tottoryが投票した舞台芸術アワード!

2025年度 1-10位と総評
Downstate

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Downstate

稲葉賀恵 一川華 ポウジュ

実演鑑賞

ポウジュは今年の年頭、二本立て公演を敢行し、鮮烈に印象づけた翻訳家一川華、演出家稲葉賀恵のユニットで、この旗揚げ公演もそれぞれ秀逸な二人芝居(特に「オレアナ」)であったが、こちらに絞った。
自分の傾向であるのか、時代の反映なのか、海外戯曲ゆえに優れた作品が選ばれているという事ではあるのだろうが、上位に挙げた他の作品も共通して社会の暗部、人間の暗面を抉る作品。破滅的な描写やカタストロフィ―に心が掴まれる。
取って付けたのでない明るい終幕が見られたなら幸運。そうでなくとも「現実」を共有する事からしか希望は手にできないのであるから、その出発点に立たせてくれるものに救いを覚えるのである。

本作は今年観たその最大。観劇体験という観点で言えば「快楽」。破壊衝動を持つ年齢からは自分は遠ざかっているが、真に苦悶する(多くは社会の側からそうさせられる)人たちを意識する一人ではあり、彼らの存在と問題の本質が「可視化」される事の喜びは替えがたい。

犯罪歴のある者たちのグループホームが舞台。性犯罪歴を軽重の違いはあれ持つ者が、生活上の規律や生活圏の制約の中でも市民として暮らしている。個性も年齢もバラバラな一癖ある者たち(4名が住む)の元へ、かつての「被害者」アンディ(尾上寛之)が現在の妻エム(豊田エリー)と共に訪れている冒頭、既に老境にあるかつての「加害者」フレッド(大鷹明良)に辛辣な言葉を浴びせ、今なお彼が過去に縛られ苦しめられている事実を訴える。妻の前で言えなかった事を言いに戻ったその男性とは、後半また一くだりある。
その後保護観察官(桑原裕子)が定期訪問の体で訪れ、彼らの意見を聞き、やり取りする。相対的に罪が軽いのに(それに甘えてか)現在の素行が悪いため苦言を言われる若い男ジオ(串田十二夜)は知恵が働くが独善的で口が減らない。人の事にやたら口を挟む一家言ある男ティー(植本純米)と言い争い、監察官に刃向かい、命のやり取りにも見える丁々発止を展開するが、常習的な余興。
会議終了後、実はこれが本題であったらしく一人の品行方正に見える比較的若いフェリックス(大石将弘)の「ルール違反」について問いただす時間となる。素直に認める姿勢を見せなければ後がない事を告げるも、中々趣旨を飲み込ませる事ができない。初めに嘘をつき、その後で本当の事情を言う。聴けば已むを得ない事情、理解できるが、最初に嘘をついている。次も嘘かも知れないが、監察官は理解を示そうとする。ただし問題はルール違反がGPSや図書館からのネットアクセスの記録から既に明白で、それは加害対象である「娘」のfacebookにアクセスした事。彼は娘の誕生日におめでとうを伝えようとした。だがそれは被害者の安全を脅かす行為と看做され、順当に刑務所戻りになる所、二度と戻りたくないはずの彼のため、恭順の姿勢を示して情状を勝ち取る材料を自分にくれと監察官は言っているのだが、彼は自分の正当性を訴えるのに終始する。今はその事ではない、と食い下がる。そこへ茶々を入れるのがティー。彼は自由な行動を擁護する立場で監察官に意見するが、観客から見れば邪魔である。彼は人の事情に顔を突っ込んで掻き回す。だがこの彼の態度は一貫している。どんな人間も自由であるべきだと信じている。その「どんな人間も」とは、彼の人間観から来ており、「そうならざるを得なかった」「そうせざるを得なかった」人間の内奥からの必然な態度は決して裁かれるべきでないという思想に到達している。自身の過去行った少年に対する性行為は社会からは断罪されたが、彼は相手がそれを求めていたと確信したからそうした、と思っている。従って彼は社会の理解を全く当てにしていない。
