おけい@広島が投票した舞台芸術アワード!

2018年度 1-7位と総評
日本文学盛衰史

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日本文学盛衰史

青年団

珍しく(!)大評判の新作本公演、楽日にぎりぎり間に合った。高橋源一郎の原作は、それぞれ四場の葬儀シーンで上演される。障子を開け放すと日本庭園が望める。葬儀場へ続く廊下の手間に弔問客のための膳が並ぶ広々とした大広間といった奥行きのある舞台。
一場は明治27年5月の北村透谷の葬儀、
二場は同35年9月の正岡子規の葬儀、
三場は同42年6月の二葉亭四迷の葬儀、
四場は大正五年12月の夏目漱石の葬儀、
終始舞台上に出ずっぱりの島崎藤村(大竹直)と田山花袋(島田耀蔵、女性弔問客の座布団に突っ伏す)が狂言回しで、場面が数年後の葬儀へと転換されていく。
森鴎外(山内健司)と夏目漱石(兵頭久美、付け髭!)以外は、役者が何役もの作家や女中、それぞれの喪主を演じている。これが楽しい。
錚々たる大御所の作家の若き時代、デビュー当時の衝撃なども面白い。作家の人間像を描くというより、当時の「心で思ったことをそのまま文章で描く」ための悪戦苦労振りがユーモラスに描かれ、近代文学史に疎くても、詩を捨てた藤村や、華やかな一葉、晶子の逞しさ、啄木や賢治の清新さなど、身近に思い浮かべることができ興味深い。綺羅星のごとく文壇の有名人ばかりがお喋りを交わす様子は、文学好きには堪らないかも。弔問客には近所の人も加わり、二葉亭四迷を噺家?なんて聞いている。
島村抱月や坪内逍遥(志賀廣太郎)が自由劇場で上演される翻訳劇の訳のことで揉めたり、女中たちが楽しげにカチューシャを合唱したり。
四場では一挙に戦後活躍する作家たちが登場、それぞれ胸に坂口、太宰、芥川、康成などの名札をつけている。一気にお芝居ごっこめいた雰囲気、スマホで集合写真をとる高橋源一郎も登場する。
職工でも小説を読む時代を望んだ作家たちの苦闘の果てに、小説家が長者番付に並ぶ時代を経て、読者はやがて細分化され自分だけの小説を書き始める。芝居はその先の、ロボットが書いた小説をロボットが読む近未来へ。私たちが獲得した日本語はやがてどこへ行くのだろう。
自分たちの「言葉」をもっと大事にしなければと思った。

粛々と運針 ツアー

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粛々と運針 ツアー

iaku

演劇は、愛や勇気や希望を与えてくれる華やかなものだと誤解されているのではないか。実は、私たちの人生にもっと必要で実用的なものなのだと気づく。
舞台には、高さの違う3種類のイスが置かれ、舞台左右の一番高い木のイスに若い女と年配の女が座り、針に糸を通して、床まで届く反物のような白い布をひたすらチクチクと縫っている。
子どもを持たないと決めた夫婦、妻が妊娠したらしいと判り産むか産まないかで揉めている。母が倒れて病院に見舞いに行った帰り、母の希望の尊厳死について話す兄弟、結婚して別居している弟と、母と同居で独身、定職につかずコンビニでアルバイトをしている兄の二人。この二組が入れ替わりながら、舞台中ほどのイスに移動し会話を続ける。
課長昇進まじかで、いい母親になど、なりたくない妻、仕事をする自分に自信がないからせめて父親になってみたい、仕事を辞めて主夫になってもいいという夫。
お母ちゃんには手術をうけて元気になって欲しいという兄、お袋を母親役から解放させてあげたらどうかという弟。
彼らの会話が、行きつ戻りつしながら、繰り返される。その二組の会話が、時に絡みあったりするところがあったりして面白い。
だんだんと激高してくる二人を眺めていて、ふいに、産まれてくる子どもと死んでいく母親が実は、無関係と思っていた両サイドの二人の女優で、子どもと母親であると分かる、巧みな展開。
人は結局、長い時間を掛けて、時にはチクチクと心を刺すような思いをしながらでないと相手のことが理解できない。回りくどくても、無駄なような長い時間がかかっても、それが生きていくことだと、しんみりと心に沁みてくる。
いつの間にか、彼女たちが縫っていた長い布が6人の周りをゆるく囲んで繋がっている。
客席からは、若い観客だろうか、鼻をすする気配が聞こえた。

遺産

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遺産

劇団チョコレートケーキ

七三一部隊で人体実験を行なった医師と、被験者(マルタ)に接して働いていた特別班の隊員の現在と過去が交錯しながら舞台は進む。
いかにも人の好さげな今井医師(岡本篤)は他の医師が口実を付けて断ったマルタの人体実験も引き受けてしまう気弱なところがある。同時にその今井が平然と白衣を血に染めて人体実験を行なう。
マルタは「丸太」からではなく、素材という意味のマテリアルからつけたものらしい。まさに実験素材だったわけだ。
生きた人間をも解剖したという七三一部隊の人体実験の被害者は3000人にも上り一般市民の中国人も多かったという。
いっそ、医師の彼らが人間の皮をかぶった悪魔であったなら、私たちはどれほど心を撫で下ろしたであろうか。

