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ふじたん ふじたん 浅利慶太は,若いときから「演劇の問題など何もない!」「当たるか,当たらぬかだけだ!」 と豪語していた。劇団四季のミュージカルは,ブロードウェイで大ヒットしたものをリメイクして,NYまでいけない人の欲求を満たしている。今も,東宝は東宝で,ミスサイゴンをやっている。こちらもすごい。 ミスサイゴンは,オペラの蝶々夫人とどこか似ている。アメリカ人が,兵役でアジアに来て,恋仲になるが,本気にはならず捨てる。そして,母国アメリカに戻って,正妻を得るが,このことにヒロインはショックを受ける。アジアの人間は,なんかバカにされているという感じもしないでない。(でも観たい!) 浅利慶太は,「僕らの生は無目的だ!」「人間にあらゆる先験的な価値などない!」などと言う。かっこいい!スタニラフスキー・システムを目の敵にするが,これは,少しずれたものだったと言われる。浅利慶太は,劇団四季のストレートプレイの劇場を,「自由劇場」と名付ける。 浅利慶太は,哲学者で,サルトルの実存主義とか,カミュの不条理哲学にくわしい。パンフレットを作ると,父浅利鶴雄の『築地小劇場』と似ていた。彼は,自分のまわりに知的コミュニティを形成することを得意とした。1933年に生まれた浅利は,1954年に姉の自殺を経験している。 劇団四季は,1953年に慶応の仲間でたちあげた。メンバーには,日下武史もいる。当時の,気分としては,演劇活動が,過去の反ナチ,反軍国主義ばかりじゃ,それは,逃避と同じじゃないか!ということだった。 劇団四季の歴史的大ヒットは,『キャッツ』だ。左翼活動とは,距離をおくようになる浅利慶太であるが,国家権力,それと歩調をあわせる連中を嫌う。心の中で,政治的には革新をひめてもいる。 1960年前半までは,日本のミュージカルは,東宝一極だった。そして,そこは,スター中心であった。当時の劇団四季にいて,今は,東宝に移ったのは,鹿賀丈史・市村正親である。東宝は,その後,『レ・ミゼラブル』『屋根の上のヴァイオリン弾き』がある。 商業主義であるから,劇団四季やら,宝塚を嫌う意見もあるが,芸術に値する俳優養成やら,研修がほかにあったか,というと何も言えない。 今日の,日本演劇界は,哲学がない。演劇表現の確立に失敗している。知的コミュニティもあいまい,演劇人を職業的に自立させることにも挫折している。となると,市場原理では断念して,公的助成はないものか,ということになる。 浅利慶太は,助成金無用でやっていこうとした。そこに哲学があった。つまり,『キャッツ』は,T.S.エリオット原作であるし,『美女と野獣』は,ジャン・コクトー映画化のものである。 娯楽のために,劇場に足を運ぶ人間には,哲学などどうでもいい。たとえば,ベケットの『ゴドーを待ちながら』が,よほどの人気二俳優でもない限り上演で人は集まらない。市場で通じる演劇をめざすことは,浅利の真意とは遠い。 参照文献:戦う演劇人(管孝行)
2013/06/15 05:07
ふじたん ふじたん 日本における「小劇場」とは,何か? 「小劇場」という言葉が,日本で最初に使われたのは,1924年設立の『築地小劇場』。それでも,二年後には,500ほどの客席数にまで膨張する。人間が,人間を身近に感じられる場所をめざしていた。いつの頃か,演劇と社会の関係は,希薄であいまいになっていく。政治的な関心をほとんど持たない若い世代が,観客の中心になって来る。そこでは,エンターテインメント志向が強くなる。 マンガやアニメーションが好きな若者の志向を,サブカルチャーという言い方をすることがある。芸術を志向するわけでもなく,エンターテインメントのひとつとして,演劇も理解してしまうのだ。これに呼応して,若者が次々に劇団を組織し,それを,サブカルチャー志向の若者が観客として見ることが普通になっていく。プロとアマチュアの区別がつきにくい状態もまま起こって来る。 演劇集団は,ある時期,苦労していつでも稽古できる場,アトリエを確保したかった。アートシアター池袋(シアターグリーン)も,もともとは,稽古場をかねた施設であった。小劇場=小劇団だったともいえる。 下北沢には,本田劇場・駅前劇場・「劇」小劇場などがあるが,本田一夫が創設したものは,当初演劇活動をバックアップするためのものだった。しかし,バブルが崩壊して,その性格は変質していく。 ミニ劇場空間とは,個人の私財で動く程度の劇場にほかならない。やがて,巨大資本やら,行政が運営する大型の劇場が増えていく。パルコ劇場,青山劇場・・・。 参照文献:演出家の仕事その三(西堂行人)
2013/06/15 05:00
ふじたん ふじたん 1980年代,新宿から京王線で,渋谷から井の頭線で,10分ほどの世田谷区のある下北沢がにわかに若者の街となっていく。ここで大地主だった本田一夫は,本田劇場・駅前劇場・「劇」小劇場を連続して建設し,下北沢を演劇の街にした。 本田一夫は,もともと演劇青年だった。北海道出身で,新東宝の映画にも何本か出ている。やがて,俳優の道を捨て,下北沢で飲食店を経営する。これが当たる。彼は,その資金を若い頃の「演劇」の夢に投資した。これが,本田劇場の始まりである。 1982年11月に,本田劇場はオープンする。そこでは,唐十郎やら,別役実の作品も並べられた。野田秀樹の「遊眠社」の作品も行われた。甲子園の18回投げ合った太田の物語であった。 1980年代は,100席の小劇場から,この本田劇場(386席)を経て,紀伊国屋ホール(426席)に進むのがサクセスストーリーだった。これを,小劇場すごろくという。都内に,十分な劇場がなかった時代のお話である。 野田秀樹の「遊眠社」は,高萩宏によれば,設備費などの高騰もあって,使いづらくなる。しかしながら,この本田劇場を頻繁に利用することで知名度を上げていく。本田劇場を離れて後,「遊眠社」は拠点を失うことになり,劇団解散への道を急ぐことになった。