その彼が、老齢のピアニスト・フレッドを被害から30年後に訪ねて来た冒頭の男性アンディには、ある干渉を行なう。勿論フレッドを庇う気持ちからの反論でもあるが、断罪の姿勢を崩さない彼に人間存在を理解するヒントを与えようとする。男性がかつて傷つき今も傷つけられている事実はそれとして、一つの見方だけで人間はとらえられない事を彼に自己の過去を語りながら伝えようとする。
ジオがGPSで圏外に出た事を咎められた一件の真相が、彼が彼女のように見えるが恋人では全く無いというエフィ―(夏目愛海)を連れて来る事で解明。十代にしか見えない彼女の運転する車でその圏域に出ていたという訳だ。ジオは聖書の文句を暗記していたり規則の条文を根拠に反論したり大人びた面を見せる反面、叶いそうもないビジネスを故郷の町で立ち上げようと作った名刺を配ったりと幼児性が見え、そのギャップに発達障害の雰囲気があるが、実によく形象している。従って本作では一件トラブルメーカーだが、罪のない範疇であり、彼のイノセントな発語を救いとして機能させている。
三たび戻ったアンディーは、フレッドにある書類への署名を要求する。何らかの「決定的な断罪の印」でも求めているかのように餓えた殺気が漂っている。同日の事、既に夕刻が迫っている。
その書面には「やっていない」行状までが書かれている。それは事件のあった当時、アンディも知る別の少年に対して行った事だったため、老人はサインをするのに躊躇する。かつての教え子であり、将来を見込める才能があったアンディからピアノも奪ったのだろう彼の「悪戯」は、既に過去のこと、現在のフレッドは相手の告発を全て認め、頭を低く垂れているが、これは譲れず、「やった・やらない」の水掛け論となった時、先のティーが割り込む。彼に一つの質問「それだけ明確に覚えているなら、加害に用いた部位の形状(割礼をしていたか否か)は覚えているはずでしょ。どっちだった?」を投げる。これに男は答えに詰まり、憮然として一旦部屋を出るが、また戻って来て部屋の隅にあった金属バットを振り回し、フレッドそして止めに入る周囲の者を叩きのめそうと暴れ回る。
警察沙汰となり、破滅である。この事態さえも「この人たちが悪い」と信じて疑わない彼の妻エムが、やって来て熱弁をぶって去る。相手が「この人たち」なら自分らが訴追される事はない。それは相手が悪いからであり、だから自分側が悪くないという単純な理屈が背景にある模様で、「あなた方が今こうして生きている事自体が疑問だ」と言い放って去るに至り、潜んでいた問題は舞台上に撒き散らされる。差別とは生死に関わる問題である、という事だ。
前後関係の記憶が曖昧だが、車を動かしたい云々の話になり、ジオの彼女の車のバッテリーが上がったため、そのためのケーブルを探す事に。その後決定的な事態が彼らを見舞う。帰着が遅れているフィリップの部屋に探しているケーブルがあると踏み、不躾ながら彼の部屋の仕切りカーテンを開くと、首を吊った彼の姿が現れる。入り乱れる警察たち、保護観察官、エフィ―、アンディと妻。茶化し口調を崩さないティーが、アンディの口調に対し真顔で叱責する瞬間は、どのタイミングだったか・・。

本作は賞を獲った作品だそうで、むべなる哉ではあるが、戯曲紹介にとどまらない深みへと誘う舞台であった。役全てが相応しく、初見の俳優にも驚かされた。
聖書が言及する「罪びと」に他ならない部類の人間を、イエスは「彼らこそ神の祝福に与る者」とし、裁く側の律法学者らを厳しく指弾した。このテーマは西洋に限らず人間普遍の厳しいテーマでもある。

