公演情報
「「ベッドに縛られて」 「ミスターマン」」の観てきた!クチコミ一覧
満足度★★★
「ベッドに縛られて」は父と娘のモノローグ??父親が語る物語は彼の過去なのか妄想なのか?よくわからない。父と娘の対話では...ない?葛藤?でもない?
「ミスターマン」は母と二人暮らしの青年の物語か?偉大なる父のために仕事をする主人公の青年。宗教体験のない私には神の声をきくとか、信仰や啓示などはよくわからないけれど、妄想が暴走してゆく様は恐怖を感じるところもあった。
満足度★★★
今作が根底で
2012年のトニー賞でミュージカル台本賞を受賞した
「ONCE ダブリンの街角で」が異色なんだなぁ~と思いました・・・
ブラックな不条理コメディがメイン~?
暗く捩れた印象をアイルランドに持ってしまいそうです
まぁ あまし自分の好みでは無い方向性の作品であった と感想です
2作 2時間30分=10分の休憩(舞台セットチェンジ)です
小型の椅子は
高齢者にはキツイよなぁ~と感じる=
結構高齢の観客層であり
男女比はトントンだったかな
しかし休憩中にカサカサと飴出してくれれば
明るくてガサゴソもし易かろうに
わざわざ暗転→開演して台詞しゃべり始めてから
カサカサ音出して暗い中で飴を出す輩は・・・馬鹿なの?
無駄な人生を過ごして周囲の迷惑とか勉強&理解できないの?
い~い年を重ねてねぇーとか思わせてくれた屑がいたです・・・・(ー_ー;)
満足度★★★★
鑑賞日2019/03/12 (火) 19:00
座席G列5番
「ミスターマン」
神の創造の話から始まるこの物語は、トーマスの自意識の果てしない暴走の物語。
のんびりとした出だし出だしは、母親との会話、近所の人々との交流があり、そして自分が空を飛ぶ幻想に浸り、神の愛を強く感じる日常がある。ところどころにユーモアを交えた展開は、吃音ではない「フォレストガンプ」なのだが、途中から次第に様相が変わり始める。
劇中、カメラが彼自身や客席を背後に映したり、トーマスのアップを投影したり、天使や悪魔の群像を舞台一杯に展開する演出は、彼の自意識を混沌としたものとして印象付けるのに大変効果を上げている。
結構、クスっとする場面も多いのだけれど、大声で笑っておられた男女が最後列におられて、ちょっとなあと感じたのは事実。まあ、笑いのツボは様々だからねえ。
満足度★★★★
鑑賞日2019/03/12 (火) 19:00
座席G列5番
「ベッドに縛られて」
今回は2戯曲上演なのだが、作品的には「ミスターマン」の方が先に作られたらしい(1年前)。それを知ると、「ミスターマン」の一人芝居が、この「ベッドに縛られて」の独白調のニ人芝居へと拡張された(あるいはベッドの上という形での濃密度化、コミュニケーションの空虚化)ものと考えるのもあながち間違っていないと思う。
ベッドの上にいる父と娘、彼らはそのベッドに閉じ込められるように寝ている。
父は寝ようとするが、娘の話は止まない。
娘はおそらく今20歳くらい、10年前にポリオを患いそのまま寝た切りに近い生活を送っている。母親も10年前に亡くなった。娘は父を父だと認識はしているようなのだが、それが」どうもはっきりしない。
娘は、時として発作を起こして夜眠れない。そんな時は、「初めからやりなおせばいいのよ」と自身の記憶と向き合うことにする。
物語りは、主に父親の過去についての自分語りとなる。
父は、昔からずーと家具屋に勤めており、倉庫搬送係から、先輩の販売員を殺すことで
販売員の立場を手に入れ、その後、流行りの家具販売で成り上がり、裕福な生活を手に入れ、ついには自分の店を出すことになる。そして妻と結婚し娘が生まれる。しかし、そこから彼の転落が始まって、機を一とするように妻と娘に不幸がおとずれたことを娘が、父の語りに被さるように語りだす。