2013/06/15 04:56
ふじたん ふじたん 日本における「小劇場」とは,何か?その二 80年代には,野田秀樹と鴻上尚史が浮上する。政治色が薄い方が,メディア向きだった。明るさもあった。このへんで,小劇場は危ない場所から,デートスポットに変化する。 「過去はいつも新しく,未来は不思議になつかしい」なんて,かっこいい!! 渡辺えりの,女性だけの劇団で,平等を尊び,ヒエラルヒーは否定される。男性社会は,どこかおかしいのだ。 演劇史は,人類の歴史と無関係ではない。そこには,ヒューマニズムを謳う時期があった。しかし,残酷な二度の世界戦争をへて,平和とか戦争放棄というのが,不可能という気持ちになる。演劇においては,言葉が語る意味より,人間の身体,身体から表現されるものに,関心が移っていく。 演劇は,それまでは,上から与えられるようなものだった。しかし,観客が参加者という意識が普通になっていく。そのようなとき,意識して,芝居でなく演劇ということばを多く使う。 物語の展開が速く,場面が音楽とともに感覚的に転換するものが一方で好まれる。それに反して,劇場では必要以上に音はなく,俳優の動きも緩やかな,静かな演劇も生まれていく。 演劇の良いところは,ひとつの価値観に固定される方向を絶対認めないことかもしれない。演劇は自己表現にみえて,自己表現でなく,複数の他者を前提にしたきわめて「公的」なものだ。役者は,自分たちで,劇団を作り,劇場を借り,チケットを売る。ここで,他者であるはずの「観客」が,劇場に足を運び,演劇に参加し,役者の世界,表現を,「公的」な性格に導く。 ダンスと,演劇の領域は,ひどくあいまいになって来た。演劇は,舞台芸術というべき時代になる。人間には,デジタル化されない部分がある。それは,想像力の領域だ。 観客動員数に歴然と差のある大がかりなミュージカルに,素晴らしい夕べを過ごす自由も一方にあって良いだろう。だが,演劇の真髄としては,理想的には,観客は,演技者の様子ができるだけはっきり見えた方がいいに決まっている。ということは,劇場は,できだけ小さい方が有利である。その方が,演じるものと,見るものがぐっと近づき,同じ空間を共有している意識が強くなる。 今,双方向的なコミュニケーションが普及して,観客は,主導権を得ているのかもしれない。 参照文献:演出家の仕事その三(西堂行人)
2013/06/15 04:52
ふじたん ふじたん 西堂行人は,対話空間の再構築について考える。演劇というものは,普通は,まず「戯曲」があって,それを演出し,俳優が演じていく。でも,まず,空間があってもいいのだという。その空間では, 「観客」が,主役になることもある。世界には,劇団が,芝居を上演しているのだが,芝居そのものは,あくまで問題提起に過ぎず,観客がそれについてあれこれ意見をいうものもある。これは,「メッセージ」が,一方的に伝達されるのはまずいと思っているからだ。観客を受動化させないことは大切だ。作品が完成されたものだと,それをいかに正確に鑑賞するかが,大事かもしれない。でも,観客の意識は,むしろ受動化しない方がよくて,最後まで不安的な方がいいのかもしれない。この場合,みなが熱狂している舞台で,ひとりしらけた目で,舞台を見返している「観客」がいても良い。 観客が,いないのは,「ワークショップ」だ。これは,どういうものだろう。体験型講座みたいなものだろうか。稽古場の稽古それ自体が,演劇の中核だともいえる活動だ。そこでプロが巣立っていくこともある。一方,教わった技術を使って,いい観客になってもいい。結果,演劇は,密室で作られるものではなくなり,作る過程も公開し,周辺の人を取り込んでいく。 竹内敏晴は,ある時期から,「ワークショップ」活動を活発に展開する。お客に見せる芝居から距離を置くようになる。竹内は,役者志望者の,吃音・赤面恐怖症による表現下手が気になった。日常生活で緊張しきった身体の筋肉をほぐしたい。他人を気にし過ぎて,言葉を正常に交わす人間関係ができていない。舞台の上に立たせても,ふたりの役者の言葉は,お客には向かうが,相手役には,向けられていない。芝居を通して,自分の限界を踏み越え,言葉を正常に交わす人間関係を作りたい。 「ワークショップ」は,セラピー(療法)ではない。セラピー(療法)は,行為をとおして,自分の心理的変化を見ている。芝居は,虚構(フィクション)を通して,何か一線をこえるものだ。舞台は,後もどりがきかないから,自分を投げ出さないといけない瞬間がある。ここで,演出者の個性が発揮される。たしかに,演出者と役者の関係は,権力関係ではある。これは,避けがたい。しかしながら,その権力関係は固定されるべきではない。つねに,可変的なものにすべきである。というのも,方法ができて,それが固定されるのでは,演劇は死んでしまう。方法は,あくまで役者個人から出発し,体験が積み重なってメソッドになる。メソッドは,固定化すると,今度は,役者個人の身体が拘束される。生きた演劇を導くのは,常に役者の身体であって,役者個人の意識ではない。 参照文献:現代演劇の条件(西堂行人)2006
2013/06/15 04:44