ハムレット

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ハムレット

SPAC・静岡県舞台芸術センター

実演鑑賞

観客への語りから始まる「ハムレット」。語り手は言う。いい加減やり尽した感のあるこの作品、オフィーリアがいなくてもこの物語、成立すんじゃね? という訳でオフィーリア無しで上演する!と宣言するや、奥深い舞台のあちこちから様々なオフィーリアたちが抗議しにやって来て、舞台を乗っ取って芝居を始めてしまう。・・観客席に収まった語り手はまた後半、あるタイミングで間隙を縫い、「ここからはやっと私のハムレットを上演しますからね」とウィスパーで語れば、また邪魔が入って・・。そんな趣向の他、舞台上を人ならぬ存在として揺らめいていたり、程よい具合に場面を省いたり圧縮したりしてテンポよく物語が進み、最終局面となる。SPACの役者が真にまことによろしい。墓掘り人の二人の掛け合い、半分客にかけてのやり取りの中で、「最後にこの幕(舞台上を覆っている透明の巨大なビニール幕)が皆さんの所へブワーッと来たりしますから」とサラッと一言振っておいて、決闘からの毒殺シーンに魅入らせておいて、忘れた頃にそれがやって来る。
考えてみれば屋台崩しというのも「なぜそれが盛り上がるのか」説明が難しいがあるカタルシスをもたらす。舞台上を覆っていた広大にも見える一枚物の幕が客席へ迫って来て(自分は二階脇の席でそれを眺めるのみであったが)後ろへと送られて一瞬の内に消え去っていくという「儀式」の中に何か得も言われず感興を沸かせるものがあった。
ハムレットを批評しながらハムレットをしっかりと届けている(批評性ある翻案や趣向は「手段」であり、ハムレットの上演が目的である)、それゆえの感動。

一九一四大非常

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一九一四大非常

劇団桟敷童子

実演鑑賞

場面は坑内、坑外双方を行き来するが炭坑から離れる事のない息詰まる劇。史実に基づく劇を桟敷童子のポテンシャルで作り上げればこの域に到達するのだな、と実感。桟敷童子には炭鉱を題材または舞台にした作品は多いが、本作は最もシビアな「坑内事故」を扱い、真正面から描いた。まるで炭坑の世界に入り込んだ疑似体験。昔映画では「ミッドナイトエクスプレス」でこれを体験したっけか。希望を繋ぐ執念、だがそれも絶たれて最終場面に直面させられた時、人は何かを「繋ぐ」事に希望を見出す。その感覚のリアルな体感にまでいざなう劇。圧倒的。

ガラスの動物園

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ガラスの動物園

滋企画

実演鑑賞

滋企画第3弾。前作のオセロ(演出は唯一無二の鬼才西悟志・・彼を引っ張り込むだけ佐藤滋はスゲエと思ったものである)。パズルを出題され解かれるのを見るような遊戯の内に、鋭く人間の本性を暴くナイフが仕込まれているといったようなエライ舞台だった。
本作は演出(+音楽)にヌトミック額田大志氏を招いた。主宰の狙いを想像しながら、興味津々で劇場へ出かけたが、水のように染み入る「ガラスの動物園」であった。
この演目は三度目。最初が一昨年だかのイザベル・ユペール出演の仏語舞台、ごく最近であり、続いて渡辺えり演出の生演奏付きのスタイリッシュな濃い舞台。どちらとも異なる舞台空間であるが、すみだパークシアターを奥行き深く使って動き回る俳優たちを眺める仕様で、この心地よさは何だろうと今考えると、恐らくズームの代わりに遠近法を用いていたかに思う。向こうの方で何かやってるってのは、青年団がやった現代口語演劇の「背中を向けて何かやってる」光景に通じる。俳優はほぼ客席への見え方ではなくその場で相手とのみ成立するコミュニケーションを交わしている。
人物造形もその精度は役者の本人性が最大限反映された作りに拠るものか。とりわけアマンダが独自の風情。押しつけがましく過去の栄光を語ってウザいが、日本の「おっ母さん」である。
人物それぞれの心情、感情が作品の出自(国籍)を感じさせず、迫って来る。ローラをヴェールに包まず主張をストレートに伝える。紳士然としたジムの罪のなさ、主人公トムの出奔を決意する哀しみと罪の疼きが粒立ってこちらに入って来たものである。幸せな時間を味わう贅沢を噛み締める。

