『リア王』『新釈・瞼の母』『シンデレラ』 公演情報 『リア王』『新釈・瞼の母』『シンデレラ』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.7
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  • 満足度★★★

    強靭な肉体としっかりした声
    3作品とも拝見しました。どの作品も、鈴木メソッドで鍛えられた俳優の強靭な肉体としっかりした声に驚かされます。とにかく、美しい。

    ただ、その美しさは伝統芸能の型のような、様式美とも言えるものであり、現代の私たちの感覚とはだいぶ違う。
    なので、純粋に「すごい!美しい!」と思う反面、それぞれの役の心情が伝わりにくい面もありました。
    とはいえ、自分たちのスタイルを構築してきた方々の姿勢に気付かされることは多く、貴重な体験になりました。

    精神病院、という設定については「瞼の母」よりも「リア王」の方が効果的でした。自分たちの身近なところにある話でもあるんだと思わされました。
    「シンデレラ」のような自由度の高い作品は、他の2作品よりも鈴木演出の面白さが生きているように感じました。

  • 満足度★★★★

    『新釈・瞼の母』観劇
    スズキメソッドを身につけた役者の身体は強靭だった。

    長谷川伸の『瞼の母』にある情緒的なものを、異化(相対化)している部分なども面白かった。

    ただ、芝居としてはそれほど惹き込まれなかった。

    それでも、上演後に行われた観客と鈴木忠志氏のQ&Aも含めて、
    「演劇とは何か?」ということを深く考えさせられた。

    それは、一方で敬意を持ちつつ、もう一方で批判的な思いもありつつ、
    すべて含めて、多くの問題提起を上演全体から受け取った。

    ネタバレBOX

    まず、作品から感じたこと。

    鈴木忠志氏の方法論、スズキメソッドを体得した役者の身体は極めて強靭だ。
    役者の演技だけではなく、演出も含めた舞台全体が、鈴木忠志の世界として完璧に構築されている。

    それはスズキメソッドに限らず、古典芸能からスタニスラフスキーシステムに至るまで、あらゆる「型」を持つ表現の強度である。

    ただ、その一方で、世界がすべて鈴木忠志、あるいは「型」に支配されているという窮屈さも感じた。役者は自由な人間ではなく、常に拘束を受けている。
    演出家に世界が支配されている。権力的だとも思った。

    そういう拘束を受けながら生きるのが人間の生ということなのだろうか?
    私はこの点がどうも受け入れ難かったが、
    それこそが役者に命がけの演技をさせ、芝居にとてつもない緊張感を与えているのは確かだった。

    (それは、マイルス・デイビスの楽団のようだとも感じた。マイルスが吹いていない部分でも、帝王マイルスの気配が楽団全体を支配し、音楽全体を支配する。その恐ろしい緊張感。)


    観客と鈴木忠志とのQ&Aで感じたこと。

    「なぜ『瞼の母』なのか?」という質問に、鈴木忠志は、
    「日本語には言葉の中に旋律がある。その音程の変化によって、言葉の意味が変化する。
    例えば、「どこへ行くんだ」という言葉は、音程を変化させて発語することによって、場所を尋ねる意味にもなれば、「どこにも行くな」という意味にもなる。
    このような日本語特有の発語をきちんとやって演出をするためには、きちんとした日本語によって書かれた戯曲を使わないといけない。それは三島由紀夫でも谷崎潤一郎でもいいのだけれど、今回は長谷川伸の『瞼の母』にした。
    この芝居で、古い流行歌を音楽に使っているが、昔の日本の流行歌では、そのような意味で、日本語がきちんと発音されていた。だから、そういう歌を使った」と答えていた。
    とても説得力のある、本質的な答えだ。

    また、この作品では、長谷川伸の言葉だけではなく、
    ベケットの言葉や寺山修司と石子順造が対談で「瞼の母」について話している言葉も入れ込んで作品化しているという。
    それら他者の言葉や鈴木自身が書き込んだだろう言葉が、長谷川伸の人情話を異化(相対化)していた。
    母や家族への愛着は権力構造に根ざしているというような視点は、寺山のモチーフだろう。

    また、「今の若い人の演劇についてどう思うか?」というような質問に対しては、「利賀にいることが多く、観る機会が少ないから明言はできないが、今の若い世代は、演劇人が演劇のことしか知らない。文学や映画など、様々な分野のことを知らないと演出なんてできない。また、演劇というジャンルの中でさえ、知り合いの劇団や自分の好きなものしか観ない。昔の演劇人は他の劇団の公演も観て、賛否あれど、参考にした。自分の嫌いだろうものでも、とりあえず観るということをした。ただし、それは、若い人が悪いというだけではなく、特に演劇の場合は、入場料が高いので、安易に芝居を観に行けないという構造のせいもある。いずれにせよ、それが、若い作家の世界を狭めているのではないか」と語っていた。
    的確な指摘だと思う。

    また、「同時上演した『リア王』は、なぜ日中韓の役者でやっているのか?」という問いに、「スズキメソッドを体得した役者が世界にいて、特にアジアにも素晴らしい能力を持っている役者がいるということを提示するためというのもある。それに、日中韓の政治的な関係がギクシャクしている時だからこそ、その三国の役者でやりたかった。」と言っていた。
    特に後者の視点は素晴らしいと思う。
    (『リア王』のゴネリル(三姉妹の長女)役:ビョン・ユージュンさんは、SCOTで6年くらい訓練を受けている役者らしい。本当に凄い演技だと思っていたが、鈴木忠志氏も、やはり長く訓練を受けているだけあってスズキメソッドをかなり体得していると言っていた。)

    また、寺山修司や唐十郎、安部公房などの話が出た際、
    「自分が書いたものしか演出していない人は演出家とは言えない。一人の劇作家の戯曲しかやらない演出家もそうだ。指揮者で、自分が書いた曲しか指揮しない指揮者なんかいない。他人の書いたものを読み解き、そこに普遍的なものを見出して形象化するのが演出家の仕事だ」というような趣旨のことを言っていたのも印象的だった。

    総じて、演劇とは何かということを深く考えさせられた。
  • 満足度★★★★

    『リア王』観劇
    役者の身体と演技がとにかく強靭だった。
    特に、ゴネリル役:ビョン・ユージュンさんの鬼気迫る演技が凄かった。

    完成された世界観で、さすが鈴木忠志という感じでははあったが、
    強烈に心が揺さぶられることはなかった。

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