ふじたん ふじたん 1986年,チェーホフ戯曲『かもめ』は,うまくいかなかった。それは,作品にテンポがなく,単調だったのだ。戯曲では,食事の場面が目立った。観客は,劇場で,何かが起きる!のを,待っていた。わくわくしたいのだ。断崖から投身自殺したり,不治の病に痛めつけられるのを期待した。 どちらかと言うと,『かもめ』の本質的な台詞は,ごく一部である。そのために,登場人物の感情は,言葉だけを追っても浮かんで来ない。『かもめ』は,はじめ完全な失敗だった。 モスクワ芸術座は,1989年,ネミローヴィチと,スタニスラフスキーとで設立される。彼らは,紋切型の舞台を嫌った。 スタニスラフスキーは,最初,チェーホフの世界がよく理解できなかった。隠されたドラマが,わからなかったのだ。スタニスラフスキーは,『かもめ』を演出することによって,チェーホフ戯曲の,行動の内的な線に気がつく。 チェーホフは,人生の真髄を映し出すためには,余計な舞台効果を嫌っていた。スタニスラフスキーは,演出家として,全体の調子を色づけ,演劇的効果を強くするために音を工夫した。このために,劇作家チェーホフと,演出家スタニスラフスキーは,距離ができていく。チェーホフは,スタニスラフスキーの演出が,最初どうしても嫌いであった。 『かもめ』の工夫には,間の使用がある。間=静止に続く,沈黙。そこでは,場面の行動が完全になくなるわけではない。このことに,スタニスラフスキーは重大な関心を持つようになる。 スタニスラフスキーは,チェーホフにどうしても近づきたかった。それには,登場人物の苦悩とか,生活の悲哀をただ強調すればいいというものではない。俳優が,登場人物の悲しみに浸り過ぎるのは,いいことではないと考え始める。すべてを明るく,陽気で,水彩絵具で描きたい・・・と思った。 チェーホフ戯曲『かもめ』は,やがて,スタニスラフスキーの演出により,大成功となり,モスクワ劇術座の紋章となっていく。 参照文献:チェーホフをいかに上演するか(David Allen)而立書房2012
2013/06/15 04:40
ふじたん ふじたん 演劇集団 円の,『三人姉妹』を観た。この作品は,1940年に,ネミロヴィチの演出で再演されている。芸術座をともに創始したスタニスラフスキーは,亡くなっていた。メイエルホリド(かもめで,コースチャだった)は,殺害されている。今回,上野での『かもめ』と,少しちがった『三人姉妹』を集中して観察した。 堀江新二は,チェーホフの研究者であるが,1901年のものと,1940年のものと,比較している。こういう研究書を読むと,ずいぶん昔の演劇が,時とともにどう変化し,なおかつ生きのびてきたかわかる。チェーホフの演劇は,それまでの演劇とちがって俄然現代的である。それまでの,演劇には,必ず王様が出てくる。場合によっては,幽霊・妖精までも。そこにいくと,チェーホフの残した代表的な作品は,劇的な展開はないが,現代人が生きていくなかで,素朴に思う疑問やら,不合理なできごとが,いっぱいある。 たぶん,老医師チェブトゥイキンのようなことを言ってしまったら夢も希望もないだろう。そのために,1940年には,「夢への実現・明るい未来を志向する時代にふさわしくない」との理由で,台詞「おなじことだ」はカットされている。何のために生きているか,わかろうとも,わからなくても,同じだと水をさすからだ。 当初イリーナは,働くことは,喜びであると思っていたが,実際の職場生活は,楽しいものではなかった。身近なひとたちの例を見て,幻滅もするが,なんとかトゥゼンバフ男爵との結婚に踏み切ろうとする(そこには,愛情はないかもしれないが)。しかし,男爵は,決闘にまきこまれ死んでしまうのだ。 最後「わたしたちの人生は,まだ終わっていない。生きていきましょう。」という感動的な場面は,脳裏に焼き付いて離れないだろう。しかし,そんな前向きな志向も大事なのだが,チェブトゥイキンのいうとおり,人生は流れていくものである。「多少の努力も,水の泡になると覚悟して,やるならやってごらん」ということか。 参考文献:演劇のダイナミズム・ロシア史のなかのチェーホフ(堀江新二)東洋書店2004
2013/06/15 04:36
ふじたん ふじたん スタニスラフスキーは,ロシアの演劇について,批判的にとらえていた。確かに 名優はいるかもしれない。しかし,一般的には,役者は,職人の意識しかない。 名調子に乗せて,セリフを口にすることが,彼らが得意とするところだ。しかし, 演劇は,おもしろくも何ともない。だって,俳優は,相手のセリフを十分に聴い ていない。自分の出だしをまちがえなければ,いい。どこか,演劇が生きていな いのだ。 スタニスラフスキーは,14歳で初めて演技をした。やがて,モスクワ芸術座を設 立し,俳優としても,演出家としても大成功する。しかし,俳優としての体験か ら,ある日は,とても出来が良いが,別の日は,どうもうまくいかない。さらに, 役の種類にもよるが,まったく手も足も出ないものがあることに悩む。さいわい, スタニフラフスキーは,メモ魔で,演劇について,たくさんのノートを蓄積して いた。 これが,有名な「スタニスラフスキー・システム」の出発点になった。 「魔法のif」とは? もし,君が,その立場にいたらどうするのか。これが,スタニスラフスキーが強 く提示した問題である。この問いに,「彼が,このさき難局を切り抜けるために は,こういったことが大事であると思います」,と答えてはだめである。破滅的 な,ぎりぎりの状態にあって,必死に解決策を模索する当事者に自分がならない と話にならないのだ。絶対絶命の危機的な状態から,脱出するという明確な「目 的」をまず持ちなさい。ちゃんとした「目的」を持てば,必然的に,内面の準備 ができ,行動そのものに命が吹き込まれるだろう。 「感情の記憶」とは? 自分自身の過去の経験から,芝居に近い場面を思い出してみよう。そこから,有 益なヒントが得られるかもしれない。