少女仮面

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少女仮面

オフィス3〇〇

実演鑑賞

少女仮面も十年前梁山泊版を観てより6回目であった(トラムでの杉原邦生演出版、metro版、一糸座版、唐ゼミ版そして今回)。新宿梁山泊の濃厚舞台を別としていずれもどこか不足感が否めなかったが、いや不足感に気づかせる今回の舞台だったとも言えたが、渡辺えりの独特な演出も全て終ってみればこの戯曲そしてアングラを体現したものであった。最終盤の春日野の苦悶が、物語を決定づける作品であった事に今更ながらに気づかせられる。「肉体」即ちグロテスクな生への欲求こそが春日野と私たちを繋ぐものであり、突如結び合わされたものに驚き、肉体のありようを問うた時代というものにも思いを馳せた。

マライア・マーティンの物語

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マライア・マーティンの物語

On7

実演鑑賞

女性の集団であるOn7が「ある女」の物語を演る、という時点で自分の中でイメージの幅を狭めてしまうが、On7入魂の舞台はそんな矮小な想像力を遥かに超え、圧倒された。
女性が「性」関係において不当に貶められてきた歴史の断面を、数日前にたまたま観た映画「マグダレンの祈り」でいやという程突きつけられたばかり。
前世紀とある片田舎、輝かしい未来を約束されたはち切れんばかりの十代の女性たちを鮮烈に描いた後、成人した彼女らを待ち受けるのは、女性を周到に支配下に組み敷く社会の仕組みであり、酷薄な現実。それがマライアという自立心の強い一人の女性の起伏ある半生を軸に、地縁で繋がるかつての腹心の友たちも望まぬ形で絡みながらじわりじわりと炙り出される。
展開はドラマティックで目が離せない。
今回On7では珍しく主役が一人立つ作品でマライアを演じた吉田久美の凄み、これを懸命に支える演者たちの姿が登場人物に重なり、熱いものが駆け巡ったな。

I, Daniel Blake ―わたしは、ダニエル・ブレイク

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I, Daniel Blake ―わたしは、ダニエル・ブレイク

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

実演鑑賞

原作は映画。炭坑労働者や社会の周縁に光を当てた作品を撮ったイギリスの映画監督ケン・ローチ。
本作は主に二組の「周縁の者」たちにスポットを当て、サッチャー政権由来の「弱者に冷たい」社会の実相を描き出す。
冒頭、弱者救済制度を受けるためにロンドンからバスを乗り継いで町へ辿り着いた子連れの母は、役所の窓口に「約束の時間」に30分遅れた事を理由に申請をはねつけられる。次の申請は一か月後。給付を当てにしていた彼女は「明日から娘は学校なのよ」と食い下がるが認められず。これを心臓病の悪化で辞職し、失業手当の申請に来ていたダン(ダニエル)が目撃し、助け船を出そうとするが通らず抗議に至り「騒乱」と看做され排除される。
以後彼らは非寛容な社会の中で、互いを思い合いながらも現実に敗北していく。ダンはダンで役所が指示した就労可能性の診断で「可能」の判定を受けてしまう。宙ぶらりんとなったダンは不服申立ての方法などの相談を聴く相談員との連絡を促されるが、電話が繋がらない。医師の診断書を持って苦境を訴えるがたらい回し。
ドラマはこれらの理不尽な役所対応の経過を挟みながら、ダンと母(ケイティ)、その娘との交流を描く。離反を経て繋がりを深めて行く。心に沁みるシーンが織り重ねられる。ようやくダンが不服申立ての証言に立つ日がやってきた。その前夜、読み上げるつもりのメモを見てもらう体でダンはケイティを訪れ、「読んでおいてくれ」とだけ言いおいて長居を固辞して去る。その帰路ダンは心臓発作に倒れ、急死する。不在の証言者の代わりに・・これは演劇的な仕掛けとしてであろうが・・ケイティが手にした紙を代読する。その言葉は当然ながら、社会に、人びとに向けられ、観客はそれを受け止めるのである。それは劇を通して彼が経過した時間を凝縮したものであり、「私が、ダニエル・ブレイクだ」で締めくくられる。一人の人間が生きたのだ、忘れないでほしい・・。
英国ではサッチャーを機に格差が広がり富める者は富み飢える者は飢える社会となった、という受け止めを映画や時折のニュース等で耳にするが、実際はどうかは判らない。映画はカンヌのパルムドールを獲得したものであるらしく、未見だが機会があれば見てみたい。

