満足度★★★★
虚構から虚構を問う
劇団ダダン卒業公演「アフター・ミモザ」劇評…虚構から虚構を問う
ネタバレBOX
劇団ダダン卒業公演「アフター・ミモザ」劇評…虚構から虚構を問う
愛と恋が同時に語られることがおかしいと、言う。
確かにそうだ。愛は特定の個人に向けられるものではないだろううし、恋は自分の中だけで自己発酵するものだからだ。言ってみれば両極であり、相容れるものではないはずだ。この演劇では、愛と恋の不適合性を言っているし、これは現実社会の不幸性を暗示している。
近松の虚実皮膜説を言うまでもなく、創作は虚構でありその中でハッピーエンドがある。そこで言うハッピーとは何かを問うのだ。
ラブストーリーはベッドへ行く直前で終わると言う。なぜなら人類の性行為は滑稽か暴力のどちらかでしかないからだ。童話などは「そして、幸せに暮らしました、とさ」とお茶を濁す。つまり、エンドの後の現実に目を向けない。
ロミオとジュリエットのその後を探ることで、エンドの意味と現実の存在を問う。「オニ」は波乱万丈の出来事の直後に心中する最高のハッピーエンドだと言う。なるほどそうだ、その後の現実を知らずにすむからだ。
現実の中でハッピーがなくなるのは、消費経済に組み込まれるからだ。それを現実と定義するなら、現実にはハッピーはない訳だから、ハッピーは幻想ということになり、現にオニがそれを指摘する。そして現実のひとつが妊娠である。
オニは人類の質を問う。毎日殺し合っていて何がハッピーなのか?と…
それはヒトがどういう時に、どういうものにハッピーを感じるかに迫る。女性作家は自らのハッピー体験を言う。出会い、デート、迎えた夜…それがハッピー体験だとしたら、それはパーソナルなものである。劇中劇で「あなたをこれから知る」と言うのと同じだ。つまり、「知り合う」前にハッピーは準備されているのだ。
人生のエンドは紛れもなく死である。創作だけが中途のエンドを提示でき、しかもハッピーでもバッドでも自由自在である。それを問う。何がハッピーなのかと…
ところがオニは産まれる前に殺されているからハッピーを知らない。ハッピーは産まれてからあるものらしい、というより幻想は生を基層としているのだ。楽しみは幻想であり、愛は夢だと言う。
そして、魂は引き継がれるものだから、魂の「殺人」は繰り返される。
備考
ブータンは幸福度が高いと言う。デンマークもそうだ。デンマークの大学生のアンケートでは「不満が少ない」といううことだった。幸福の把握は難しいが、不幸の尺度は数値化しやすいのかもしれない。今、99パーセントの人たちの意思表示がされている。99パーセントの人たちに元々幸福など準備されていないのだと思えば話は明確である。幸福という概念は搾取の中でのみ存在機会があるのかもしれない。
ラブストーリーはベッドの直前で終わると言った。なぜなら、性行為も現実社会の消費経済も「ラブ」とは縁遠いからだ。成瀬巳喜男の映画作品『浮雲』が極北の男女関係と言われるのは、その全てを包含しているからだ。
ミモザに関しては、その「花言葉」を参照してほしい。
満足度★★★★
業と切なさと
劇団ダダン卒業公演「アフター・ミモザ」昨晩初日第一回観てきた。数多くのモティーフとプロットを細い糸で結びつけ、テーマに持っていく本がたいへん秀逸。舞台はコメディタッチで客をつかみ、その後人間の深層のテーマに持っていく手腕にも感心した。ダブルステージ(劇中劇風)を演じた役者の熱演にも心を動かされた。ただ劇評を書くには頭を整理する時間が必要。18日まで阿佐谷アルシェで。作・演出:井上良