(後日,スタニスラフスキーは,これを放 棄する。しかし,初期「システム」は,すでに世界に拡散していた。そのために, アメリカなどでは,その理論を発展継承し,晩年の「スタニスラフスキー・シス テム」と衝突していく。「スタニスラフスキー・システム」というものが,つね に通過点だったということがわかる。) 「スタニスラフスキー・システム」の特徴 「スタニスラフスキー・システム」では,才能やセンス,あるいは,インスピレー ションに頼らない。気分や,感情は,確かにその都度発生する。しかし,記録す べきは,身体的な行動の特徴だ。それは,スコア(譜面)になるだろう。これを, もう一度正確に辿ると,俳優は毎回安定した演技ができるのではないか。こうい ったことを考えた。 スタニスラフスキー自身は,俳優が,目的や課題を集団で遂行する環境の中にい るが,ゆえに悩みがあることもわかっている。俳優は,とにかくうまく演じたい という気持ちに陥りやすい。でも,自意識は捨てる方がいいだろう。観客を必要 以上に意識するのも良くない。とにかく,我が身をさらしてみよう!と言う。 たとえば,酔っている人間を,ふらふら演じるのが,演劇ではないのだ。スタニ スラフスキーにいわせると,酔っている人間が,「ふらつかない」ようにという 目的を持っていることが大事なのだ。ふらふらすまいと,骨を折っていることに 集中すべきである。そこでは,うわっぺらに演じようとする意識は放逐し,むし ろ「行動」にこそ集中すべきなのだと。 参考文献:スタニスラフスキーの「身体的行動の方法」演技創造における俳優の 心身をめぐって(谷賢一) コンスタンチン・スタニスラフスキー (1863-1938) ロシア革命の前後を通して活動したロシア・ソ連の俳優であり演出家。 1888年に文芸協会を設立。1898年にネミロビチ・ダンチェンコ(1859-1943年) とともにモスクワ芸術座を結成し,チェーホフなどの戯曲を上演した。 彼が創り上げた俳優の教育法は,「スタニスラフスキー・システム」と呼ばれ, 世界的に多大な影響を与えた。
2013/06/15 04:33
ふじたん ふじたん 戯曲に書かれているように,演技することが,俳優の職務である!と,考えていた日本人がいた。演劇の価値=戯曲の価値なのだ。演技そのものには,独立した価値などあるはずもない・・・小山内薫は,最初このようなことを思っていた。 小山内薫は,1912年末から,半年にわたって,ロシア・ヨーロッパを演劇視察のために旅行している。その中でも,モスクワ芸術座には,何度も足を運んでいる。このとき,小山内は,スタニスラフスキーに強烈な影響を受けた。 そこで,上述の考えを180度転換することになる。俳優は,戯曲の言葉を受動的に解説しているのはまちがいで,能動的な創造者になるべきかもしれない。 1923年に,関東大震災が起きた。翌1924年,廃墟の中から,小山内薫の築地小劇場が出現する。この場所で,小山内は,さらに明確に,戯曲の価値から独立した,演劇の価値を探求したい・・・と述べている。 築地小劇場は,開場から丸二年間は,西洋演劇だけ上演する。 小山内は,演劇が,脚本・演出が時代とともに,変化すべきと思っていた。しかし,歌舞伎には,時代の精神や,生活がくっついて来てないように思えた。観るためにも,ある程度の予備知識を要求し,民衆的な現代芸術から遠いものと認識している。 小山内にいわせると,本来の歌舞伎の価値は,形式美である。近代の歌舞伎は,心理描写が多い。そのあたりが,おかしくなっている。 1928年,『国姓爺合戦』初演後,小山内は46歳の若さで亡くなった。小山内は,前年ソビエトに旅行していた。ロシア革命後,1921年新経済政策(ネップ)が導入され,1924年には,レーニンが亡くなっていた。 参考文献:小山内薫と二十世紀演劇(曽田秀彦)1999
2013/06/15 04:29
ふじたん ふじたん チェーホフ『桜の園』とは,どのような物語なのだろうか。骨格となるのは,浪費癖のすごいラネーフスカヤ夫人と,子どもの頃から近くで敬愛していた百姓のこせがれだったロパーヒンの対比だ。 さくらんぼ畑は,借金まみれのラネーフスカヤ夫人の手からはなれていく運命にある。それを見かねたロパーヒンは,あれこれアドバイスするが,ラネーフスカヤ夫人は,聴く耳をもたない。あれよあれよという間に,さくらんぼ畑は,競売に出されてしまう。ここで,ロパーヒンは,大金をつぎこみ一か八かの勝負に出る。 この物語のゆくすえは,彼の投資事業がうまくいくかどうかは,未知数だ。しかし,一時的にでも,さくらんぼ畑は,百姓のこせがれが地主になってしまった。さあ,さくらんぼの木を残らず切ってしまって,別荘にでもしよう。しかし,それに対しラネーフスカヤ夫人一家は,せめて出ていくのを待って,斧を振りかざしてください,と訴える。 チェーホフの作品の登場人物は,とてもユニークだ。とりわけ本作品には,おもしろいキャラクターがそろっていて強烈である。場面が始まる前後から,小間使いのドゥャニーシャが,会計係のエピホードフといちゃついている。しかし,夫人とともに戻ってきた従僕ヤーシャにのぼせあがる。 声の大きいピーシク,アーニャに恋している若禿のペーチャ。 お家存亡においても,キャンディばかりなめているガーエフは,老いぼれたフィールスにガウンを着せてもらうことしか考えていない。ヴァーニャが,ロパーヒンに嫁ぐかどうか,気になる家庭教師シャルロッタは,この物語のとばっちりで失業してしまう。 三日間,荻窪に通って,『かもめ』『三人姉妹』『桜の園』と,チェーホフの世界に浸った。チェーホフ世界では,特別な悪党が出てきて,それをみんなで退治するとか,悲運に生まれた主人公が最後はしあわせにたどりつくとか,そういった流れはない。最初なんらかの夢があるが,人生をやっていくと,その計算が狂っていく。それは,だれのせいだろうか,どうにか辛いけれど乗りこえていくべきなのか,・・・そういった問題点に収束する。