埋められた子供

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埋められた子供

劇団昴

実演鑑賞

翻訳戯曲を堅実に舞台化する昴、との信頼は自分の中で揺るぎなく、今回さらに「あのサム・シェパード作品」を拝めるとあって無防備に期待を膨らませて観劇に及んだ。予想は裏切ったが期待は裏切らず、唸らせる舞台。一瞬もダレがなく眼前の事象を凝視させる。休憩時間、観客は寡黙だった。
感動の人間ドラマの範疇を出て、ヒリヒリと痛い。一柳みるという名前を観劇後に確認したがこれは隙というものがない完璧なハリー役と思わせ、老人ドッジ役も長男役、次男役も、発語行為が提供する人物情報は十全に、かつ不確実な部分は不確実のまま、造形している。シュッとした孫ヴィンスの恋人シェリー役、牧師役も適役で、演技に加えてキャラもしっかり作られ綻びが見えない。
装置は、稽古場の地肌に材料のパネル類をロップで止めた(正面奥と下手側)壁と、通路のある上手側を出ハケに用い(奥と手前)、奥に屋敷の前の道、その手前は玄関ドアのみ立ち、室内にはソファや調度、だが床には土(砂でなく渇いた土である)。
劇中は小道具に人参とトウモロコシ、死者に捧げる用にも使われる花の束が出て来る。
ミステリーの構成を持つものの、その謎解き部分は全体に流れる不条理の空気の前では副次的なものにも思える。崩壊しながらも生きながらえている国家あるいはコミュニティの赤裸々な描写とも、人間の精神の解剖ともつかない矢鱈「神経に障る」言葉と行動を凝縮したようなメニューである。ドラマの展開は意表を突くが面白く、混沌としてとっちらかっていても収集能力を欠くため「問題を置き去りにする」以外ない人間のあり様を酸っぱく描いたようにも。
否、それぞれにとっての「問題」はそれぞれなりに解決されて行ったのかも知れず、分断、孤独が結果ではなく本質であり、起点なのだと見ればこの作者は絶望を描いたのではなく希望を・・と考えなくもない。苛立たしい話の背後から、仄かに陽光が差したかの感覚が過ったのがその証左だろうか。

THIS HOUSE

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THIS HOUSE

JACROW

実演鑑賞

JACROWが中村氏の新作でなく珍しく(初めて?)翻訳物をやるというので出かけたが期待を上回る内容であった。1970年代英国の政争を取り上げた作品でJACROWらしいチョイスだが、自分の中では今回のランクインの殆どとなった秀作翻訳劇のカテゴリーになっている。

