恋 其之参 公演情報 恋 其之参」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.2
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★

    ちょっと惜しかった…?
    ハッキリしない、という印象でした。意図してハッキリさせてないという感じでは、多分なかった。
    目指しているトコ、描きたいビジョンはなんとなく分かるのですが、描ききれていない、到達してない。
    描きたいことが多すぎて、詰め込みすぎて、大事な部分がぼやけてしまっているせいもあると思う。一本芯が通っていないように感じられた。
    本当はもっと面白いんだろうな~、でも、伝わりきらなくて、歯がゆい。
    今回は実験的だったのかもしればいし、自分の鑑賞力が弱いせいもあるかもしれないので、もう一度観てみたい劇団ではある。

    余談ですが、カメラマンさんの横の席になってしまい、集中して観れなかったのが残念。特に、終盤の舞踏の時のシャッター音が大きかったのは、本当によろしくない。記録に残したい気持ちは分かるのですが、それによって作品の魅力を観客に伝えられなければ、演劇として上演する意味がない。集中力が切れてしまうので、もう少し配慮が欲しかった。

  • 満足度★★★

    主婦たち、それぞれの夫、一人の女。
    開演。俳優の立ち方、言葉の発し方、踊り。それら全てが「古い」と感じる。意図的であるのか、どうかが不明。技量と考え合わせ、意図的ではないだろう、という印象に傾く。だが、この戯曲が書かれた時代の、パフォーマンスの再現と理解し直すと、少し違う印象にもなる。それはそれで貴重に思える。戯曲が描いている時代はさらに遡るようである。否、時代の交錯するエアポケットがそこに生じたような、話であった。
     「其之弐」同様、女性目線で書かれた洲崎を舞台にしたドラマは、7人の主婦とその夫、強姦され死に至った(と思しい)女性、その同類ないしは同根である花街に働く女性が登場するが、主婦と夫の7バリエーションの組合せで、男の場面も女の場面も常に順番に喋り、相似形をなす。大多数の人間、大衆である。多数の暴力に相対するのは、犯罪の犠牲となった一人の女性だが、この存在が大衆たる家庭に動揺をもたらし、最終的には定型的な収まり方に収まるという結論。
     終盤、相楽ゆみの舞踏が秀逸で、一連のパフォーマンスの中にあって舞台を引き締めていた。

    ネタバレBOX

    舞台とは関係ないが、、『洲崎パラダイス 赤信号』)(監督川島雄三)という映画、秘かにお勧め。
  • 満足度★★★★

    詩人 岸田 理生
     詩人という特異な種族に対する普通の人々の圧力・圧迫に対して特異な者が追い詰められた果てに最後っ屁する物語。

    ネタバレBOX


     因みに最後の方に洲崎の娼婦街(現在の東陽町辺り)が出、ダンサーが足を天井に向け、肩、後頭部を床につけ肘を曲げてアングルを作って身体を支え、痙攣するような表現をするのは、無論、男女の営みでの女性を表していよう。と同時に、飢饉の度、女衒に売られ苦界に身を落とした女性の多くを占める貧農の娘達の、言葉にならない煩悶、苦悩、怨恨、忍び泣き等をも表していよう。
     物語は、この洲崎跡地に建てられた団地での少女強姦事件に纏わるからである。団地妻達の淫靡で執拗で陰湿な会話は、彼女達の欲求不満の捌け口であり、隠微な慰めである。
     これに対してレイプされた少女は、人身御供そのものである。背景には1582年から98年に亘って行われた秀吉の所謂太閤検地及び1588年の刀狩りによって自らを守る武器を奪われ、人別帳をハッキリさせられた上、一揆をおこすこと自体の困難を民衆サイドが負った歴史があり、更に江戸時代、朱子学の徹底によって、お上優位のイデオロギーによって洗脳され、五人組制度によって連帯責任を負わされた武器を持たず、檀家制度によって人別帳を民衆管理の道具として牛耳られた村社会に暮らす大衆に落ちぶれた人民は、道理を以てお上の非を糺す道を閉ざされ、互いにスパイ行為である相互監視を強めた。無論、大衆支配の方法として優れたこの方法は、明治・大正・昭和・平成の今に至るまで脈々と生き続けている。こんなベラボウな支配の方法が未だに生き続けているのは、無論、日本に暮らす大衆が愚衆でしかない証拠であり、この植民地で頻繁に問題化される苛め、排斥・排除、無視、蔑視、差別、集団による一個人への噂話の形を採った悪口等々、陰湿、淫靡、凄惨を極める愚衆達個々人の内面の塵捨て行為である。
     アメリカの植民地であるこのエリアでは、お上もまた奴隷根性を発揮し続けている。戦前、現人神として据えられた天皇・裕仁に跪拝することでその命脈を保って来た、官僚・政治屋という下司集団は、天皇の権力が失われたとみるや、跪拝の対象をアメリカに転じた。本質は下司のままである。
     このようなお上も含めた下司にとって、自らの存在をその最も深い所から照らし出すのが、詩人という種族なのである。そして、詩人の社会的位置は、今作ではレイプされた少女に重なる。否、岸田 理生は重ねたのだ。その真っ直ぐな視点によって。而も、彼女は、詩人のアイデンティファイを作品中で達成している。自死に追い込まれた、ケニア単身赴任の夫を持つ主婦が、詩人をそう在らしめているのである。つまり、彼女は内気で、下司共の会話には入ってゆけないというキャラクターとして設定されているが、その内的な精神性と排除される人生によって、この村社会の外部者として、詩人を見出す目を持ち、詩的感性を享受し得る存在として詩人をアイデンティファイしているのだ。
     だから、作中、詩人として機能する少女は、彼女の死の責任を、彼女を追い詰めた自死に追いやった者供に果たすのである。

     ところで、詩人は風になった。諸君の直ぐ傍らを吹き抜けるかも知れないぞ!
  • 満足度★★★

    「言葉」の表現が・・・
    “テラ・アーツ・ファクトリー”初観劇。

    色々な要素を取り入れたことによって、
    確かにシュールな舞台にはなっていた思う。

    だが、人間の深層に在る“ドロドロ”とした部分、それが“言葉”になり、
    他者との関係性を構築するところから物語が生じると思うのだが、
    「言葉」の裏表、その表現が少々弱いと感じた。。。

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