2013/06/15 04:23
ふじたん ふじたん 現代演劇は,どう楽しめばいいのだろうか。劇団四季のように,だれにでもわかりやすく美しく完成されたものから,入るのも大切な手段であろう。ミュージカルは,大衆受けしやすいように作られている。一方,あちこちで,小劇場でやっている演劇にもいいものがある。そこでは,どのようなものが上演されているのか。 日本における演劇の歴史では,ある時期,イプセンとか,チェーホフが,くりかえされそれが,日本の演劇の核になっていった。もちろん,シェークスピアの深みのある世界から,生活演劇に矮小化されたという一面もあるだろう。しかし,実際の人生には,大戦争もないし,妖精も出て来ない,単調な人生で老いていくだけである。だから,むしろチェーホフの世界の方が,観ていて実感もわく。 たとえば,『かもめ』では,トレープレフ(コースチャ)は,どんな存在だろうか。彼には,才能があった。しかし,実の母親アルカージナは,俗物でそれを理解しない。コースチャは,母を熱愛していたが,まったく認めてもらえない。それどころか,おそるべきは,母の愛人トリゴーリンが,コースチャの恋人ニーナをひとときの慰みとし,奪って捨ててしまう。コースチャは,作家として成功はするがニーナのおもかげに苦しみ,自殺してしまうはめになる。 次に,『三人姉妹』のヒロイン・イリーナについて,考えてみよう。彼女にも,夢があった。しかし,仕事からはさほどの充実感も得られなかった。彼女は,まわりに薦められるまま,愛のないまま,男爵トゥーゼンバフと結婚しようとする。トゥーゼンバフは,そのようなイリーナのもとを離れ,自暴自棄のまま,ソリョーヌイとの決闘にのぞみ,死んでしまう。ここでは,イリーナの毅然として,愛はないが結婚する・・・というセリフが重く心に残った。 『ワーニャ伯父さん』では,ワーニャが,最後姪のソーニャとともに,「自分たちはとっても不幸なんだ」,と述懐する。たしかに,ワーニャそのものの人生は,教授閣下の下働きみたいなことに奔走し老いてしまっただけ。さらに,ソーニャは,あこがれのアーストロフが教授閣下夫人しか見ていないのに,なにもできない。ワーニャとソーニャは,ふたりして絶望の中で,生きる道を模索するだけ。 『桜の園』では,家庭教師シャルロッタが印象的だった。とても美しく,軽妙に,手品を何度か披露する。しかし,独白の場面では,彼女の経歴は,だれよりも不幸で,自分の正式な年齢もわからないし,両親の結婚状態も知らない。そして,さくらんぼ畑が売り飛ばされると,みごとに失業してしまう。
2013/06/15 04:17
ふじたん ふじたん どうして,私が歩いた大地に口づけするなんておっしゃるの? 私なんて,殺されても当然なのに・・・ もう,くたくた。休みたい・・・ 休みたいの・・・ 私は,かもめだわ・・・ いや,そうじゃない・・・ 私は,女優 あの人は,演劇なんて信じてはいないし,私の夢をいつも笑っていた。 私は,こせこせしたつまらない女になって,わけの分からない演技をしていたわ。 手の動かし方も,舞台での立ち方も分からず,声も通らなかった。 私は,かもめ・・・ いえ,そうじゃない・・・ 覚えている,あなたがカモメを撃ち殺したの? たまたまやって来た男が,娘と出会い,退屈まぎれに,その娘を破滅させてしまった・・・ 参考文献: かもめ(四幕の喜劇) チェーホフ 群像社 現代演劇を観ることが多い中で,小山内薫まで,戻って何があるのか?というが,彼が,日本における現代演劇への道を確かに作っている。彼は,日本にも,大衆娯楽の芝居はあったから,それを全部認めないわけではなかった。でも,人気スターを見にいくだけで,もう少しちゃんとした理論があっても良いかと,考え出す。 小山内は,ロシアにいって,チェーホフの戯曲をやる劇団に出会った。チェーホフの戯曲は難解で,初演では,皆が逃げていくが,スタニスラフスキーという俳優&演出家の腕で,大ヒットしたことを知る。上野ストアハウスでは,今回『かもめ』をやっていた。台本の半分くらいまで,頭に入れて,この劇を見始めた。 そのために,結構複雑な人間関係も,少し違和感のある劇中劇も,結構理解できた。この作品は,トリゴーリンが異彩を放つ。トレープレフ(コースチャ)は,才能はあるが,すでに名声を得たトリゴーリンに恋人と,人生を奪われる・・・可憐で,少しおばかなニーナは,軽率にも,人生の罠に引っ掛かり,カモメのように撃ち殺されるのだ。 そういえば,ディケンズの作品にも,女たらしに引っ掛かり,没落していく女性が登場する。チェーホフは医者だ。近所に,うつ病で,自分で猟銃事故を起こし,頭に包帯をしている男と出会った。その後,この『かもめ』の作品を思いつく。初演が不成功なのは,この作品が複雑過ぎるからだ。 ロシア語も理解できない小山内薫でも,ストーリーを熟知し,頭に入れてしまって観劇したから理解はできた。この劇に感激し,そのときの演出を細かく記録している。『かもめ』のような格調の高い演劇を正しく観る方法。それは,もしかしたら,すべての台詞を丸暗記し,いえるくらいになって,観るのが一番かもしれない・・・ 『かもめ』は,戯曲が,何より一番の時代から,演出・俳優の時代への幕開けとして,価値ある作品なのだ。そのため,劇場にいっても,ストーリーの面白さとか,そういうのばかり追っていても意味がない。目の前で,集団が,演技しているのを良く観ること。連中の身振り・表情をしっかり心に焼き付けたい。熱演に敬服!