世界で最も古い近代民主主義国であるイギリスのその<民主主義>の機能の仕方、泥臭くも人間的な、言わば「制度=生き物」たる所を赤裸々に、滑稽に、スリリングに描き出した作品。
笑うに笑えない話に笑っちゃいながらも、彼らが民主主義の制度、理念、伝統、王室の権威も加えた「総体」に敬意を示し、あるいは縛られ、それゆえ翻弄され、権力闘争に邁進する様は、呆れると同時に泣けてくるものがある。
闘争それ自体はゲームであり、ひたすら「勝利」が目指されるが、そのルールとしての民主主義制度が多大な犠牲の末に勝ち得たものであったり、英国社会の存立に貢献した事が歴史的記憶として社会的合意となっている事が行間から滲み出てくる(これは個人的な感じ方かもしれないが)。如何に闘争に明け暮れようとも、時に相手を出し抜く奇策に走ろうと守るべきルールがありこれを逸脱しない、そこに苦悩があり悲哀がある。
当時政権を持っていた労働党が、ついに「不信任案」の提出を受け、これの可決を回避に(議席獲得に)奔走するが力及ばず、負けが確定する。作者は劇を閉じる言葉の中で、このドラマの後に保守党サッチャー政権という「厳しい時代」を迎える事を告げており、作者の歴史評価が明確であることも小さな驚きであったが、違和感はない。
史実にどの程度忠実かは判らないが、70年代後半の英国政界を覗き視する中で、目に入る興味深いディテイルや空気感は事実性が高く、これを見つける楽しさがある。
例えば、二大政党である保守党と労働党の他にも少数政党があって、法案提出において政党を味方に付けるための配慮があったり、等は我々にも馴染みがある光景だが、政権が「現議員数」によって確定している訳ではない、というのがミソだ。
労働党の方に多そうなのが、自分の稼業や何らかの事情を抱えていてロンドンの国会議事堂に来られない地方議員。欠席議員は投票にカウントできないが、実はこれに対処する暗黙の?ルールとして「ペアリング」なるものがある。欠席議員と同数の議員を、対立政党にも欠席してもらうもので、議員個々の事情に配慮した独特なルールだ。が、申請がどんな場合にも適用できるわけではないようで、その按配も状況を見て行なっている。
つまり、議席獲得のための奔走に常に駆り立てられている。
また、議事堂には国会の権威を示すオブジェ(何とか言う棒のようなもの)が掲げてあり、みだりにこれを扱ってはならない所、それをやってしまった者が現われ騒動になったり、等は滑稽なシーンとして切り取られる。
先のペアリングは、本作の最終局面にも登場する。ペアリングが使えない「不信任決議案」を受ける事態となった労働党は、八方手を尽くした後、あと一人で同数という段に漕ぎ着ける。この時に、長く病床にある議員が「今度の審議は大丈夫か。必要な時は言ってくれ」と伝えてくる。だが、その少し前に、彼の連れ合いから「次出かけたら彼は死ぬ。どうか諦めてくれ」と言われている。
労働党の交渉役を担う幹部は、議員本人の意思を尊重するか、妻のために彼の命を優先するか葛藤した末、保守党のある人物の元を訪ね、ペアリングに応じてくれ、と頼む。表立っての申請は出来ないから個人的な依頼となる。保守党議員の相手は、交渉役の話を黙って聞き、最後に「判った」と言う。少し驚きながらも礼を言い、誰をペアリングするのか(そんな議員がいるのか)と訊くと、「自分だ」との答えが返って来た。党としての決定ではなく個人として党を裏切ることを想定しているのだと(多分)悟り、交渉役は戸惑う。相談している相手は「敵」ではあるが政界に入って研鑽し、これから力を発揮していく人物である、何故だと問うが、相手は答えない(お前の頼みだから聞くのだ、と言外に言っている)。
交渉役は暫く黙った後、この話は無かった事にしてほしい、と告げるのである。俺は今夜ここには来なかった。このシーンに含みの大きさはどうか。うまく言語化できないが、政治は人がやるものだ、どういう人間が、どういう思想を持ち何を目指している人間が、今そこで政治に携わっているのか・・見るべきはそこである、という事を言外に、行間に、これでもかと押し込まれている。そんな気がしたのだな。
本作はJACROWスタッフの野月氏が英国の舞台を映像で観て衝撃を受け、翻訳を自ら行ない実現した舞台との事。舞台はTレックスの歌で始まり、ボウイーの楽曲を織り込みながら、最後も歌で締めくくられる。