父は現在何をしているのか、娘の汚れた寝間着とベッドシーツが何を意味するのか。
父が犯す犯罪、家族の優雅な生活、娘の幸せな日々、これらは現実の過去なのか、それとも架空世界ないし妄想なのか、それははっきりしない。
ただ、彼らは同じベッドで自らの回想を語るだけだ。
「ミスターマン」の主人公トーマスのように、カフェや墓参り、ダンスパーティーに出かけたり、ともすると空を舞ったりするような自由は全くない。
確かに荒唐無稽。しかし、そこには、自宅内のあちらこちらに壁を立て付け、家を迷路にし、ベッドだけの小部屋を作ってしまう父親の果てしない束縛への希求と、自らを閉じ込めようとする絶望感だけがにじみ出てくるだけだ。
娘役の小飯塚貴世江さんが家具屋の下働きの男達の相槌役を引き受けるが、実のところ、娘と父の交流はほとんどない中、父と子の相槌が物語り中で成立する雄一の交流なのである。
1つの場所への拘束といい、交流不能でありながら、お互いを希求す2人といい、ベケットの「幸せな日々」を思わせる作品。
寺十吾さんは、珍しくよく口籠ったけれど、あれは演出?(父の意識の混乱?)すでに5回目の公演ということだし。むしろすらすらと話して、セリフが一層無機質なった方が、それぞれの孤立感が強調されてよかったように思う。
満足度★★★★
アイルランドの現代劇の小品二本立て。
海に囲まれた国という共通性があるのか、アイルランド演劇は、例えば、チャペックくらいしか知られていない内陸国のチェコなどに比べるとずいぶん日本には親しみがあるようだ。
マクドナーは大当たりの作家だが、こちらのエンダ・ウオルッシュは、後継者と言われている由。今回も土着性、幻想的、宗教的な面も含めてその国の伝統を引き継いでいる。その上に様式にはこだわらない。現地でどのような上演になっているかうかがわれないが、今回の舞台は、いわば、モノローグ芝居。最初の「ベッドに縛られて」は親子の葛藤、ことに生活者の父と娘の地域に縛られた生活と脱出願望。あとの「ミスターマン」はダブリンよりもさらに田舎町の青年の域苦しい青春を描いている。なにやら日本の自然主義小説にも通底しそうな物語を、最初の作品は二人、あとは一人の演者が演じていく。
演者は最初が寺十吾と小飯塚貴世江。寺十吾は、私にはよくわからない演劇人で、演出も俳優も、ちょっと変わったものがうまい。派手な見せ場になりそうなところも、手際がよくまとめてボロを出さない。しかしときには見当違いと思える出来のものもあって、つかめない。だが、今回はほとんど一人でこの台詞の多い舞台を背負って特異な国の父親像をうまく造形した。小飯塚貴世江は、最初の早いせりふ回しなど頑張っているが、残念がら使っている声域が高く狭いので単調になってしまう。娘と父の二重唱にするという演出の意図があったのかもしれない。きっとうまい人なのだろうが、これで大損をしている。声域が生来のものなら、これは配役のミスだろう。
あとの方は斉藤淳。こちらは一人で全部やるのだが、さすがに荷が重すぎる。一つ一つのエピソードがバラバラで、一つの青年像に集約していかない。父の墓参に行くシーンとか、おばさんに踊りに誘われるとか、空中に舞い上がっていくところとか、演出も気を入れて面白くしているところがつながらないうらみがある。
演出の扇田拓也は、この難しい様式の戯曲を飽きさせず、ヘンに突っ張りもせず、いや、突っ張っているのだが、それをあの手この手で抑え込んで、うまくまとめている。ことに音の使い方がうまい。難しいものを何とか納得できるようにしてしまうのは、なんだか故人の父の扇田昭彦の演劇評にも似ていると、懐かしく思った。この演出が第一の収穫であった。