない(「お前」をきちんと「われ(わい)」と言っていたのには正直驚いた)。役者の皆さんはそれを覚え、自然と口について出るようにするのにさぞ苦労したことだろう。間の取り方もよく、全員が熱演だった。 

ドアを開ければいつも

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ドアを開ければいつも

演劇ユニット セミマツ

この作品、“みそじん”という団体が役者を替えながら築地の古民家で頻繁に公演しているが、ここに挙げたのは“セミマツ”というユニット。が、演出はみそじん版と同じく劇団道学先生の青山勝だ。
私にとっては初見の作品となるが、今回観てみようと思ったのは、青山開催のワークショップで知り合ったのだというこの4人のユニットの中に、気になる女優の土屋咲登子と松村沙瑛子が加わっているからだった。 

チラシの写真は、この雰囲気といい、「深夜+1」(ハードボイルド小説が何よりも好きだった故・内藤陳が開いた店だ)の看板といい、どうやら新宿ゴールデン街のようだ。 

さて、この会場となる古民家asagoroは16年1月末に鬼の居ぬ間に「厳冬-父殺し編-」「同-子殺し編-」を観て以来、13ヶ月ぶり2度目となるが、今回は雨中にも関わらず迷わずに開演50分前に到着。玄関の庇の下で開場を待つ。 

30分前に開場されて、玄関で靴を脱ぎ中に入る。椅子席と座布団席に分かれているが、迷わずに椅子席に。
「厳冬」の時と同じく、この古民家全体がひとつのセットとなる。上演時間1時間40分。 

舞台となるのは1985年の年末のある一夜。次女のまきこ(土屋咲登子)が取り込んだ洗濯物を畳んでいると、長女のけいこ(宮牟禮郁美)が「ただいま」と声をかけて入ってくる。
二人の会話からこの家には現在まきこと父親の2人だけが住んでおり、末娘のちえ(松村沙瑛子)はしばらく前に父親と喧嘩して「一人で暮らす」と家出したらしいが、荷物はほとんど置いたきりで、時々取りに戻っているらしい。そこへ三女の芸術家・ひろみ(関根麻帆)も、そしてちえも帰ってくる。
亡き母の七回忌を翌日に控え、父親が大阪出張で翌日出張先からお寺に直行するために居ないのを幸い、久々に四人姉妹が集まったのだ。
互いの近況を報告しあったり、2階の部屋への突然のひどい雨漏りに大騒動したり…と、楽しい時間があっと言う間に過ぎていくが、次第にそれぞれの秘密や抑えてきた心情が漏れ始める。
まきこは母が入院した時に誰も頼れず(長女は夫の転勤と子供の入学で奔走していた)一人で父や妹の面倒をみねばならなかった無理から身籠っていたのに流産してしまっていたり、父親は母が死んだ時に浮気旅行中だったなどというショッキングな事実が明かされていく…。 

この4人の息がぴったりと合って、素晴らしい会話劇を創り上げている。それぞれのキャラクター表現も見事の一言。この家全体の空気感とも調和して、文句無く堪能した。できれば年に1回は再演してほしいものだ。 

父親を毛嫌いするひろみにちえが「お父さんなんていいほうだよ。会社に行ったら変なオジサンばっかしだよ」と言うのには思わず笑ってしまった。きっとワタシも“変なオジサン”と思われてるんだろうナ。 

姉妹が時折口にする「森の小道」のメロディや、卓袱台の上の水仙の花など、ちょっとしたものが効果をあげている。ただ、夜も遅い時間に明るい室内から暗い庭をガラス戸越しに見ても花なんぞ見えないと思うのだが…。 

思わず目を見張ったのは入浴中のちえが雨漏りの騒ぎに驚いて飛び出してくる場面。な、なんと、松村がバスタオルを巻いただけの格好で現われるのダ。“変なオジサン”は瞬きすら忘れてしまったゾ(爆)。 

それにしても、4人が深夜の間食に食べるペペロンチーノがあまりに美味しそうで、私もたまらずに帰宅後ペペロンチーノをたっぷり作って食べたのだった(あぁ、また腹部がひと回り…。笑)。 

※この舞台を観て、本家ともいえる“みそじん”版も観たくなり、4月上旬に小林さやか・松本紀保・大石ともこ・鈴木朝代によるものを観たが、この3月の“セミマツ”版の方が格段に良かった。

