実演鑑賞
満足度★★★★
アイルランド産の戯曲は日本でもよく取り上げられ、話題作も多い。主に英語で書かれ英米で上演されやすい=各国にも翻訳されやすい、という事もあるだろうか。
エンダ・ウォルシュは近年(2000年代以降)の作家で若手のよう。日本ではいずれも白井晃の手で演出され、私は今回初めて目にした。
チケットは早い段階で完売であったが、当日券に並ぶと結構な数があり、最後尾に並んでも「座席」には座れた。どういう売り方を?・・とふと疑問が。
幕が開くとそこはだだっ広いスタジオのような空間。物がやたらと置かれてある。パジャマ姿の男が入って来て、どうやらパーティの残骸らしい物たちを男は仕方なく片付ける。奥にドアがあり、ドアまでの幅広の通路の左側に防音室のような部屋が設えられており、正面がガラス張り。ここへも頻繁に出入りする。その手前の横に広い舞台空間は、上手に人一人入る小さなブースが、下手には小卓と椅子が、奥には音響設備が置かれた小さなワゴンが置かれ、その下手側の隣にドラムセットがある。
三人芝居。プラス、ドラマーが参加。
戯曲の語りの技巧というか、洗練され具合が現代的で、隠喩の手法が独特である。
精神障害、と思しい青年がそこは病院か施設に通じてあるか内部なのだろう、パジャマのまま(着替える間を与えられず)年一度というこの日を迎えたものであるらしく、彼のためにこのスタジオは予約されている。
彼自身の物語を語るパフォーマンスを完遂させるための助っ人として、二人の女性(たまたま二人ともメアリー)と、ドラマーが順次、入って来る。
青年自身が書いた台本を読む彼のバックで、ドラマーが即興の伴奏、音響係の女性が効果音やマイク音量調整、そしてもう一人のメアリーが全体を仕切り、台本を勝手に(断りなく)削ったり、スタッフに指示を出す。彼女はこのイベントに実は深くコミットをしており(趣旨を理解しており)、青年が今後も施設で暮らし続ける選択をするよう誘導するのが使命らしい事が後に分かる。
そこまでのミッションを伝えられてない(趣旨にそれ程賛同も関心も寄せて一方のメアリーは、彼のパフォーマンスを完遂する、という表向きの使命に真面目に取り組む内に青年の語り(幼少時の虐待=ネグレクトの風景など)をその言葉通りに(意味付けせず)受け止め始める。このパフォーマンスのポップな演出に疑問を持ち始めた様子で、孤独であり続けてきた彼の「友達」(あるいは恋人)となって行く。
実演鑑賞
満足度★★★
精神病院らしい施設の一室で行われる演劇治療らしい。その出来次第では退院できるのではないかと、ジョン(田中圭)は期待を持つ。老人の紛争で現れる音響兼役者のメアリー(奈緒)、ロブスターの着ぐるみで現れる、エネルギッシュに指示を下す俳優のメアリー2(富山えり子)、そしてドラマー(荒井康太)。彼らがジョンの治療劇の出演者、音響だ。メアリー2がブースに入るときに起こる強風など、演出家の工夫かと思いきや、すべて台本の指定らしい。かなり凝った戯曲である。
「気分はどうだね」「いいです」「何でここに来たんだと思うかね」「僕がほかの人と違うから…」…医師とジョンらしき会話の録音が、舞台にいる4人以外の、監視者の存在を示す。二人のメアリーは、雇い主と携帯で話したりもする。こちらからは見えないが、相手からは見えると思わせる「視線の政治学」が可視化されている。監視と監禁の中での、1年に一度の治療劇。両親の愛情の薄かった幼少時代(赤ん坊の人形も使う)、いじめ、そして、施設の庭で花咲いた恋と退院の夢…。歌ったり、踊ったり、走ったり。劇中劇を出たり入ったり。振幅の激しい感情と、ダンススタジオのような動きはすさまじかった。