消えていくなら朝 公演情報 消えていくなら朝」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
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  • 満足度★★★★

    フィクションであるのだけれども、この作品の存在は、作の蓬莱竜太さんの身を削る感覚ではないか、などと思った。
    それだけ「痛い」のだ。

    言ってはいけないことを、つい言い合ってしまうのは、やはり家族だから。最後の一線を越えてしまったと思っても、朝がくれば「家族」という本当の最後の一線がかろうじて残っている。そういう関係は、実は幸福であることを舞台に観た。

    言い合えるから、「誤解」や「わだかまり」も、(少しは)切れることがあるということ。
    つまり、この作品を観ていると齢を重ねていくことで、そういう「(朝になっても)最後に残る関係」が徐々になくなっていくのだという悲しみを、感じざるを得ないのだ。私のような年齢になると、かなりリアルに。

  • 満足度★★★★

    東京で脚本家をしている羽田定男(鈴木浩介)が彼女の才谷レイ(吉野実紗)を伴って久しぶりに新幹線で5時間ほどの実家に帰省する。そこには18年ぶりに一堂に会した家族が待っていた。父の庄次郎(高橋長英)、母の君江(梅沢昌代)、兄の庄吾(山中崇)、妹の可奈(高野志穂)である。

    内容を簡単にまとめると「久しぶりの再会を喜ぶがいつしか過去の恨みつらみが噴出する家族を笑いで包みながら描写し、現代の人間関係の難しさを浮き彫りにする」ということになる。

    これは蓬莱竜太さんの家族の実話ということである。もちろん脚色はあるだろうが、とくに新興宗教に熱心な家庭の様子が垣間見られて味わい深いものがあった。

    こういう劇は誰かに感情移入してしまいがちで「そうだそうだ」「それは違うだろう」などと心の中で叫んでしまう。もっとボケてくると実際に大きく声に出してしまいそうだ。そんな困った老人を見掛けたらそれは私なので 2-3回なら生暖かくスルーしてやってくださいな。

    ネタバレBOX

    定男は子供のころからチャラくて要領の良い男で、田舎で地道に生きている他の家族、特に兄をいらだたせる。鈴木さんの軽くて嫌味な演技が腹立たしくて素晴らしい。

    父の庄次郎は登山用具作りに励むだけで他人の感情には無頓着で通してきた昭和以前のお父さんである。高橋さんの一拍置いたすっとぼけ振りに感心してしまう。

    母の君江は夫や子供への献身が報われない心の穴埋めに新興宗教にどっぷりとハマって行った。子供たちを巻き込みながらも正しいことをしたと言う。梅沢さんが宗教に関しては一歩も譲らない頑固な母を熱演。

    兄の庄吾は母に忠実で宗教活動も熱心であったが一夜の過ちが原因で排斥された。何も選択してこなかったと定男になじられる。山中さんはCMで見るふわふわとした変な人のイメージ(私の偏見です)とは違って、兄の威厳を保とうとするが芯が弱く崩れてしまう営業マンをしっかりと決めていた。

    妹の可奈は兄二人を母(=宗教)にとられ、男の子との絆を求める父と三男として仕事を手伝い生き場所としてきた。その結果アラフォー、独身でアニメキャラにはまっている。高野さんは表面上はカラッとしているが積年の鬱憤で泣き出してしまう女性をリアルに表現。

    唯一よそ者のレイは売れない女優であるがいきなり家族から仕事について難癖をつけられる。それをかわしながら常識的にふるまって定男をいらつかせる。実はややこしい家庭に育ったとカミングアウトするが、その程度が中途半端で舞台も客席もしらっとしてしまう。まあここでとんでもないことを言いだされても現実味が薄れて困るのだけれど。吉野さんは可奈と対照的にウエットな女性らしさをうまく出していた。
  • 満足度★★★★

    蓬莱竜太の新国立書下ろしは二作品あった(『まほろば』『エネミイ』。忘れていたがどちらも観ていた。『まほろば』は再演で)。
    宮田慶子芸術監督としての最終演出作という事で、「大味にならないかなァ」と一抹の懸念を抱きつつも(それで人を誘うのを躊躇ったが)、初めて目にする「誰も並んでいない」10時のチケット窓口で当日券を購入。
    繊細な蓬莱戯曲と宮田演出の相性は悪くなかった。逆に、ナイーブな台詞で互いを刺し合い液状化する家族の劇は、新劇風笑いのテイストが良い具合に相殺して「ちょうどよく」なったかも知れない。
    東京で演劇を続けている主人公は「公共劇場で上演される舞台の戯曲の執筆を依頼された」と、家族に告げる。十数年ぶりに訪れた実家には兄、妹も来て、独特の歓迎ぶりである。家に寄りつかなかった主人公への文句か嫌味か、はたまた純粋な質問かが口から放たれ、家族でない唯一の人(主人公が連れてきた恋人=女優)に聴かれることも厭わず感情が露わになっていく。応戦する主人公との言論戦は当初の「いささか粗野な挨拶」から離陸して次第に本音合戦となる。
    蓬莱の台詞はどこまでも、台詞が足されるたび実在しそうな人格が輪郭を露わす補助的な役目を果たしている。ドラマをドラマティックにするための台詞というよりは、最もドラマティックであり謎である「人間」に新たな陰影を加えるためのものだ。・・とベタ褒めしたくなる程、人間本位の戯曲を書く人だと近年益々思う。
    屋内の広いリビングに母、父、長男、妹、自分、恋人。そこから戸外に出ると、波の音がしていた。主人公と恋人が会話する場所として2,3回使われる、ただそれだけなのだが、設定を海の近くとした。恐らくは蓬莱氏が十代を過ごした能登半島のとある町なのだろう。終幕、背景にうっすら陽光が滲む程度のどんよりとした雲がホリゾントに映る。これも恐らく日本海の空だ。ドラマの骨格に関わってこないので、台本指定ではなく宮田演出の計らいだろうと思う。演劇人という設定といい、この芝居は蓬莱氏自身が濃く投影されたドラマである。
    家族環境は特殊でも、1つずつを見れば誰にも起きる普遍的な人間の姿であり、あり得る心のすれ違い。孤独。人間の業。そして、罵りあう事の根底にある繋がり(これを否定すべきなのか肯定すべきなのかは分からないが)。
    当日は学生の集団観劇、席の4分の3は高校生?の制服が占めていて圧倒されたが、観劇中そちらが気になった事は一度もなかった。終演直後、「すげえ」・・学生が言うのが耳に入り、心中ホッと安堵する。若い人達に良い演劇との出会いをしてほしい。

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