現代能楽集 初めてなのに知っていた 公演情報 現代能楽集 初めてなのに知っていた」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 満足度★★★★★

    能と無意識の冒険による身体の存在感
     燐光群の作品は、ハシムラ東郷以来十作以上を拝見しているのだが、無意識を敢えて舞台化した今作、最も、能に相応しい舞台になっているのではあるまいか? 能を良くご存じの方々には、教科書的と見られる部分があるかも知れないが、現在、小劇場演劇を観る観客の多くは、能や歌舞伎の舞台を殆ど観ていないのが実情である。無論、小劇場でも数多く演じられる、三島 由紀夫の近代能楽集のうちの何本かは演劇ファンの多くが観ていようが、本格的な能を観ている観客は、矢張り少ない。
    当然、前提となる知識が不充分という実情がある。歌舞伎にせよ、能にせよ、前提となる知識なしに分かる程単純な芸能でもあるまい。第一、科白の言葉や表現法が違う。舞台の様式も異なれば、表現に対して、観る側の反応もまるで異なる。能では、終演後、拍手などは一切しない。唯、観客は現実に戻るだけである。元々、其々の芸能の生まれた状況、も社会システムも異なるのだから、そんなに簡単に分かるわけも無い。一方、優れた芸術作品というものは、その根底に深い人間への洞察が必ずある。その深さや鋭さが普遍性と呼ばれるものの正体だろう。何れにせよ、本作は、無意識の分かり難さを追求する中で、演じている役者個々人が、何かを体得してゆくような、身体のリアルが秀逸である。その為、妻が夫に言う科白、「ちゃんと迷ってください。ほんとうにご自分を見失ってみないと私を見つけることはできません」という言葉が生きてくるのだ。ところが、この夫は、死んでいるハズなのである。更に、デジャビュに対する差別と癩に対する差別が重なってくる。その差別の中で、見えなくされてきたものを、今作は掘り返している。その掘り返し作業が、何処ともハッキリはせぬ、瀬戸内海の小島、歴史的に其処に閉じ込められ、断種手術迄強制された歴史と実際には、其処までの差別はなかったであろうが、その能力の程度次第では、軍事に利用されかねないエスパーとしての恒常的デジャビュ体験者を重ねることで、想像・創造される世界を、能の持つ結界によって可視化した身体運動として提示した所に、この舞台の凄さがある。

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