第七劇場 WORLD TOUR 2010-2011
広島公演
実演鑑賞
広島市東区民文化センター・ホール(広島県)
2011/11/05 (土) ~ 2011/11/06 (日) 公演終了
上演時間:
公式サイト:
http://www.cf.city.hiroshima.jp/higashi-cs/dainana/
期間 | 2011/11/05 (土) ~ 2011/11/06 (日) |
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劇場 | 広島市東区民文化センター・ホール |
出演 | 佐直由佳子、木母千尋、山田裕子、小菅紘史、菊原真結、須田真魚、伊吹卓光、米谷よう子 |
脚本 | チェーホフ |
演出 | 鳴海康平 |
料金(1枚あたり) |
1,000円 ~ 2,000円 【発売日】2011/10/01 一般2000円、学生1000円 (前売・当日ともに) 高校生以下無料(学生証提示、要予約) |
公式/劇場サイト | ※正式な公演情報は公式サイトでご確認ください。 |
タイムテーブル | |
説明 | 常に心の一部分を占領している、またはふとした瞬間に目の前を覆いつくしてしまうような過去と、そのつど折り合いをつけて、私たちは前へ進む。そうして生活していると、あることに気づく。その過去が自身に対していかに大きな力を持っていようと、世界とは何も関係がないということに。どれだけ涙を流そうと、身動きできないほどの震えに襲われようと、世界には何も変化は起きない。そんな人間という小さな存在を深く愛し、その空しさも同じくらい愛した作家チェーホフが描いた、痛いくらい静かな、たったひとりの存在を証明する物語。 2007年東京初演。2010年2月、千種セレクション(名古屋市・千種文化小劇場)に招待されリクリエイションされる。同年12月、三重県文化会館よりワールドツアーがスタートし、以降、パリ(Bertin Poirée)にて上演され、2011年は国内にて真庭、東京、広島で上演。 ■『かもめ』寄稿文 第七劇場の『かもめ』を見終わったあと、どうしようもなく胸高鳴る自分がいた。新しい表現の領域を見つけてしまったという心密かな喜びと、その現場に居合わせることの出来た幸運に震えた。彼らの『かもめ』は演劇作品に違いなかったが、別の何かだとも感じた。「ライブ・インスタレーション」という言葉がピタリと腹に落ちた。「インスタレーション」とは、主に現代美術の領域で用いられる言葉で、作家の意図によって空間を構成・変化させながら場所や空間全体を作品として観客に体験させる方法だ。元々パフォーミング・アーツの演出方法を巡る試行錯誤の中から独立した経緯があるというから、演劇との親和性は高いのだろう。しかし、すべての演劇作品が「インスタレーション」を感じさえるかといえばそうではない。 舞台を四方から客席が取り囲む独自な構造を持つ千種文化小劇場・通称“ちくさ座”(名古屋市)。この舞台に置かれていたのは白い天板の長テーブルが1つに、黒いイスが数客。天井からは白いブランコが1つと、羽を広げた“かもめ”のオブジェが吊られており、床は八角形状に白いパネルが敷き詰められていた。役者たちの衣装もモノトーンやベージュといった大人っぽい配色でまとめられ、全体としてスタイリッシュな印象だ。舞台セットの影響なのか、作品中のセリフでは、チェーホフの『六号室』や『ともしび』といった他の作品の一部も引用され、人間の生々しい欲望や絶望を色濃く孕むセリフが続くが、不思議と重苦しさに傾くことがない。むしろチェーホフの描く狂気や人生における悲しいズレが、役者の身体と現実の時間を手に入れ、終末に向かって疾走する快感へと変容していく。役者たちの独自の強い身体性が、無機質な空間の中で描く軌跡は、従来の演劇の魅力だけでは説明が難しい絶妙なバランスを生み出しているのだ。 第七劇場の『かもめ』は、演劇の枠だけで完結しなければ「インスタレーション」作品として押し黙っている存在でもない。戯曲に閉じ込められた時間を劇場という空間に新たにインストールし、生きた役者の身体によって再生する。それは観客との間に「今、この瞬間」を共有する「ライブ・インスタレーション」として新たな領域を創造する行為に他ならない。 「インスタレーション」は、観客の体験(見たり、聞いたり、感じたり、考えたり)する方法をどう変化させるかが肝らしい。この作品は優れた演劇作品であると同時に「インスタレーションの肝」そのものではないかと思うのである。 亀田恵子(Arts&Theatre Literacy) ------------------ 2010年2月千種文化小劇場、12月三重県文化会館で第七劇場の『かもめ』を観劇。時の交錯を感じた千種、閉塞と決壊を感じた三重。どちらについてもその「観後感」は、まったく違っていて。鳴海氏の構築する世界は、その“場所”で変化し、その“人”で変化するようです。“人”とは、役者はもとより、スタッフ、劇場の人々、そして当日来られる観客、すべての“人”を包んでいます。実際観に行った私自身の変化も少なからず影響しあいながら「劇場」という空間が形成されていくのでは。そしてそれは建物の中だろうが、外だろうが、1人だろうが1万人だろうが変わらないのでは…違うな。変わらないのではなく、変わることも含めての「作品」なのです。白い床も、テーブルも椅子も、ブランコも「かもめ」のオブジェも、何一つ変わっていないようなのに…。そんな演劇のもつ『その場でしか出会えない幸せ』に皆さんで会いに行きましょう。 金山古都美(金沢市民芸術村ドラマ工房ディレクター) ------------------ 三重ではまだ無名でもこれはという才能を感じる若手劇団の作品を紹介する「Mゲキ!!!!!セレクション」を立ち上げるにあたって、名古屋・京阪神を中心に、時には東京にも足を運んでいろいろな作品を観て回ったが、第1弾をどれにするかややナーバスになっているころ、名古屋ちくさ座で第七劇場の『かもめ』に出会った。私にとってはいろんな意味で“どストライク”で、この作品をセレクションの第1弾に選んだ。ひとつには三重の方々がまだ観たことのない世界観を表現していること、そしてもうひとつが演劇を観慣れていない人が観ても、ただただ圧倒される美しさを兼ね備えていることだ。