2013/06/15 04:13
ふじたん ふじたん いま,演劇に何が起こっているか。2005.12.西堂行人は,述べている。この時点で,唐十郎はもっとも注目を集めているという。教授として,横浜国大でも活動していた。 西堂行人によれば,演劇はギリシア時代より,つねに現実を「模倣」するものだった。ところが,唐十郎はこの関係を逆転させていた。日常の「反映」を舞台が「映す」のではない。唐十郎の言葉は,舞台上に次々に化身をつくり出す。唐十郎の劇は,いつも観客の魂を揺さぶるアジテーションである。 花やしき裏にあったようなテント劇場は,そもそも1967年に,花園神社に立てられた紅テントがスタートだという。テントそのものを,公園のような公有地に張ろうとすると今でもすぐに退去命令が出るという。テントそのものは,それ自体が一つの表現になる。そこに装置空間が発生する。演劇はいつも体験的な記憶となる。一時的に体験し,消え去るものがテント劇場である。「ラストシーンで背景の幕が切って落とされ都市の風景が忽然と劇の中に飛び込む」。この演出は,今回の唐ゼミでも,最後スカイツリーが目に飛び込むことで再現されていた。 芝居の集団は,表現集団+観客である。この点,テント劇場のようなものが,芝居の観客となるかもしれない人々へひろがりを持つのだろうか,という意見も当初からあったようだ。なお,今回の『吸血姫』は,1971年湯島天神・吉祥寺・渋谷で上演されている。
2013/06/15 04:05
ふじたん ふじたん 上野の東京文化会館で,オペラ『マクベス』を観た。このホールは,学生時代,ジャン=ピエール・ランパルのフルートを聴いたとき以来だったと思われる。今回,初めて,三階席から観劇することになる。少しめまいがして気持ち悪かった。 正しいという字を,何度も書き加えているのが,不思議だったが,どうやら人が死ぬ度に訂正を加えていたような気がする。 シェークスピアの全作品は,昔NHKのBBC版でひとおとり観たことはあったが,内容はほとんど忘れている。四大悲劇も,劇場ではまったく観たことはなかった。オペラも,フィガロの結婚とか,ツーランドットとか,それがオペラだったかもしれないくらいで縁がない。 さて,作品はきわめて斬新だった。一度だけしか観てないので,細かいことは無理である。『マクベス』は,17世紀,スコットランドの武将マクベスが,魔女の予言に誘発されて,ダンカン王を殺害し,結局は,悩み苦しみ,マクベスの息子にその座を奪われる物語であるというくらいのことを念頭にじっと見入っていた。 岩波文庫の解説によれば,どうやら『リチャード三世』が似た作品らしい。しかし,どちらかといえば,『リチャード三世』の方が史実的であり,わかりやすい。シェークスピアの全作品で,魔女が出て来ることも珍しく,そういう点でも短い作品でありながら,とっつきにくい要素があるという。 ダンカン王は,まぬけだ。自分の一番信頼を置いている部下に会いに来て,その城で夜襲に遭遇する。マクベスが,短剣を持ちかえると,非情冷酷な夫人は,それを取り上げ,当初の予定のとおり,王の従者の手に握らせる。この日から,マクベスは,良心の呵責に苦しむ。あげくのはてには,魔女の予言のせいだと,魔女を怨む。しかし,魔女などは,どこにもいない。最初から,マクベスは自らの卑しい野心のすがたであり,それにのみこまれて,自滅していく。 マクベス夫人が,「私の手もあなたのように,真っ赤よ。でも,あたしの心臓は,あなたの心臓のような青白くて,やわくはないんだわ」,という。それに対し,マクベスは,「王であるだけでなんの意味もない。心安く王であるのでなければ,何の意味もないのだ。」とあくまで人間的である。 たしかに,今回のオペラの演出にもあったように,殺人が殺人を呼び,王位簒奪は永久にくりかえされるだろう。そして,魔女はその人間の運命の愚かさを,あざわらうだけである。そうして見ると,壮大なオペラのすべての仕組みも良くわかる。とても良いオペラだったと思う。
2013/06/15 03:59
ふじたん ふじたん 「近代演劇の成立」について考える! 1889年に,明治憲法が発布される。1891年,川上音次郎が,「書生芝居」を開始。「板垣死すとも,自由は死せず」。上演後,証拠が残らないので,反政府的活動に利用された。川上音次郎が,海外公演で,芸者だった貞奴を日本初の,本格的女優にする。「正劇」だ。これが,新劇の源流となり,『金色夜叉』なども出た。 1885年頃より,坪内逍遥は,シェークスピアを翻訳した。逍遥は,美濃出身で,農村歌舞伎が好きだった。彼は,東京専門学校で,1890年文学科を開設した。島村抱月は,二期生。日本海海戦の後,1906年に,「文芸協会」ができる。『早稲田文学』発行。逍遥の演劇研究所から,松井須磨子が出る。 二代目左団次は,ヨーロッパで劇場システムを学ぶ。切符は,劇場で売り出し,平土間は椅子に変わった。自由劇場(無形劇場)の誕生である。こちらは,イプセンを上演する。注目すべきは,なぜか,「文芸協会」のシェークスピアは,素人が挑戦していたが,「自由劇場」のイプセンは,歌舞伎役者が取り組んでいた。 シェークスピアは,優れた世界を持っている。しかし,亡霊・魔女が,目立つ劇でもあった。シェークスピアより,イプセンがブームとなっていく。島村抱月を中心とした芸術座は,トルストイの『復活』で,「カチューシャの唄」が大ヒットする。1914年,第一次世界大戦が,勃発した。この頃,浅草レビューも隆盛。やがて,築地小劇場開設。 日本の演劇界の発展は,官主導ではない。この点,音楽・美術とちがっている。お雇い外国人の存在もない。芸大には,演劇科が発生しなかった。いきおい,日本では,演劇では,教師にすらなれないマイナーな分野となる。 戯曲という形式は,俳優の発語を通して,表現が完結するという特殊な文学形態である。観客に何かを伝えるのでないと,意味がない。観客に何かを伝えてくれるのは,俳優の身体にほかならない。戯曲の主題を伝えることと同様に,俳優の演技が重要である。 日本における近代文学の成立には,西洋文化の直輸入ではダメだ。岸田國士は,それまでの,戯曲を小説と似た文体で書く作劇法を改めて,劇的文体を提唱する。どうすれば,劇的な文体,演劇的な美が表現できるか,意識して戯曲を書くようになる。 築地小劇場には,「演出理論」がまだ確立されていない。演出家という名前は,ついたが,段取りを決める振り付けのようなもの。舞台をうまく構成し,交通整理をしていた。 築地小劇場は,翻訳劇を中心に上演していたので,翻訳劇の文体を,いかにうまく言うかが,俳優の演技で重要になった。このときイメージした「リアル」は,日本語に拠って立っていない。以後,「生活言語」と「演技の言語」乖離が,発生していく。日本人は,このようには喋らないと思うほど,演劇では,論理的に登場人物が喋るのである。 参考文献:『演劇のことば』(平田オリザ)