白い輪、あるいは祈り

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白い輪、あるいは祈り

東京演劇アンサンブル

実演鑑賞

正しく鄭ワールド。冒頭のいじりから一歩「物語」叙述に入ると一気に引き込んだ。
ブレヒトの「白墨の輪」を鄭義信流に噛み砕き、一々ツボを突く歌、心底を揺さぶる音楽と、秒単位で仕込んだ笑いで描き上げる。
この鄭義信の劇世界の構築を担う演劇アンサンブル俳優も、過去をかなぐり捨てて貢献しているかに見えた。それぞれの持ち味で「笑わし」が成立していたのが良い。俳優座劇場閉場を飾るに相応しい芝居魂溢るる舞台。

総評

今回は我ながら保守的な?チョイスになった。海外戯曲が8作、残る2作が日本の作品。一つは古典とも言える「少女仮面」。新作戯曲は桟敷童子のみ(これも炭坑事故という史実に肉薄するドキュメンタリー性が「劇的」を担っていた感が強い)。新作すなわち新たな視野を拓く挑戦の成果より、既存戯曲の完成度を評価した。舞台成果が実際、相対的にそのようであったのか、自分の感覚の変化なのかは判らないが、人は加齢と共に保守化する、の例に漏れぬのかも・・と自己批評。
傾向としてはどれも暗澹とさせる物語である。SPAC「ハムレット」はユニークな切り口で楽しめたが、元々のドラマが凄惨な悲劇だ。「ガラスの動物園」は象徴的描写の中の時代に取り残されたような家族の姿が、今身に詰まされる。サム・シェパード「埋められた子供」も前世紀後半、従来の秩序が支え得なくなった家族・地域という枠組の、即ち倫理の崩壊の兆しを不条理劇風に誇張した人物形象で描いているが、古く感じない。
暗いドラマは好きである。その理由はと考えると、最も下方の現実を掬い取ってこそ、真の救いがある・・そこに触れてほしいという願望。この願望に応えてくれた作品群であり、難しい題材を舞台化した成果に拍手。

十選と同等の評価でも無慈悲に切ってしまった公演が、以下。
イキウメ「ずれる」、アトリエ・センターフォワード「笑わせません、勝つまでは」、MyrtleArts「日の丸とカッポウ着」、ムシラセ「なんかの味」(以上新作)、吉野翼企画「観客席」、翻訳劇では、ポウジュ「オレアナ」(1位にしたユニットの旗揚げ公演)/犬猫会「トップ・ガールズ」(キャリル・チャーチル初観劇)。