あまりにも有名な『かもめ』という作品を60分に凝縮するという作業を、鳴海康平はニーナとコースチャのふたりに焦点をあててテキストを削ぎ落としただけでなく、コースチャ自殺後の精神病棟に佇むニーナまで登場してみせた。巨大オブジェと不安定なブランコが象徴する不穏なモノトーンの世界は、錯綜する現在と過去を美しく浮かび上がらせる。そう、しんしんと、しんしんと降り積もる雪の中で。あ~、もっかい観たい。 松浦茂之(三重県文化会館事業推進グループリーダー) ------------------ 私たちの深層心理に迫りくる懐かしさの気配、演劇を超えて広がる舞台芸術への希求、それが第七劇場『かもめ』初見の印象だった。 白のリノリウムが敷かれ、白紗幕が下がった劇場は、ブラックボックスでありながらも、ホワイトキューブ的展示室をも想像させる洗練された空間。そこにあるのは、白い長テーブルと幾つかの黒い椅子、天井から吊られた真っ白のブランコやかもめのオブジェ、そして座ったり蹲ったりしている俳優たちの身体だ。白い空間にじっと佇む身体は、彫刻作品のようでもある。上演中も俳優たちは役柄を演じるというより、配役のないコロス的身体性を表出させている。身体の匿名性は、観客自身が自らの身体の記憶と結び付けるための回路を作り出す。それは抽象度の高いダンスパフォーマンスと通ずる身体。前半は僅かに歩いたり、ゆすったりしていた身体が、後半になるにつれて、走ったり、体を払ったり、震わせたりと、より激しく痙攣的になっていく。演劇的マイム性とは一線を画したこれらの身振りが、絶望的に重苦しく表現主義的になりがちなロシアの物語を今日の日本に切り開いていると言ってもよいかもしれない。 怒涛のラストシーンまで、作品全編を演出家・鳴海の真摯さが貫いていく。しんしんと静かに降り積もる雪のように、一見穏やかに見える身体の佇まいの内には、静かな情熱の灯がいつまでも熱く燃え続けている。それがこの作品の確かな強度となっているのだと思う。 唐津絵理(愛知芸術文化センター主任学芸員) ------------------ When I saw The Seagull performed by Dainanagekijo in March 2011 in Paris, it was the first time for me to fully understand what is at stake in this well-known Anton Chekhov's play. After seeing few unsuccessful versions for me in the past years, I had the chance to discover a Japanese version of this Russian play that really enchanted me. I was so impressed by the ability of Mr Kouhei Narumi, who directed the play, to give good instructions to the actors so they can express such a great humanity and compose such good visual scenes on stage. In this unique performance, I felt a sense of universal. I had to wait for the Japanese Dainanagekijo company to realize my wish of feeling connected to the play. Playing the role of Anton Chekhov's characters, actors succeeded in carrying me into one of those imaginary places where only great tragedian plays can carry you. From the very first beginning of the play, I was driven away from the real world and I opened my eyes to watch characters moved by passion, despair and sorrow... The main feelings which are at the heart of The Seagull. Through a great physical performance actors created a series of movements on stage inspired by contemporary dance and sometimes stopped into striking pauses, such as these women who lifted their arms up as if they wanted to fly to the sky and escape from their condition. But finally they remained to the ground as if they were imprisoned. In opposition to freedom, or as a consequence of the lack of freedom, the three female characters, dressed in white, seem to fall into madness. As the three women move faster on stage, it gives the impression, in a visual appearance, of a contrast with the other characters, dressed in black, who move slower. I had this image which came up in