近代能楽集 公演情報 近代能楽集」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
1-2件 / 2件中
  • 満足度★★★★

    演出家2人の三島解釈

    ネタバレBOX

    拓生版
    「班女」
    二人の演出家の作品に対する位置の違いが舞台美術にも良く表れている。拓生版では、実子の部屋の様子はずっとシンプルで生活者の臭いが排除されている。その分、三島の死んだ文体即ち生きながらの死に近いと言えるかも知れないが、この手法・解釈は既に手垢に塗れているとも言えよう。何れにせよ、役者の演技への注文の付け方も明らかに異なるのがよく分かる。七緒版では、実子が主役であるが、拓生版では花子の役割が強調されている点にもこの差が現れているし、何より三島の死生観を如何に解釈しているかという点で大きく異なっている。花子の衣装についても、拓生版では和服、七緒版では洋服とまるで違うのも面白い。実際、二人の演出の差によって同じシナリオから受ける作品の貌がこうも違うのか、との驚きを禁じ得ないほど作品から受ける印象が異なるので、ご覧になる方は是非両方の演出を楽しんで頂きたい。なお、拓生版では一部Wキャストになっているので、贔屓の役者を観に行く方は注意されたい。(班女・邯鄲何れも一部Wキャストである)
    「邯鄲」
    三島の近代能楽集のうち最も早い時期に書かれた作品であり、可也素直な作品である。主人公の次郎は三島の分身であるし、登場人物の数も近代戯曲集の中で最も多いのだが、楽曲に対する指定などもあるシナリオでミュージカル的な要素も入って居る為、作品に対するイメージをもとに演出してゆく拓生流が活きてくる作品でもある。拓生版では「班女」でも用いられていた能管の生演奏が入る他、チベットのシンギングボウルやフィンガーシンバルなども効果的に用いられているが、今回能管の奏法は、多くの場合、伝統的な型ではなく近代能楽集の各作品、演者のテンポに合わせて奏されている点にも注意を向けたい。
    同時に、邯鄲の演出で拓生版が一定の成功を収めている点で見逃せない事実がある。これは三島が、己の状態、生きながらの死を可也素直に描いている点から来ている。即ちi二乗
    =−1という解になるという点が、空を空として初めから認識している次郎の齎す勝利の果実として、枯れ果てていた庭の花々の甦りや、鳥たちの再訪という奇跡を齎すのであり、これは生きながらの死を何とか脱出したいと願った三島の夢想の死の言語による実現だったと捉えることができよう。
  • 満足度★★★★★

     二人の演出家、小林 七緒と小林 拓生の演出による三島の近代能楽集から、共通作品「班女」と七緒の「熊野」拓生の「邯鄲」。各々2作品づつの競演である。(敬称略)

    ネタバレBOX

    「班女」

    小林 七緒は流山児事務所の実力演出家、小林 拓夫はJ‐Theater主催者である。先ずは七緒の「班女」から。
     七緒の演出では、作家三島の本質を死の側で生きようとしたナルシシストとして正確に捉え、その余りにも美し過ぎる文体に、腐敗過程を除くと死の特性である不変化に縛られた三島という華麗な嘘つきの実態を暴き出している。三島の全文章の中で最も完成度の高いのは戯曲であるとの指摘は高橋 和郎ならずとも指摘し得る所であろうが、その具体例が今作、「班女」にも端的に表れていると見ることができる。
     序盤、画家の実子が、花子を匿い続ける実子についての朝刊記事を鋏で切り裂くシーンがあるが、この切り方に対する演出が見事である。先ず、実子は件の記事の両側を裁断する。その後、記事部分を紙吹雪よろしく粉々に切り裂くのである。この演出で実子の花子に対する様々な想いが凝縮された形で表現されるのだ。
     序盤で、このように劇全体を説明すると同時に、登場人物の相互関係のアウトラインを示してみせるのは、戯曲の正攻法である。死の文体を用いて、生を再現しなければならなかった三島 由紀夫にとって、これら正攻法は必然的形式であった。その点を深く理解した上での演出と言えよう。更に言い募るなら戯曲の根本は論理であるから、三島作品の中で最も完成度が高いのが戯曲ということになるのである。
     何れにせよ、七緒演出では、ヴィヴィッドに生きている者の視座から三島を捉え返そうという姿勢が見える。だから実子の下にあって、班女の狂気即ち曖昧模糊と鋭さの混在を、再度狂気が生まれ出るよう形で再現してみせるのである。
     吉雄の登場によって、危機に晒される実子の目論見も、花子の狂気が持つ純粋性つまり真っ直ぐ物事を見る力によって回避される。花子の反応を解き明かせば、純化された理念が現実を凌駕してより美しく結実するのに対して、現実は変化し多くの場合劣化するので、理想とのギャップはより大きく感じられる訳である、ということにもなろうが、此処まで言うのは野暮か。
     では、班女の愛は何を対象としていたのか? という恐ろしい問いが、内包されている終結部は、答えが余りにも明らかなので記さない。
    「熊野」
     西武の堤 康二郎辺りをモデルにしたような実業家(モデルに関しては「宴の後」で日本初のプライバシー裁判となった有田などの件もある)とその内妻の話だが、三島の文体の特色である死の側に身を置こうとすることから来る真の躍動感の欠如を覆いがたく感じる。恐らくは三島自身、このことは大江 健三郎に指摘されて本気で怒っていたように内心忸怩たる思いもあったのかも知れぬ。何れにせよ、己自身の死を自ら認識することは誰にも出来ないし、己の死が意味することの全体を、或いは意味せぬことの全体を自ら認識することもできない事実に鑑みれば、死を生きようとする三島は根本的な矛盾を犯していることになろう。だが、若い頃に人生の総てを計った気になってしまい、その呪縛から抜け出ることができなかったことは、三島の文体をその核心部分に於いて規定した。結果、自衛隊への体験入隊や映画出演、筋肉の鍛錬や一所懸命に剣道に打ち込んだことなどは、総て仮面であったと見ることができるような、生を生きる他なかったのである。これこそ、生ける屍、生きながらの死であった。聡明な彼にこのことが分からなかったハズはない。
     七緒演出では、この三島の実相をヴィヴィッドに生きる者の視座から照射し、評価して作品である今舞台を造形している。必見の演出である。

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