2013/06/15 03:55
ふじたん ふじたん 『かもめ』(Чайка)はロシアの作家,劇作家のアントン・チェーホフの戯曲である。チェーホフの劇作家としての名声を揺るぎないものにした代表作であり,世界の演劇史の画期をなす記念碑的な作品である。後の『ワーニャ伯父さん』,『三人姉妹』,『桜の園』とともにチェーホフの四大戯曲と呼ばれる。 湖畔の田舎屋敷を舞台に,芸術家やそれを取り巻く人々の群像劇を通して人生と芸術とを描いた作品で,1895年の晩秋に書かれた。『プラトーノフ』(学生時代の習作),『イワーノフ』,『森の精』(後に『ワーニャ伯父さん』に改作)に続く長編戯曲。 初演は1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で行われた。これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わった。その原因は,当時の名優中心の演劇界の風潮や,この作品の真価を理解できなかった俳優や演出家にある。チェーホフは失笑の渦と化した劇場を抜け出すと,ペテルブルクの街をさまよい歩きながら二度と戯曲の筆は執らないという誓いを立てた。 しかし2年後の1898年,設立間もないモスクワ芸術座が逡巡する作者を説き伏せて再演する。俳優が役柄に生きる新しい演出がこの劇の真価を明らかにし,今度は逆に大きな成功を収めた。この成功によりチェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなる。モスクワ芸術座はこれを記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した。 ニーナにはモデルがあり,妹のマリヤの友人のリジヤ・ミジーノワである。リカと呼ばれたこの女性はチェーホフ家に出入りするうちにチェーホフに恋した。チェーホフ家で出会った別の妻子ある作家,イグナーチイ・ポターペンコと駆け落ちする。娘も生まれたもののやがてポターペンコに捨てられる。まもなくその娘にも死なれる。 劇中でトリゴーリンやコスチャなどによってたたかわされる芸術論はしばしば作者自身の芸術観を代弁するものとなっており,特にトリゴーリンが吐露する作家生活の内情はチェーホフ自身の姿が投影されたものである。 ニーナがたどった運命と同様のテーマは,すでに中期の小説「退屈な話」(1889年)でも扱われていた。女優志望の若い娘,カーチャが挫折して絶望に陥り,養父の老教授に「私はこれからどうすればいいのか」と尋ねた。老教授は「私にはわからない」としか答えられず,カーチャは寂しく立ち去っていった。 『かもめ』におけるニーナはカーチャとは異なり,終幕において自分の行くべき道を見出している。名声と栄光にあこがれて女優を志したニーナが全てを失った後に終幕で語る忍耐の必要性は,まさにチェーホフが苦悶の末にたどり着いた境地にほかならない。 カーチャからニーナへの成長は,サハリン島旅行(1890年)を経て社会的に目覚めていったチェーホフの進境を示すものであり,本作に提示された忍耐の必要性というテーマはさらに「絶望から忍耐へ」,「忍耐から希望へ」というモティーフへと発展を遂げ,後の作品に引き継がれていくことになる。
2013/06/15 03:52
ふじたん ふじたん 演劇に関する本について 01『劇的クロニカル』西堂行人著,論創社,2006 02『80年代・小劇場演劇の展開』西堂行人ほか,れんが書房新社,2009 03『現代演劇の条件』西堂行人著,晩成書房,2006 04『演劇は可能か』西堂行人著,晩成書房,2008 05『小劇場が燃えていた』小森収著,宝島社,2005 06『リアルだけが生き延びる』平田オリザ著,ウェイツ,2010 07『芸術立国論』平田オリザ著,集英社,2008 08『演劇入門』平田オリザ著,講談社,1998 09『演劇のことば』平田オリザ著,岩波書店,2009 10『戦う演劇人』菅孝行著,而立社,2007 11『戦後演劇』菅孝行著,社会評論社,2003 12『新劇とロシア演劇』武田清著,而立書房,2012 13『俳優と超人形』クレイグ著,而立書房,2012 14『チェーホフをいかに上演するか』アレン著,而立書房,2012 15『演劇のダイナミズム』堀江新二著,東洋書店,2004 16『スタニスラフスキー入門』ベネディクト著,而立書房,2008 17『スタニスラフスキー伝』ベネディクト著,晶文社,1997 18『チェーホフの世界』渡辺聡子著,人文書院,2004 19『チェーホフ巡礼』牧原純著,晩成書房,2003 20『モスクワ芸術座』ウォーラル著,而立書房,2006 21『小山内薫と20世紀演劇』曽田秀彦著,勉成出版,1999 22『僕と演劇と夢の遊眠社』高萩宏著,日本経済新聞出版社,2009 23『だから演劇は面白い!』北村明子著,小学館,2009 24『赤鬼の挑戦』野田秀樹ほか著,青土社,2006 25『なにもない空間』ブルック著,晶文社,2011 26『秘密は何もない』ブルック著,早川書房,1993 27『演劇は仕事になるのか』米屋尚子著,2011 28『内角の和』鈴木忠志著,而立書房,2003 29『演劇と創作の実践ノート』高橋いさを著,論創社,2009 30『演出家の仕事』栗山民也著,岩波書店,2007 31『演劇の歴史』ヴィアラ著,白水社,2008 32『からだ・演劇・教育』竹内敏晴著,岩波書店,2008 33『ベケットといじめ』別役実著,白水社,2005 34『深読みミュージカル』本橋哲也著,青土社,2011 35『ミュージカルが最高であった頃』喜志哲雄著,晶文社,2006 36『チェーホフの戦争』宮沢章夫著,筑摩書房,2009 37『かもめ』チェーホフ作,群像社,2002 38『三人姉妹』チェーホフ作,群像社,2004 39『さくらんぼ畑』チェーホフ作,群像社,2011 40『ワーニャ伯父さん』チェーホフ作,而立書房,1999 41『青い鳥』メーテルリンク作,新潮社,2011 42『人形の家』イプセン作,岩波書店,2012 43『スカパンの悪だくみ』モリエール作,岩波書店,2008 44『どん底』ゴーリキイ作,,岩波書店,2011 45『優秀新人戯曲集』劇作家協会編,ブロンズ社,2011 46『遭難』本谷有希子作,講談社,2012 47『琉歌・アンティゴネー』森井睦作,2012 48『ねぼすけさん』佐々木充郭作,2012 49『スタニスラフスキーの身体的行動方法』谷賢一著,明大卒論, 50『演劇嫌いのための演技論』堀切克洋,論文,
