腹の虫 公演情報 腹の虫」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
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  • 満足度★★★★

    ちょびすけとは、
    去年の3月東京都内で活動していた高校生が立ち上げたグループ。この年の7月20日、スタジオ空洞でvol.1高校生舞台ショーケースと銘打って「たまごから。」を上演している。
     今回はその第2弾。当然のこと乍ら、作・演出、役者陣、スタッフ全員、極めて若い。そして、若い世代の抱えている問題が、このように救いの無いものであることに、今更乍ら、今の世界を形作って来た大人の一人として力不足の責任を感じる、と綺麗事を並べるつもりは無い。但し、自分は、若い人達と真摯に向き合ってゆきたい。

    ネタバレBOX


     基本的に素舞台に近い。舞台を挟む形で観客席が設けられている。一方の壁には、絵画が掛けられ、絵の右下に3時間前と書かれた小型キャンパス(4号)が掛かっている。その他、テーブルとパイプ椅子。これは、適宜、舞台上に引き出されてテーブルとして用いられ、椅子はその周りに並べられる。
     話は、電車の車内で痴漢騒ぎに遭った会社員が、魅力的な女、揚羽についふらふらとついて行って辿りついた館で暮らす8人に纏わる物語である。この8人のうち、外出するのは、揚羽のみ、他の7人は総てこの館から一歩も外に出ない。そして、一人一人に役割が決まっている。例えば、本の虫、例えば医療・薬剤担当、例えば泣き虫、例えば乱暴者・恋する男、MUSHIZU。例えば金曜日に女の子を呼び込んでは儀式をする男、例えば恋される女、そして目立つ程の役割を持たぬ女などである。何れにせよ、8人は、何とか自分達の役割をシェアしながら、暮らしてきたのだが、ある時、MUSHIZUが死んだ。その時、彼の部屋には、鍵が掛かっており、彼のうめき声に最初に気付いたのは、彼が愛していた女、駈けつけた皆の前で彼は苦しみながら死んでいったのである。自殺とも思われるが、兎に角、本の虫を裁判長として、裁きの場が持たれることになった。その過程で、MUSHIZUの死の真相が明らかになってゆき、此処に住む者達に関する情報の一端が明らかになってゆく。
     そこで明らかになったこととは、MUSHIZUは、他の7人の合議によって殺された、ということであった。殺す原因となったことは“人を殺して何故悪いのか?” という問いに答えようの無い社会であった。そう筆者は考える。即ち彼らの生きている社会では、総ての人が、単にある役割を果たす為だけの存在となりおおせており、誰が何時何処で誰と入れ替わっても、何ら問題が無いと設定され、それ以外には一切を顧慮しない世界、世界観であって、其処で暮らす人間は例え知的人士と目される場合にあってさえ、「なぜ、(他)人を殺してはいけないのか?」と問われて、キチンと答えることが出来ないような人々なのであった。(つまり、本物の知識人ではない)
    これは、無論、実際、かつて、この植民地で起こった事件に対して、TVで若者が言い放った言葉である。(人を殺して何故悪いのか?)その番組を自分は見ていなかったが、そのことは話題に上った。何故なら、その番組には多くの評論家・知識人と呼ばれる者達が出演しており、その中の誰ひとりとしてこの質問にまともな答えを出せなかったからである。この作品を上記の知識を援用しつつ筆者は以下のように解した。結論は、“救いの無い世界”に今、この植民地の若者全員が居る、という極めて厳しい認識である。それはそうだろう。2011年3月12日からメルトダウン、メルトスルーを起こし、水素爆発などで大量の放射性核種を巻き散らし4年以上を経た現在も一向に収束の兆しさえ見せない放射性核種の問題を無いことにし、あまつさえ、今後もベース電源と位置づけて基幹エネルギーとして温存し、処置の仕方すら分かっていない更に多くの核廃棄物を産みだし、反対する者に対してはあらゆる手と嘘・偽情報を巻き散らすこと・政治的圧力・経済的圧力等々によって圧殺を計り、而もその事実を隠蔽しようと画策するこの植民地のアメリカの犬供の治世を見れば、まともな人間の誰しもが絶望せざるを得ない。若者達の鋭い感性と、欺瞞・偽善に対する適確なアンテナが正しい判断を下すように働くのは必然であろう。
    アメリカの犬供の治世の下で暮らすとはどういうことか? それは、紛れも無く奴隷生活を意味する。そして、そのことに気付くことすらない怠惰な「知性」は、唯々諾々として従い、その結果取り返しのつかない害毒を垂れ流すのである。その害毒は単に後代の精神のみならず、その肉体も蝕み、滅びへの道をひた走る。それ以外の道は残されていない。
    このような状況に於いて、哀れな大衆は、例え1ミリでも他人より良いポジションを得ようとあくせくし、更に疲弊の度合いを深め、知性を獲得する気持ちや時間も失うという負のスパイラルを滑り落ちてゆくのだ。こんな社会にあって彼らは単なる機能でしか無い。その機能が他の代替物に置き換えられることは、最早何の問題も無いのだ、ということが、今作の呈示する問題である。そして、この問題は益々深く、我々の日常を浸潤してゆくのだ。
    無論、この考えに対置し得る考え方は存在する。それは、個々の人生というものは、他の誰によっても代替不可能であるという事実を見つめることであり、それを是認すること。そしてそれ故にこそ、他人を殺してはいけないのだ、ということをハッキリさせることである。

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