満足度★★★★★
y und z 『ヴォ(イ)ツェ(ッ)ク』?
y und z 『ヴォ(イ)ツェ(ッ)ク』?戯曲勉強会ビオロッカ公演
昨年はゲオルク・ビューヒナー生誕200年であったために、『ヴォ(イ)ツェ(ッ)ク』が色々なところで演じられた。韓国の舞踊集団のものもありそれは観た。
オペラの『ヴォツェック』は人気のある演目であり、毎年に近い頻度で演じられる。
なぜ人々はこの不思議な演目を好きなのだろう?
オペラファンを自認する人の中には『ヴォツェック』を嫌う人が少なからず居る。その原因はストーリーにあるだろうし、ベルクの音楽にあるだろう。確かに理解しがたい不愉快さがストーリーにも音楽(特に和音)にもある。
私が最初に観たオペラ『ヴォツェック』のDVDは、多勢の全裸の男女が登場してきて驚いた。それは作業服を脱ぐという表現で、疎外労働からの解放を表現しているように思えた。
タイトルにしても変だ。
Wozzeck・ヴォツェックとWoyzeck・ヴォイツェク(ヴォイツェックではない)とある。Woyzeckが正しいと「確定」したのは1920年だと言う(当劇のパンフから)。ビューヒナーが死んで80年以上たってから題名が「確定」するというのも変な話。
その理由もzとyが判読しにくかった???にわかには信じがたい。
さらに死後弟が出版した『遺稿集』には含まれなかったという(当劇のパンフから)。それは未完という理由でだ。奇跡のような不遇な戯曲が、現代で演じられる不思議。もう変を通り越している。それが現代に息づいているという段階で異常なのだ。悪魔の手助けが必要だったはずだ…
その不遇さはまるでこの戯曲の内容を物語っているようで、それが人々を惹きつけるのだろうか?
今回、戯曲勉強会ビオロッカBioRoccaがこのヴォイツェクを演じるというので初日に観に行った。この団体は昨年『かもめ』を演じ気になる団体だったので、『ヴォイツェク』をやるという情報そのものが刺激的だった。
舞台は漆黒の、というより戯曲に相応しく暗黒のと言うべき中に白い布だけが浮かび上がっているシンプルなもの。その布は複数多種の生物構造体(果物や野菜)を包むことにより、子宮に見えることになる。包み終わるとそれは生まれた子どもになり、それも神の祝福を受けられない(教会に認められない)子どもとなる。それは多種の「寄せ集め」であるため正統ではないのだ。
その何も無い舞台に、照明の効果でヴォイツェクのあるいはマリーの部屋が現れる。それは幻影のように見える。窓枠がダリの絵のように、あるいはキリコのそれのように歪んで見えるからだ。
そこは唯一ヴォイツェクだけにとって安住の空間だ。
両性具有のようにも見える逞しい肉体を持った軍楽隊長が現れ、生物の進化を説く見世物小屋でマリーを誘惑する。マリーはヴォイツェクの内縁の妻であり、複数多種の生物構造体を内包した子宮の持ち主である。
軍楽隊長が軍楽隊を引き連れ勇ましく行進する。
隊員は見えない楽器を勇ましく操り、脚を上げて行進するが意思の無い無機物のように、あるいは隊長に寄生する単独では生体になりえない二重体の一部器官のように見え不気味。
そして軍楽隊長とマリーのからみは隊長の体臭が漂ってくるような気持悪さが充満する。ここには欲望と支配と暴力の臭いがある。
ヴォイツェクに鬚をそらせる大尉が兵隊の劣等性を説く。
ヴォイツェクにエンドウ豆だけを食わせ人体実験している軍医も劣等性を説く。
ヴォイツェクは地からの声を聞こうとする。地からの声とはなにか?自らの深層から聞こえる声だ。
ヴォイツェクとは誰なのか?
ヴォイツェクは自ら喪失する道を選ぶ。元々何もないのに喪失を企図するという壮大な疎外。
マリーを、そして自分を…
淫靡な酒場でヴォイツェクの喪失があきらかになる。オペラで気になる「シュヴァーベン」も歌の中で出てくる。
ヴォイツェクとは誰なのか?
子どもは化学的な言葉を使うと還元され、舞台に撒きちらかされる。
そしてヴォイツェクは幻影に見えた自分の部屋を破壊する。というより、元々無かったのだ。彼らに安住の地はないのだ。
酔った者、死した者、横たわった客体がひとりずつ去っていく。
そして誰もいなくなる。誰もいなかったのかも知れない。子宮の展開から何も始まっていなかったのかもしれない。
ヴォイツェクとは何者なのか?
照明効果と音響効果で不気味というより不愉快さを作り出している。
これは人間存在の不愉快さだ。そして、欲望と被虐の不愉快さだ。
ヴォイツェクとアンドレース以外の役者は全員が不遜で不愉快だ。
ヴォイツェクとアンドレースは一見連帯できる階層にいる。しかし連帯できるほど個を持ちえていない。兵士たちは群れた孤にすぎないのだ。
そして誰もいなくなる。
それがあたかも現実のように、取り残される「見物人」。突き放される「見物人」実は我々こそ見られていたのではないか…
見物人ですら自分の役を探す「役」でしかないというのに…
満足度★★★★★
無題1035(14-074)
14:00の回(快晴、暖かい)。13:30受付、開場。真っ黒な舞台、上手、床に白い布、数枚重なっている様子。椅子席(座布団)5列、13:56前説(遅れている客待ちで5分押し、75分)、14:05開演「昔々、あるところに…」〜15:20終演。
「ヴォイツェク」を観るのは2回目。ttuが理髪店(だから理髪店だったのか?)2階で演ったのは昨年11月、この公演、演出/出演の石見さんも観ていたそうです。
ttu…刺激に満ち、仕掛けやダンサーの起用、そもそもが普通の会場ではないという(過去の作品でもあった)状況での公演。
対して「戯曲勉強会」の作品は、闇、水墨画のような濃淡だけの舞台、6人の登場人物のうち5人が同じ衣装(みな男物)で、黒、グレー、照明も抑え気味で、鬱積した心理状態のように見えます。あまりBGM、SEを使わず(とはいえ、使い方は工夫されている)、各シーンの以前に、語られる言葉が意味を持ち、物語を積み上げてゆくような構造になっていない(ように感じます)。
石見さんにお訊きすると、翻訳では「全集(2011年鳥影社版)」が良いのでは、ということでしたが地元の図書館にはなかったので、河出書房新社版を予約、500ページ以上あるので通勤時間では無理。
という状況ですので感想らしいものは書けませんが、あえてこの作品に取り組まれたこと、いろんな苦労があり、たくさん試行錯誤されたことを思わずにはいられません。
評価はよくこの戯曲に挑戦したものだ…ということで。
※いつか、「サラ・ケイン」の作品を採り上げて欲しいなと思います。
取り急ぎ。