ヴィトカッツイの『母』 公演情報 ヴィトカッツイの『母』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 満足度★★★★★

    前衛
     一応、母と子の話ではある。但し、母は実際には出てこない。

    ネタバレBOX

    母はフィギュアで、出演俳優たちによって舞台上で上演開始早々に作られる紙のオブジェである。このオブジェを恰も文楽の人形のように背後に立った役者が動かすのである。従って、今作は、母の名を借りた創造と想像、創造する者の立ち位置と普通の生活者の立ち位置の位相からくる根本的ギャップや矛盾、衝突を通して創造する者が如何様に創造するのかについて、或いは、何をどのように観ているかについての断章を3部に分けて表現した作品である。いわば、序破急を為していると捉えることができよう。
     序:創造する者は、徹底的に率直に見なければならない。然しながら徹底的に率直に見るということは、ことほど左様に簡単なことではない。何故ならバイアスを排そうにも、厳密な思考レベルでこの問題を扱おうとするなら、我らの内には既に偏差が存在せざるを得ないからである。見るという行為に対して、見たもの・ことを表現する際には言葉なり、絵画なり、写真なり、映像なり、舞台表現なり、音の組み合わせなりが必要となる訳であるが、見たもの・ことを、この時点で厳密に再現できる訳のものではない。時空・関係などが近い場合は無論再現できるというより同じことを見、体験したと誤解することはできる。例えば誤差を極小と看做すことができるような場合である。オーロラを隣り合った位置で同時に見る場合などがこれに当たる。然し、視力も違えば、光彩も異なる別箇の人間が、厳密な意味で同じものを同じに見たということができないのは無論ことだし、個々の感じ方も異なるのが当然なのであるから、ここには既に違いがある。このような違いを生む原因として考えられる習慣、文化、文明、歴史、民俗、社会的階層など育った環境や条件が異なればこの差異自体が、別の個人にとっては、既にバイアスである。
     破:これは、無論、母子の場合も同様である。更に今作の場合、母と子は母と息子であるので性差も加わる。男性と女性ではジェンダーの差異も大きい。社会参加の仕方も変わる。ここでも、このようなレベルでの個と世界の関わり方の差異から来る創造する者とそうではない者との感じ方や落差がアイロニーや諧謔、息子の婚約者と母の関係などなどから、位相が現実の中で如何様な展開を示すのかについての具体的な事例をヴィトカッツィーのコカインなどの体験をベースにした逸話なども盛り込んで展開する。実存の裸形に対する世界と関係は見えて頗る面白い。
     急:破の部分で創造者は、己の裸形を世界に対峙して見せた訳だが、その方法は、アイロニー、諧謔、嘲笑、批判、おちょくりなど遊びに見せかけた複雑で、一般的な「常識」に縛られた人々には、分かり難いもの・ことではあろう。然し、創造するということは、世界の内側に在る己をそのままの位置で外側から同時に観察するという離れ業に他ならない。この事情を説明しているのが、急の部分なのである。今作は母の死に始まって、母の死に終わるが、これは単にサンドイッチ形式でまとめている訳ではない。ヴィトカッツィーがポーランドの前衛三羽烏の一人であるのは、そんな生易しいことではない。ラストシーンが象徴するのは、冒頭の母の死とラストのそれを作品化し得た時点で、息子が赤子に戻って母に抱かれるが、この関係こそ、作品創造と創作者の関係なのである。

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