無題1854(16-144)
13:00の回(晴、暑い)
12:30受付、開場、何もない舞台。和室向けの蛍光灯がひとつ。
13:00前説(75分)、13:03開演~14:19終演、~14:55トーク(ゲスト:岩渕さん)終了。
こちらは初めてですが
三浦さん、「潮(2015/9@キッド)」「旅の演劇(2013/12@キチジョウジ)」。
杉山さん、「オイディプス(演劇系大学生がどう暮らすか)2016/2@新生館」「見ズ溜マリニ映ル青空ハキレイデ。(2015/4@サブテレニアン)」。
望月さん、「カリヤド(2016/4@バビロン)」「少女博愛主義(2015/2@だるま座)」。
岩渕さん、「斑(ふ)2016/2@横浜にぎわい座)」、同作の初演(2014/3@アートスクエア))「"conditions"(2014/10@森下)」。
Wikiってみると...「侏儒」とは体の小さい人、また知識のない人の蔑称。また俳優の異称でもある。原作は「青空文庫」で読むことができ、開いてみましたが、(超斜め読みで)上っ面をなぞっただけなので引っかかるものがあるはずもなく、積極的にかかわってゆこうともならないのでした(すみません)。
1時間強の上演時間中、何度も繰り返されるパターンがあります。このパターンと振付の取り合わせが特に印象に残りました。
調和するのではない、倍音を含まない、どちらかというとコード進行を裏切る、不協和音的に閉じたり開いたりしているような感じでした。
「演劇」と「ダンス」が同時展開。※劇中、突然ダンスシーンになる作品が多いですが、これはこれで...として。
KARAS(勅使川原さん)によるB.シュルツの朗読や「プラテーロと私」、リジッター企画の作品(森脇さん)などでは、毎作、独特の演出効果に触れることができます。本作では、奥の「演劇エリア(あえて言うと「耳」)」と手前の「振付エリア(眼)」とが常に分離しているように思えてしまい。相乗的な、共鳴するものを掴むことが出来ませんでした
日芸の公演はできるだけ観に行くようにしています。その中で、ときどき本作のようにどうやって受け取るかな?と戸惑う作風に当たります。情緒あふれ、筋立てがわかりやすく、感情移入/共感しやすいもの...でなくともよいのですが、作品が照射しているエリアから自身が遠く隔たっているような場合、如何ともし難く、もやもやしつつ帰路に着きます。
満足度★★★★★
いつの間にか・・・
気がつくと、眠れぬ夜の堂々巡りに誘われていた。寝返りのなか、変わるべき朝を迎えても、変われない自分がいて、薄明りに オマエ と向き合う・・・ 『思い込みであろうと、 オマエ をつぶさないのは生き物としての'術'、説得の問題でなく書き換えの問題』 とはエゴティストに過ぎるか。 女優ふたりのキレ、迫力がいや増すにつれ存在が妄想的に膨らんでいく。気がつくと、 オマエ はずっと居てくれた、何やら安心。