見よ、飛行機の高く飛べるを

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見よ、飛行機の高く飛べるを

劇団青年座

16年は青年座の公演は5作品を観たが、そのいずれもが老舗劇団の実力を存分に発揮した秀作ばかりだった。
17年最初の青年座となるこの作品は3年前の5月に青年座創立60周年記念公演の第1作として本多劇場で上演された時に観ているが、その時まで永井愛の代表作ともいえるこの作品(私は最初に現代劇センター真夏座で観たのだったと思う)が青年座のために書き下ろされたものだったのだとは恥ずかしながら知らなかった。
 
今回の公演は神奈川や北日本の演劇鑑賞会の公演として行なわれるが、終盤の練馬・福島・会津だけは一般公演だ。練馬文化センターは小ホールといえども客席数は588と、本多劇場のそれ(386席)よりも1.5倍強の大きさがある。明治時代の女子師範学校を舞台にした女学生たちの反乱と敗北と飛翔の物語がより大きな空間で羽ばたく様をぜひ観たいと思って予約を入れたのだった。ただ、開演時間が18:30と早いので、勤務先から1時間の時間休暇をとらねばならなかったが…。 

開演時間間際に大勢の客が受付に殺到したとのことで、若い男性スタッフが汗を拭きながら開演が遅れる旨の詫び。5分以上たったところで、再度の詫び。結局、開演は15分遅れとなった。 

舞台のやや上手寄りに2階へと続く階段が踊り場付で設置され、下手側に廊下を挟んで談話室が、上手側にはいくつものドアがあり、茶飲み室・舎監である菅沼先生の部屋・屋外へと通じている。ここは岡崎にある師範学校の女子部寄宿舎、時代は明治末期である。
女学生たちの反乱と敗北と飛翔の物語であるが、開校以来の秀才で教師間から“国宝ちゃん”と渾名されている光島延ぶのモデルとなっているのは作者である永井愛の祖母だという。他人のものまねをするのが上手く、誰からも愛される人気者延ぶの前に2年下の杉坂初江が現われることから延ぶの、そしてこの女子師範学校に大きな転機が訪れる。 

女学生たちによる、言ってみれば学生運動のハシリの顛末というような作品である。が、その中で明治という新しい時代に生まれて、単なる良妻賢母ではない女性の生き方を模索する様や男女関係への憧れといったものが巧みに描きだされる。
永井愛は51年生まれというから私とほぼ同世代、学生運動は一時の隆盛が翳り始めた頃ではあるが、まだまだ活発だった時代に青春を送った世代である。そういう意味では永井自身の心情や思い出のようなものも反映しているのであろう。私の大学は日本最初の学生運動を行なったところとして知られ(その様子は小川プロによって「圧殺の森」というドキュメンタリー映画にまとめられた)、私が学生の頃も中核派が学内を席巻していた。私は基本的に真面目な学生(笑)でどのような政治的活動も行なっていなかったが、ある時中核派が行なった全学ストでスト破りを決行したことがある。講義室にいるとたちまち中核派に取り囲まれたが論戦し、30分たつと(その大学では教師が30分たっても現れないと自然休講という決まりになっていた)「次の時間は○○教室に居るから」と言い置いて心中ドキドキしながら講義室を出た。それを4~5回も続けたら、中核派もあきれて、来なくはなったものの(当然教師も来なかったが、笑)、壁新聞に「学園擁護派○○を抹殺せよ!」と名前を挙げて書かれ、かなりビビッたのだった(爆)。こういう作品を観ると、あの頃のことが思い出されてしまう。 

劇中で延ぶと初江が仲間たちとの深夜の会合で田山花袋の「布団」を読んで感想を言い合う場面があるが、私もその内容を実感として捉えられるようになったし、肉欲に駆られてやましいことをやった覚えもある。欲望の蠢くときというものは体の中は只事ではないものがあるものだ。 

延ぶ役の安藤瞳、初江役の小暮智美、大槻マツ役の尾身美詞と、5つの老舗劇団の7人の女優で結成されたユニット・On7(オンナナ)メンバーの内の青年座3人が3年前と同じ役で顔を揃えるのも嬉しい。殊に尾身が印象的。でも、小暮の演じる初江…正直言ってこんなキャラクターとはお友達になりたくないなぁ(笑)。
年輩の教師陣はしっかりと若い女優陣を支えて、老舗劇団の層の厚さを実感する。 