my mind of the female characters are turning around and around from the center to the borders of the stage, so that they seem to want to explode a sphere which would represent the ruled world where they lived. The characters dressed in black appeared to me as a symbol as a ruled society which take back any outsiders into his place. This reminds me of what Anton Chekhov tried to draw up a portrait of the artist's condition of his time with this play, explaining how artists were outside of the society and living hard times. In The Seagull the three female characters represent this, showing how they struggle to survive into a different state-of-mind and in a faster space-time and how they always get caught into the society's claws. At the end of the play, I asked myself : would you be considered as mad if you behave differently from anyone else ? Anyhow I can tell for sure that Dainanagekijo's performance crossed international borders and came up to me to arise questions. I wish that Dainanagekijo will meet the great success that this performance deserves and will open more eyes and minds of audiences all across the world with this beautiful artistic play. (日本語訳) 2011年3月、パリで第七劇場の『かもめ』を観たとき、このよく知られたチェーホフの戯曲において何が問題となっているかを、はじめてよく理解できた機会だった。『かもめ』は昨年にあまり成功していないと感じるいくつかの演出版しか観ていなかったが、私の心を奪ったこのロシア演劇の日本人演出を私はたまたま観る機会を得た。私は演出・鳴海康平の力量に感動した。深く人間性を表現できる俳優への的確な演出があり、とても美しいシーンを舞台上に構成していた。このすばらしいパフォーマンスの中で、私はある種の普遍性を感じた。私の演劇に関する感覚的な願いが実現するためには、この日本の第七劇場を待たなければならなかった。チェーホフ戯曲の人物を演じながら、偉大なる悲劇だけに可能な想像空間のひとつへと、私を連れ去ることに俳優たちは成功していた。この芝居の最初から私は現実の世界から引き離され、登場人物が衝動や欲求や悲しみによってつき動かされることに目を見張った。それは『かもめ』の中心となる感情である。素晴らしい身体的なパフォーマンスを通して、俳優たちはコンテンポラリーダンスを想起させる一連のムーヴメントを創り、ときに印象的な間の中で静止する。手をあげる彼女たちは、まるで空を飛びその状況から逃げ出したしたいかのようである。しかし、閉じこめられているかのように最終的には彼女たちは地上に留まる。自由への抵抗の中で、もしくは自由が欠けた結果として、白い服を着た3人の女性の登場人物(訳者注:患者2人とニーナの3人)は、狂気の中へ落ちていくように見える。彼女たちは動きが速く、それは視覚的には、黒い服を着た他の人物たちの緩慢な動きと対照的である。舞台の中央から端へとぐるぐると回る彼女たちを見て、彼女たちは自分たちが生きている規定された世界を象徴するある種の領域を爆破したいかのようなイメージが私の心に浮かんだ。黒い服を着た人物たちは、外部の者に自分の居場所を思い出させる支配社会の象徴を思わせる。このことは私に、チェーホフがこの作品でいかにアーティストが社会の外側に位置し、つらい時代を生きていたかを明らかにすることで当時のアーティスト状況の描写を試みたことを思い出させる。かもめにおいて、3人の女性の人物たちは、ある異なる精神状態の中で、そして目まぐるしい時空の中で彼らがいかに必死に生きるか、また彼女たちがいつもいかに社会の爪に捕えられているかを現している。この芝居の終わりに私は自問した。「もしあなたが他の誰かとは異なるふるまいをするなら、あなたは気が狂っているとみなされるのだろうか?」いずれにせよ、第七劇場のパフォーマンスが国境を越えて、いくつかの問いを私に起こしたことは確かである。 この美しく芸術的な作品とともに第七劇場が受けるにふさわしい大きな成功を果たすことを、そしてあらゆる世界を横断し、さらに多くの観客の目と心を開くことを、私は願っている。 Marianne Bevand (Performing art producer in France) |
その他注意事項 | 受付および開場は開演の20分前からとなります。 上演時間は約70分です。 終演後にアフタートークを実施します。 |
スタッフ | 【原作】A・チェーホフ 【構成・演出・美術】鳴海康平 【照明】島田雄峰(Lighting Staff Ten-Holes) 【音響】和田匡史 【衣装】川口知美(COSTUME80+) |
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