千秋楽を観劇。
アットホームで微笑ましい舞台でした。真面目な話をしている最中に唐突に割って入って来る60年代TVバラエティ風の歌謡シーン(シャボン玉ホリデーみたいな)。ある意味シュールで斬新でした。
ただ突き抜け方がまだ足りない。真面目なところは大真面目に、おバカなところは、もっと徹底的にバカやってもらえるとすごく面白くなったのかなぁと。
終演後の橋本康史氏のライブはとても心地良く感動的なひと時でした。
上演時間:60分+休憩10分+ミニライブ30分
満足度★★★★
楽しいひとときでした♪
可笑しな名前を夫婦で出し合う展開だと途中でタマ切れして苦しくなるのでは?と危惧したが、その方向性で盛り上げるのは程々にとどめ、名付けにまつわる社会的諸問題に踏み込む作りにしたことが奏功していた印象。
とはいえ、あくまでベースはコメディ。約60分という短尺ではあったものの、ミュージカル仕立てのバカバカしいシーンやくだらない展開に満ち満ちていて、楽しいひとときが過ごせました。
それにしても日高ゆいさんはいい女優さんですね。彼女が舞台にいるだけで場が温もり、ハッピーオーラに包まれる。
満足度★★★
ほのぼの
シンプルで、ほのぼのとした舞台でした。そして、名前って本当に面白いなぁと改めて思いました。でも、歌やダンスを入れたりして、エンタメ作品を目指したようですが、それが中途半端な気がしました。60分の短い舞台の中で、こんなに長く歌やダンスのシーンが必要なのかな?と感じる所が多々ありました。無理にエンタメにせず、正統派の舞台の方が印象が良い気がしました。
「テーマの選択」がクリアだ
名前を変えるとは そうは問屋が卸さない。
私たちは 自らそう思考を縛り付け、「戸籍制度」を神聖化してきた。
だが、「角栄」という名の少年の保護者が訴えをおこし、社会的に不利益を被らないよう、「改名」が認められたケースも実在する。
「こんちは赤ちゃん」(1963年)。私たち日本人は、産まれてままならない新生児を純粋無垢な妖精のごとく育んできた。「子は宝」である。
では、このデータは何を意味するのだろう。
新型出生診断を受けた妊婦のうち、「異常」と診断された胎児の97%が「中絶」され、文字どおり命を絶たれてしまった。
人の尊厳を奪う組織的マシーンが日本医師会・厚生労働省である。
これは、リベラル派が唱えてきた「中絶容認」のロジックを逸脱した「中絶」だろう。なぜならそれを決断した妊娠の多くは「望まれた妊娠」の過程だからである。もし、担当医のレクチャーが「中絶」を強くアドバイスする類だとしたら 被害者だともいえよう。
いずれにせよ、ウルトラ母体保護法主義に違いない。反キリスト教・反倫理・反モラルの「新型出生診断制度」は、原子力発電問題のフィールドに並ぶ亡国政策だ。
そして、データから明らかになったとことは、「真の母親」はわずか「3%」に過ぎない衝撃である。
日本は「30代」(平均的な出産経験世代)を中心に斬時解体していく。
『命名騒動』を観劇する前、こうしたニュースが入ったものだから「尊厳」というキーワードが離れなかった。
大竹 匠によれば〈これが僕らのエンターテイメントだ!〉らしい。
たしかに、橋本康史 作曲提供のミュージカル・テイストは何曲分か披露していた。
冒頭「こんにちは赤ちゃん」(作詞_永六輔)を全楽章、まるで地区小学校合唱大会のように、キラキラ目を輝かせ唄う。
これは「ベイビー・スマイル」であった。大竹の頭皮に残った「産毛」が「赤ちゃん」にジェラシーを感じさせる。
しかしながら、〈これが僕らのエンターテイメントだ!〉と言われても、「はい、そうですか」と返事はできない。正統派が惜しい。
「ダンス」はミュージカル学院とやらでプロ・コーチから継続的にレッスンを受けた「俳優」とは やはり差が出る。
スタイリッシュだろう。教育現場で話題になっている「キラキラネーム」を舞台で扱った先見性も、「若い親たちの深層心理学」である
無題1147(14-195)
19:30の回(曇)。18:58受付開場(傘は預かってくれます)。
床を含め4段の舞台、上手にベビーベッド、手前に小さなテーブル、下手にゴミ箱。客席:左はベンチシート、右は椅子。18:25前説(飲食禁止だが、熱中症対策のため水分補給は可、60分)。19:33開演~20:33終演。
日高さんを初めて観たのは「そこで、ガムを噛めィ!(2011/4@BONBON」で、「8割世界」であと2作、「縁の鵺(2011/7)」もあったので5作目。安助さんは「さくら(2013/7@ワーサル)」。
初日だったせいか、少々硬い印象を受けました。