時代の流れと大きな組織の動きの中で、私たちはどれだけ自分の良心と自分の行動を律することができるだろうか。同じ過ちを犯さないとは言えるだろうか。

今井は、大学で教鞭をとることを退き、七三一部隊関係者が多くかかわったグリーン製薬に転職する。高給が保証されていたことに変わりはないが。グリーン製薬は非加熱製剤でエイズを蔓延させ社会的に責任を問われた会社である。
今井は晩年、自分のしたことの罪を激しく悔やみ、それでも自由に自分のやりたい人体実験ができたあの頃を充実していたと告白する。
実験動物たちの墓に手を合わせていた今井を慕っている後輩の中村医師(西尾友樹)は、死の床にある彼を見舞う。今井が処分をせず密かに持ち帰った人体実験のカルテの秘密とその処遇の顛末が、当時と現在が前後して描かれていく。
当時17歳の少年隊員川口(足立英)は日常的にマルタに接し言葉を交わし逆に慰められたりしていた。天皇陛下のためと教えられていても、目の前で被験者に行われる様々の人体実験を見て腰を抜かす十代の彼が痛々しい。だが、先輩隊員の陸軍傭人西田(佐藤弘幸)が慣れた様子でマルタを引き立て殺害し焼却していく。
現代の場面で、隊員一人である木下(原口健太郎)が登場。戦後帰国した彼らが、互いに連絡を取らないこと、部隊で見たことの守秘義務、公職につかないことを約束させられ、世の中から隠れて生活してきたことが明かされる。
人体実験の結果資料をアメリカ軍に引き渡すことを条件に、罪に問われることもなく医学界の要職に就いた医師たちと、助手となって証拠隠滅活動までした隊員たちとの明暗。同時にその医師たちに命を救われた患者も多いに違いない。

オイル

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オイル

天辺塔

初日を観た。客席のオジサン率が高い、観客席でお疲れさまコールを交わす若い観客の多い地元劇団の公演とは、さすがに雰囲気が違う。前回の天辺塔の公演の「オイル」は文字を組み合わせるシーンと大国教授役の恵南牧さんくらいしか記憶にない。今回の舞台は、広島人による広島のための『オイル』だった。

大地に噴き上がるオイルに古代出雲と戦後の島根との二つの世界を交差する気の遠くなるような膨大な台詞が飛び交う。追いかけるだけで精一杯で頭の中が大混乱。野田秀樹の芝居はいつもそうなのだ。負けを認めようとしない腹切りをする古代人が怖かった。
ところが、その内に私の脳ミソは台詞を必死に解釈しようとするのを止め、特定の台詞だけ、貪るように吸い込み始める。
広島に原爆が落ちた時、電話線からのヤマトの声が、ふっと途切れる。投下の瞬間である。
劇の進行につれて、舞台の背景に白い描線で描かれるのは地獄絵か、あの世にあるという天国なのか。
こんな舞台が観られれば、よそにわざわざ野田の芝居を観に行く必要性を感じない、そんな舞台だった。

シアターコクーンの舞台では巨大なゼロ戦が舞い降りたが、天辺塔はハシゴ状の小道具で舞い上がる双発機をイメージした。シンプルさが魅力。動き易そうな古代人の衣装もチャーミングだった。
ヤマト役(恋塚祐子)とヤミイチ役(恵南牧)がカッコいい、富士の母ノンキダネ役(中原榮子)のお袋像も目を惹いた。

私は広島生まれでもなく、ここに越してくるまではヒロシマはイメージの地名だった。広島の苦しみは想像するしかない。さらに「平和への願い」を強いられる悲痛さも・・。

『ソウル市民』『ソウル市民1919』

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『ソウル市民』『ソウル市民1919』

青年団

久々に本拠地アゴラでの青年団本公演である。一番前のベンチ席で観劇。篠崎家の客間(居間?)が目の前にあり臨場感たっぷりだ。
以前観たときは、最初から舞台に登場する叔父役だった山内健司が凄く印象に残っていたので、今回は太田宏だったのでオッと感じる。その山内健司が主人の宗一郎役で登場した時には感慨ひとしおだった。観客の私も少し齢を取ったわけである。
まるで篠崎家の一員のような気分で家族の会話や訪れる訪問者との会話に興味津々だ。
さり気なく無邪気に交わされる朝鮮人たちへの差別意識。