2013/06/15 03:46
ふじたん ふじたん 劇団四季の活動は,実は,新劇の中で異端視されてきたものだった。新劇は,舞台から,何かを教えてやろうとするような傾向があるが,その点が浅利氏は許せない。論理的な劇こそが,芸術なのだ。たとえば,『オイディプス』などは,自分探しをし,確実に自分を発見する。演劇が論理の芸術であるという視点が,新劇界では欠落していた。 たとえば,『桜の園』は,単純に喜劇で良い。チェーホフ自身がそう述べているのだ。この作品は,借金はあるが,桜の園は売りたくないというガーエフ,ラフカネスカヤ,という兄妹をめぐるお話だ。現実を絶対認めない人間たち,固定観念に取りつかれた人間たち,こっけいな存在にちがいない。ほかに,ずっと学生をやっているトロフィーモフも,インテリぶってはいるが,未来などを語る資格はないだろう。役に立たないような固定観念にしがみつき,滅んでいくひとたちの喜劇を描いた作品にほかならない。 浅利慶太自身は,父親が,三味線の音を聴くと不愉快そうな顔をしていた思い出を語る。(日本の中では,どこか論理的な世界を拒絶するものがあったということの象徴として,このエピソードはある) ドラマという芸術は,論理的な芸術である。はっきりした主題にもとづく行動がある。対立するエネルギーとたたかいながら,起承転結に運ばれ,カタルシスを最後にもたらす。人間と,人間をこえる存在が対立する。そこで,劇的な条件が生まれる。それに対し,日本のものは,ただ流れていくものが多く,論理的とはとてもいえない。ドラマトュルギーとは,この論理性のことにほかならないのに。 能と,ギリシア悲劇は,形態的に似ている。それは,芝居は一種の祭りだから。シテが,今年は豊作で良かったと呼びかけ,群衆がそうだと答える。群衆から飛び出したひとりが,ワキとなる。演劇は,抑圧か,庇護のもとでしか育たない(ルイ・ジュヴュ)。無関心では困る。時代が混乱することは,必ずしもマイナスではない。新劇では,外国で観てきたものをそのままやろうとする傾向があった。筋などをつかまなくとも,型どおりにやればいい。論理的な発想もそこでは,じゃまになる。 芝居をアリストテレスは,時・所・筋の三つでとらえた(三一到の法則)。すべての事件は24時間以内に(時)。すべての事件は特定の場所で(所)。そして,一つの主題にしたがって,一つの筋を貫徹する(筋)。筋の展開には,論理が必要になる。だから,西洋演劇をやると決めたら,鎌倉仏教の思想みたいに,システマティックな考え方を排除する思想とたたかわないといけなくなる。演劇は所詮フィクションなのだから,そういった論理性は,絶対に守られないと良い演劇はできないのだ。 ある種の演劇を否定しないと成り立たない演劇というものもおかしい。絶対的に排斥しないと,成立しない演劇があるわけではない。でも,「西洋演劇」というものは,論理性をその本質とするものであるので,そこでものを考え,演出し,演技し,観客を一同に会し,カタルシスにいたるとき,論理・対立という視点は必要なのだ。 以上,浅利慶太氏の考えにそって,まとめるとこんな感じになった。 浅利慶太は,劇団四季公演『ひばり』のパンフレット(1978.9.)で,山本七平(評論家)と対談している。そこで,「新劇70年」を再検討していた。
2013/06/15 03:43
ふじたん ふじたん 英語のTomorrowが,『アニー』には良く出て来る。このとき,このTomorrowは,古語の朝を意味するmorrowへ向かう,つまり「朝」に向かうという意味もある。これは,マクベスでもそうなる。ひとつのTomorrowが,「明日」という意味と「朝」という意味があるのだ。 役を演じている人間が,マクベスの台詞をしゃべりながら,「明日」へ,あるいは,「朝」に向かって舞台上で,歩みを進める。すると,背後から光が射して,自分の小さな影が消えていく,つまり,人間がこの世という舞台から退場することになる。 シェークスピア劇で,マクベス夫人は,Lady Macbethとされる。特に名がつかないのは珍しい。これは,マクベスと夫人は,ダンカン王暗殺の共同正犯・一心同体のカップルという印象になる。たとえば,終始, Macbeth : If we should fail ? Lady Macbeth : We fail ? といった感じである。 Weということばが,強く使われ,あくまで「しくじる」のは夫婦同罪なのだ。 マクベスは,ダンカンの寝込みを襲って,短剣で刺殺する。ダンカンのお付きの者も殺す。 マクベス夫人は,夫に「短剣を貸して」という,「二人を犯人に仕立てるおめかしよ」という凄い台詞がある。こうして,ふたりの従者に濡れ衣を着せる。 シェークスピアは,マクベス夫妻の言葉の劇を書いている。一心同体に,王位簒奪の野心の旅が完成した後,狂死・崩壊への旅が始まる。 どうしたというの,妄想などにとりつかれて。済んだことはすんだことじゃないの。 食事のあいだも,眠っていても,びくびくするんだ。悪夢にうなされるくらいなら,いっそ死人と墓場で寝ていたいよ。 バンクフォー殺害については,マクベスの独断になり,夫人は計画も知らない。ここにいたって,ふたりの共犯は,崩れ始める。マクベスは,暴君に向かう。マクダフ,マルカムから悪魔のマクベスと呼ばれ始める。 マクベス夫人は,手についた血が,どうしても取れないと何度も何度も手をこする。そして,ついに発狂して自殺するのである。 参考文献:深読みシェークスピア(松岡和子)
2013/06/15 03:39
ふじたん ふじたん 演劇とは何であろう。 「劇」という漢字は,みっつの部分で成り立っている。ふたつは,虎とイノシシで,もうひとつは,刃物である。ゆえに,二匹の猛獣が,きばをむいて激しくたたかうもの。演劇は,激しくぶつかるものが表現されるエンターテインメントであることが多い。より良く生きたいがために,そこにたちはだかるものが,演劇では重要であるという言い方もできる。 世界には,どうやら二系列の演劇がある。ひとつは,古典主義のものである。それは,ギリシアから,伊ルネッサンスを通過,イプセンなどの近代劇につながる。一方は,その他変化に富み,非論理的であったり,感覚的であったりするもの。 人間には,食欲とか性欲もあるが,虚構の世界で遊ぶ味わいが必要であって,演劇なども人間の生活にとって,深くかかわってきたものなのだ。
2013/06/15 03:35

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