途中休憩15分を加えて上演時間3時間…充実した舞台だったが、終演は21時45分。閉館時間が迫っているとかで、ホールの警備員がロビーで談笑する客を追い立てるという慌しい終幕となった。

金色夜叉『ゴールデンデビルVSフランケンシュタイン』

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金色夜叉『ゴールデンデビルVSフランケンシュタイン』

劇団ドガドガプラス

浅草を拠点に、故・松方弘樹が最も信頼を置いていた映画監督・望月六郎によって“踊り子さん女優化計画”を掲げて旗揚げされたドガドガプラスも、“歌って踊れる浅草の劇団”として、胸の谷間と網タイツで(笑)16年に10周年を迎え、新たなスタートとなる今年の第2作目は尾崎紅葉の「金色夜叉」をベースにした新作筆下ろし…じゃなくって(爆)、書き下ろし。 
「金色夜叉」たって、ただの翻案じゃ~ない。これをGOLDEN DEVILと英訳して、ついでにフランケンシュタインまで登場させちまおうっていう、これまた望月六郎なればこその発想の素ん晴らしさ!  
普段エンタメを自称しながらも、全くエンタメになっていない若い人たちによる劇団諸氏もぜひぜひ観てほしい。「これぞエンタメ!」という舞台に驚愕し、認識も新たに自らを鼓舞するか、それとも到底及ばないと絶望して演劇をやめるか、ともかくドガドガを観てみなければ始まらない。 

開演1時間前に受付開始。従来は受付のための整理番号が配布されていたのだが、今回からはそれがなくなって、1階のエレベーター前で受付開始を待つ。
受付開始30分前に到着したのだが、この日は猛暑がぶり返してきたために、待っている間にも汗が止まらない。背中を汗が流れ落ちるのが感じられる。それだけに受付が開始されて5階のロビーに入るとほっとする…。 

さて開場されて客席の中に入ると、いつも通り衣装をつけた役者陣がお出迎え(当然ながら、最前列センターを確保!)。中でも舞台前に立っている明治の女学生姿の大岸明日香がカワユイ! 彼女は前回の「シン・浅草ロミオ&ジュリエッタ」の前説のときに随分と声が出るようになっていて驚いたのだったが、可愛いだけでなく、そうした基礎の力もしっかりついてきたということだろう。
蜂巣和紀が「飲食自由です。ロビーでビールを売っており、呑みながら観ていただけます。酔っぱらって観るくらいが丁度良いかもしれませんよ~ッ!」と声を張り上げているが、いやいや、そんなことはありません。酒に酔ってなくとも、ドガドガの舞台は観ているだけで酔ってしまいマス…無論、呑みながら観たい人をとめる訳ではありませんが。それにしてもこの蜂巣、ひげ面でむくつけき風体なのだが、当日パンフの写真はやたらとカワイイ美少年なのだ。客席案内をしている某女優にそのことを質すと「そこは写真、ということで…」と笑っていた。 

開演10分前に鐘が鳴って、恒例の前説が始まる。ここからはもう、ドガドガの世界だ。 

定刻に開演。上演時間は途中休憩10分を含んで2時間25分強。 

まずは宮が通う上野一木女学院の場から始まり、当時の時代背景が要領よく語られ、そこから「金色夜叉」の筋に沿って、貫一(当日パンフでは“寛一”と誤植されている…)と宮、ダイヤをかざす富豪・富山唯継の3人を軸にしての物語が展開していく。
貫一役での初主演・中瀬古健と宮役の古野あきほが活き活きと動き回るが、この第一幕で私の目を惹いたのが、やはり大岸明日香。舞台の隅にいても細かく表情を変えて、しっかり演技している。う~ん、いい役者に育ちそうだ。 

ところで、女学生役の面々がはいている袴は中仕切り(襠)がないスカートタイプの行灯袴(もしくは女袴)で、ダンスのときも踊りやすそうだ(だけど、ぱんつは見えないよ、爆)。 

ともあれ、オジサンじらしの最大のものは、ゆうき梨菜がなかなか出てこないこと。そういえば前作でも第一幕の後半にやっと出てきたんだったなぁと心待ちにすれども…。やっと登場したのは第一幕のラスト、それも大胆な衣装での歌だ。
以前はゆうきの歌は決して上手くはなかったのだが(ゴメンナサイ!)、かなりトレーニングしたものと思われ、最近は“歌”で登場しても全く気にならない。
それにしてもこの場面のバックで踊る女優陣、暗転となる一瞬に「あッ!」と言わせた(笑)。 

