三月の5日間 公演情報 三月の5日間」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
1-2件 / 2件中
  • 満足度★★★

    削ぎ落とされていかないものが
    僕らは、なんだか、「海外」に弱い。「海外公演」とか言われると、なんだか、すみませんという気になる。そして、下手に出たり、逆に上から見下ろしたり、なかなか、正常な高さから見ることが、出来なくなる。

    『三月の5日間』は、日本だけでなく「海外でも評価されている」作品だ。やっぱり、僕は、正常な高さをとりづらかったのかも、と、この、岡崎藝術座の上野・寄席公演を観て、思った。

    ネタバレBOX

    チェルフィッチュ版の『三月の5日間』は、なにもかもを、最終的には「舞台」や「役」といった根本部分にあるものまで、非常にシンプルに、舞台上から削ぎ落としていく。

    そこに、僕らは、今を見る。なんだか、強迫観念的に、「海外」を意識する日常を生きる僕らは、「日本」の部分を意識しながらも、無意識的に捨て去ろうとしながら生きているといえる。いつもどこか、「海外」に寄り添うときのよりどころとして、余計なものを持たないニュートラルさを求めている。『三月の5日間』には、そういう僕らを描いている側面が確かにあると思う。そしてそれは、舞台上から色々なものを削ぎ落として、非常にニュートラルなものを表現しようとする岡田利規さんの演出と、重なりあう。

    神里雄大さんの、上野版の舞台である「寄席」は、それこそ100パーセントの日本だ。どう頑張っても、そこからなにかを削ぎ落とすことなどできない、どこまでも「豊かな」空間で、「ニュートラルを目指す戯曲」に対して、正反対のベクトルを、戦わせる。

    上演されるのは、上下関係や人情といった、豊富な人間関係に溢れた、下町の演芸の世界。つまり、下町の芸人たちによって演じられ、通の寄席通いたちとの掛け合いによって作られる『三月の5日間』なのだ。

    それは当然、世界には通用しないだろう。しかしそこでは、オリジナル版では失われていたものが、取り戻されていく。もともと、この戯曲の持つ視点は、どこまでもニュートラルなもので、だからこそ、冷たい。コミュニケーションをかりそめにも行えない弱者は、次々と退場していって、顧みられることはない。

    上野版で、神里さんは、特に、ミッフィーちゃんに、手を差し伸べる(代わりに、ユッキーさんの「渋谷の非日常」のくだりは、かなりばっさり省略される)。彼女を救うのは、上野の、濃密な人間関係だ。それは、ヒエラルキーが目に見える形で存在する、自由のない世界かもしれないが、代わりにそこには、暖かさがある。ミッフィーちゃんは、寄席の客たちと、演芸界の大御所らしきパンダ男に救われる。ここで、僕は、じーんと来てしまった。

    オリジナル版で、ミッフィーちゃんを放置したものには、僕らの行う、なんというか、密度を薄くした、内容よりも、行為自体に重きのあるコミュニケーションがある。チェルフィッチュ版で、二人以上で舞台にあがった語り手たちは、「うん」「そうなんだ」と相づちを打ちあうが、そこには、実体的なやりとりは存在していない。上野で公演を行う芸人たちは、基本、コンビだ。かれらのやりとりは、常に相方と行われて、さらに、客席からのかけ声で補強される。密度がある。

    そこには、ニュートラルでないが故の、内輪な排他性も感じられる。演出自体、一度意図がわかってしまえばそれで十分なものが、繰り返し使われるなど、荒削りで雑な部分が多々ある。それでも僕は、この、夏の日にきな臭さを運ぶゲリラ雷雨のように、あっという間に駆け抜けたこの岡崎藝術座の公演を、なんだかんだいってとても楽しんだ。それは「海外」を意識しない、貴重な時間でもあったのだった。
  • 満足度★★★★

    確かに上野だった
    そこは渋谷でも六本木でもなく上野でした。自分にとってはチェルフィッチュ版よりしっくり来るし居心地がよいのは、上野や下町が好きだからだと思う。
    とりあえず、開場とともに、なんか始まってるっぽいので早めにいった方がよさげです。

このページのQRコードです。

拡大