「reading」という演劇の形態が、どういうものをいうのか、未だに私には定義することも、命題にすることも出来ない。経費(予算)の都合でstraight playが難しいので、readingにしよう的発想から、この作品は語りのほうがイイ的発想まで、さまざまで、要するに本質的にreadingというものがあるのではなく、情況的に存在するのがいまの演劇sceneなんだろう。とはいえ、readingに可能性がナイわけではナイ。「みえるradio drama」あるいは「radio dramaの実写版」「real time な radio drama」とでもいえばいいのか、そこはそれ、私の思うのには、「ワケのワカランものには可能性がある」的なのだ。(だいたい『寿歌』からして、発表当時は、こんなものは演劇ではナイ。ワケワカラン派の演劇業界人が多くいたからな) その可能性の一つとして、『寿歌Ⅳ』は、音楽的なベクトル(波)を干渉させてみた。語り手を同じベクトル(波)とすると、その干渉(重ね合わせ)は状態ベクトルとよばれるコヒーレント(ゆらぎの増幅)として現れてはくれないだろうか、という魂胆だ。今回は音楽的なものに、marimbaとpercussionを用いる。この公演のために、演奏者の新谷さんは、最も大きいマリンバ(おそらく5オクターブのもの、低音が美しい)を演奏する。 『寿歌Ⅳ』は一応『寿歌』のfinalだが、完結というものではナイ。『寿歌』の旅はまた始まる。おそらく私が死んで後も、終わることなく、この「あかるい虚無」の旅は続くだろう。その可能性の一つをごらん頂ければ僥倖だ。
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