第二幕ではそのゆうきも高利貸しの赤樫満枝として、貫一に絡んで大活躍をするが、今回の舞台で最も驚いたのは座長の丸山正吾。人造人間を作る“腐乱軒死体”こと科学者・大門雷電として金髪メイクをはじめ、ぶッ飛んだ大暴れをする。
前説で頑張っていた蜂巣も死体を集める破戒坊主として存在感を発揮する。
璃娃(レイアイ)は今回も中国人(大門に資金援助をする漢人)役だが、実に楽しげに演じているように見えて、その実はかなり工夫してもいるのだろう。
石井ひとみは余裕たっぷりという感じ。 

阿鼻叫喚、抱腹絶倒という売り文句の通り、もう言うこと無しの楽しさ。普段は時代考証がどうのこうのと言う私も、ドガドガだったらスマホやアイスクリーム(森永のPARMだ!)が出てきても何の文句もない。望月六郎が作り出す世界は時代考証なんかハナから問題にしないところで成立しているのだし、それができるところがまたスゴイのだ。 

ところで「金色夜叉」とくればあの最も有名な台詞だが、望月は簡略版ではなく、オリジナルにほぼ近い形の長いものを使っていた。名作文学を換骨奪胎するに際しての望月のひとつの拘りでもあるだろう。 

ただひとつ寂しいのは、客席に若者の姿が乏しいこと。舞台は若さではち切れんばかりなのだから、客席にももっと若い人たちの姿があっていい。若者が観ても満足度が高い舞台であるのは保証する。 

「目指せ!浅草公会堂!!」

SKY RUNNER

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SKY RUNNER

SPINNIN RONIN

スラム育ちの若者が空の勇者になるというシンプルなストーリーを、ほとんど素舞台での音楽劇的な展開で、ダンスの見事さも相まって、期待を大きく上回る楽しさだった。

初見の団体でこういうのにぶつかると嬉しさも倍増。 

かっぽれ!〜締〜FINAL

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かっぽれ!〜締〜FINAL

green flowers

同じ風姿花伝でタッタタ探検組合「ライセンス」の初日を観て、1週間後のこの日はタッタタとも縁が深いgreen flowersの初日である。しかもグリフラは私が大好きな「かっぽれ!」シリーズの最終作とか。
この「かっぽれ!」は11年の秋に第1作が上演され、その後13年3月の「かっぽれ!~春~」、同年9月の「かっぽれ!~夏~」と続いたのだが、その後は他の作品が上演されるようになり、ラチェットレンチの落語シリーズを観る度に「あぁ、グリフラのかっぽれ!が観たいなぁ」と寂しい思いをしていただけに、今回は飛び上がる思いだったのだが、ついにFINALと銘打たれてしまった…(涙)。 

開演5分前に寄席と同じく二番太鼓(着到)が鳴らされる。因みに一番太鼓とは開場と同時に鳴らされるものだが、これはなかったような…。 

今今亭東々を演じる西堀晴香による前説。定刻に開演、上演時間1時間40分。 

今今亭東吉一門が勉強会を行なう仙台の旅館松野やの一室。奥に見える庭の様子といい、いつもながらに見事なセットだ。
ストーリーの構成、役者陣の演技など、どれをとっても破綻なく、存分に楽しませ、かつホロリとさせる。
劇中劇として演じられる噺は「宿屋の仇討ち」だが、これもストーリーの中にうまく組み込まれ、全く違和感を覚えない。
このシリーズがこれで完結とは…寂しさが抑えきれない。

総評

17年の年間観劇数はチケット発券ベースで330本。年間300本以下にするという目標は果たせなかったものの、前年比では13%減、最も多かった13年の440本からすると110本も減っているのだから、まぁ良しとしよう。

当たり前のような作品が並んでいるが(中にはそうでもない作品が混じってはいる)、これは私自身が大きな満足を得るとともに、観劇初心者の人にも自信をもってオススメできる作品をという視点で選んでいるからだ。
上位3つには昭和20~30年代を描いたものが並んだ。私が大きな信頼を寄せる3つの劇団が同じような時代を描いたというのは全くの偶然だろうが、それぞれに秀作だったのが嬉しい。そしてこの3つの劇団が共にチケットが4千円以下というのは、最近頓にチケット代が高くなってきた小劇場界において、いかに安い料金で良質な舞台を届けようと腐心しているかが察せられて頭が下がる。

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