他にも翻訳物に収穫が多かった。ホリプロ「リンス・リピート」/サカバンバスピス「CRIME OF THE HEART」/世田谷パブリック「みんな鳥になって」/燐光群「TYOTO」/新国立劇場「ザ・ヒューマンズ」/summer house「CARNAGE」(水野小論の新ユニット)/世田谷パブリック「ポルノグラフィ/レイジ」/ハツビロコウ「幽霊」「十二人の怒れる男」
自分の中での「次点」(コンペで言えば佳作受賞か。ほぼ新作オリジナル)・・ 燐光群「高知パルプ生コン事件」、ゆうめい「養生」(KAATでの再演)、かるがも団地「逆光が聞こえる」、TOKYOハンバーグ「月から抜け出したくて」。
勿論特記しておきたい舞台は多々。渡辺源四郎商店「逃げろセリヌンティウス」、うずめ劇場「ニッポン人は亡命する。」、名取事務所「燃える花嫁」「淵に沈む」「砂漠のノーマ・ジーン」、ももちの世界「わたしは太陽」、城山羊の会「勝手に唾が出てくる甘さ」、庭劇団ペニノ(台湾の劇団との共作)「誠實浴場」、遊戯空間「狂人よ、何処へ」、虚空旅団「Voice Ttaining 2025」、俳優座「霧ぬけて」「存在証明」、あやめ十八番「金鶏二番花」、KAAT「最後のドン・キホーテ」、劇団普通「秘密」「季節」、ざ☆くりもん「六道追分」、アンパサンド「遠巻きに見てる」、劇団S.W.A.T.「楽屋より愛をこめて 2025」、小松台東「ソファー」、HIGHcolors「或る、かぎり」、ドガドガプラス「SEXY女優事変 完結篇」、下北澤姉妹社ほか「残響」、ポッキリくれよんズ「オールライト」、こわっぱちゃん家「いつかの日の」・・以上全て新作。
ユニークな取り組みとして、東京演劇アンサンブル「チャランポラン・トランポリン」、お布団「XXXX(王国を脅かした悪霊の名前)」、バザール44℃「青少年のための純恋愛入門」(初観劇)、ペペぺの会「悲円 -pi-yen-」(初)、劇団スポーツ「CONSTELLATIONS」(初)、毎度ながらシュールな岡崎藝術座「森ノ宮ニーナ・・」。そして「三文オペラ 歌舞伎町の絞首台」は毎回意表を突く地点・三浦基氏があの出演陣で音楽劇を作ったらこうなったという、攻めすぎてエライ事になっちゃった舞台。
「旧作」の秀作としては、椿組「キネマの大地」、劇団1980「とりあえずの死」、プレオム劇「バリカンとダイヤ」、劇団銅鑼「泣くな研修医」、ストレイドッグ「幸せになるために」「映像都市」、文学座「華岡青洲の妻」、TRASHMASTERS「廃墟」(初の既成戯曲上演)。
その他、ナビロフト「りすん」(実質少年王者錧)、サヘル・ローズが吠えた新宿梁山泊「恭しき娼婦」、文学座「野良豚」(香港の劇作家戯曲)。

実の所リーディング公演と舞踊については10位内が乱立するため、除外した。
舞踊部門で圧倒されたのがピーピング・トム「トリプティック」。未踏の感覚野へ連れて行かれた雲門劇集(台湾)×真鍋大度「WAVE」。次点としてイデビアンクルー「バウンス」。共通点は、深淵に誘い込む音楽。
時に舞台を超える力を持つリーディング、今年は、世田谷パブリック「不可能の限りにおいて」、劇団印象「五月のクミ」が圧巻。他にも韓国現代戯曲リーディング「火種」(台本を持っている事を忘れる臨場感)、パンケーキの会「桜の園」(翻案が優れ物)、泉鏡花世界に肉薄せんとした遊戯空間「山吹」。
音楽系で外したのが、こんにゃく座「変身」。同脚本・新演出での十数年振りの再演で、入賞確実。また風姿花伝でのミュージカル上演イベントの一作「ロミオ アンド ジュリエット アット ドーン!」も大胆な翻案。音楽+舞踊になるが、東京戯園館「起源論」での石渡明廣(g)と林栄一(sax)がゲストミュージシャンの回は、音楽の相の変化が全編舞台を彩り、胸を突き上げる高揚へ誘う舞台であった。人形劇のひとみ座「華氏451度」が古典的問題作の優れた舞台化で次点。

2025年は俳優座劇場の閉館が「演劇界」でのニュースだったようだが、先日通りかかったら吉本興業の小屋となっており、閉館は経営事情によるものと推察。指定管理者の変わった座・高円寺の今後も気がかり。時と共に人も社会も演劇も変わる。変わらないのは志(作り手と観客、支援者の)、と行きたい。
実際世相は大きく変わりつつある。果敢に「問う」場としての演劇が、不当な力に屈せずこの一年を生き延びられるように、と願うのみ。

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