差別意識は、こんなふうに意識することもなく、ごくごく普通の人の中に染み込んでしまっている。そのことに私は気づくことが出来ているだろうか。
娘と女中が話す「朝鮮語では文学は育たない」という暴言を平然と話題にすること。朝鮮人同士の時は日本語じゃなくて母国語で話したらいいと言われ、女中(韓国人俳優が演じている)たちが「私たちの勝手じゃない」と平気な顔で受け流し、心の中で軽蔑し呆れているような場面。
目の前で見せられると醜悪さが際立ち、いい気なもんだな日本人!って印象を持った。
宗一郎の三人の子どもたちと今の妻が義理の関係であることやいつも問題を起こし気にかけすぎる息子と合わないこと。その息子が朝鮮人の女中と駆け落ちしたことが分かる終幕場面のあとに、唐突にストップモーションで終わるラストシーン。

ゼブラ

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ゼブラ

ONEOR8

旗揚げ20周年の劇団が、東京シアターイーストでチケット代2000円の大感謝祭をするというニュースを見た。大阪公演もあると知り、急きょ出かけることにした。
ていねいに作りこまれた舞台セットを観ただけで、来て正解だったと予感する。

役者それぞれの個性的な人物造形はひねりが効いて、その癖、舞台から受ける普遍性を損なわない。結末も予定調和にはならず、不条理ながら心にストンと落ちるような結末だった。ファンが次回作を観たくなるような舞台だ。
いろいろの思いがあったのか舞台挨拶で思わず涙声になっていた座長。たくさんの人に観て貰いたくて試行錯誤をしている間にあっという間に20年が経ってしまったのだという。
シアーターイーストで6日間9ステージのあと、水戸芸術館で2日、北海道各地で4日、岩手で1日、そして大阪一心寺シアター倶楽の2日間で千秋楽だった。
舞台を楽しんで見ながら、自分の理不尽なこころや行動に対しほっとできるような安心できるような後味が残る。
子どもの頃、両親が離婚し女手一つで4人姉妹を育ててくれた母が認知症で亡くなる。夫が浮気した若い娘を通夜の場に呼び出す長女、結婚前にマリッジブルーで結婚を渋る次女、家族を捨て女の所に出て行ったという父を許さない独身の三女、夫に車を買うことと交換にパチンコ浸りの夫に変わって欲しいと自分に片思いの幼馴染を騙して金を巻き上げる四女。その4人姉妹それぞれの母の死に向かい合う思いを深刻にならないユーモラスな舞台で。

ウタとナンタの人助け

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ウタとナンタの人助け

一般社団法人 舞台芸術制作室無色透明

こんなにたくさんの障害を持った人たちと芝居を観る経験は初めてかもしれない。静かな熱気があふれる満員の観客席だった。
出演者にもたくさんの障害を持った人が参加している。車いすの人もいる。台詞や演技を覚えて舞台で演じることは大変だったろうと思うのだが、実際の舞台は、どこまでが演技でどこまでが素の当人だが分からないような緊張感をはらんだ演劇空間であり、とても30分の芝居だったとは思えない豊饒さが溢れている。
京都の柳沼昭徳が芝居を書き、宮崎の永山智行が演出した舞台だが、劇中には広島の地名がたくさん登場し、当時の少し古風な広島弁が随所に登場する。
アフタートークで聞いたところによると、上演時間はちょうどウタとナンタがマサルを送って行った広島駅(ピロシマ駅)から宇品港までのピロ電の乗車時間と同じだそうで、まさに同時進行の芝居だった。自ら長老役で舞台にも出演した山口隆司さん(NPO法人ひゅーるぽん)が、孤児になってもまわりの仲間たちに助けられしっかりと生きていくであろうユタとナンタの姿に多くの人が共感したとしても、現実は「児童養護施設を探そう」となる。私たちの世界は優しそうでいて実はとても冷たい社会だという言葉に、考えさせられることが多かった。
舞台演劇を都市圏に観に行くことは出来よう。でも私たちは自分たちの物語を必要としている。そんな舞台が地元でたくさん上演されるようになることを祈っている。
印象的だったのは、死ぬことになった母との別れが納得できないウタが、別れのあいさつをできないまま母は死の国へ旅立つ場面だ。現在の日本は世界一の長寿を謳歌し、もはや子どもは親の死を悲しむ余裕があるだろうか。
ウタはその別れのあいさつのために、マサルを人間の世界に返す旅に出るのだ。その道中で、かつては人間と猿猴達は仲良く暮らしていたが、原爆を境に、猿猴達は自分たちだけのピロシマという世界を作ったことが明かされる。のんびりと仲良く暮らす彼らの世界。それは同時に、今の人間たち、私たちが作れたのかもしれない世界でもある。
人間界に戻れたマサルを迎えに来た母は車いすの役者が演じた。それまでは嫌っていた母なのに、柔らかい言葉で話しかけ、ゆっくりと車いすを押す彼の姿に胸がいっぱいになる。猿猴達のようなのんびりとした平和な世界は失ってしまったけれど、私たちが、心の中の猿猴達の世界を持ち続けることが出来たら、まだやっていけるんじゃないかと、勇気をもらい背中を押してくれたそんな舞台だった。

総評

「オイル」を再演した天辺塔は、対外公演を全くしない。東京の芝居に引けを取らないオシャレで上質の舞台を見せてくれる。ぜひ、広島公演を観に来てもらいたいと思う。

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