My Journey to the West 公演情報 My Journey to the West」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.6
1-7件 / 7件中
  • 満足度★★★★

    内容は
    説明通りのストーリー、おおまかに「悟浄」の話と、作者中島敦氏の海外での生活の話の二つが演じられていたようでした。ストーリー自体よりも観せ方に独特のものが感じられました。

  • 満足度★★★

    ホッと安心
    そのような日常が大切です。

    ネタバレBOX

    沙悟浄の話というか、中島敦の話ぃー。

    彼のなぜなぜ病は何かのきっかけがあって治りかけ、妻の寝顔を見てホッとして完治したように思えましたが、何がきっかけだったのか良く分かりませんでした。

    大事なことでしたから二度言いましたよじゃないですが、難解な言葉で語られるお芝居では大切なメッセージは別な形でどこかでもう一度繰り返してくれるくらいの親切心があってもいいのではないかと思いました。

    いずれにせよ、心安らぐ日常が大切で、前頭葉を働かせるのは良いのですが、前頭葉が働き過ぎるのは病気のようです。

    ところで、英知をH(え・い・ち)と発音していたのは如何なものかと思いました。平仮名には横棒が無いからえいちと書きますが、発音はえーちに近いんですよね。

    全てを病室とストレッチャーで表現した手法はトーキョー・リングの『ワルキューレ』のようでもありました。
  • 満足度★★

    難解
    私には、ストーリーも台詞も難しすぎて、抽象的な感じでよく分かりませんでした。誰もが、自分は一体何なのか?と考える事はあると思うので、興味のあるテーマだとは思いましたが、好き嫌いが分かれる舞台だと思いました。役者さん達の演技は妖しく怖い感じでした(良い意味です)。

  • 満足度★★★★★

    難解との噂もあったのだけれど・・
    自分にはとても面白い作品だとおもえた。

    あとで書き足します・・。

  • 満足度★★★★

    認識とアイデンティティ
     東洋人でありながら西洋近代を移入し、恰も既に東洋人では無いかのような錯覚をする者も多いと思われる、この国に住む我々のアイデンティティを如何にアウフヘーベンするのか? 否、し得るのか? そも、その必要があるのか、という問いを東西の自我追求に求めた、と解釈した作品と捉えて良かろう。

    ネタバレBOX

     具体的には中島 敦の抱えていた“狭間に居る我ら”の何故? から 私とは何か? へに繋がる問いと言い換えても、また、認識する主体を何処に置くのか? という問いと捉えることも、これらの総ての問いに対する答えを求めたと考えても良いかも知れぬ。何れにせよ、悟浄の哲学探究は、洋の東西のスコラ的なものから、迷い悩む己を通して実存的なものに進み、終には実践的なものに至ったと捉えることができよう。
     タイトルからも当然、イプセンは俎上に上る。但し“人形の家”を演じるという形ではなく、遥かにデフォルメされ、問題は、転位され、植民地へ出向いた宗主国夫婦と現地の人々との相克や争闘としても描かれ、イプセン自身を投影したと思われる人物は、宗主国の行いを内心非難しつつ、具体的行動を起こせない人物として描かれている。ここからも伺えるように、イプセン自身は、実践哲学を体現するレベル迄は行っていない。その代わりと言っては何だが、ノラというキャラクターを作り上げたとは言えるかも知れぬ。
     何れにせよ、イプセンはイプセンでその実際の体験に於いて、洋の東西を知って悩み、中島 敦は敦で上記のような精神的彷徨を通して実践哲学の地平へは、その思考を進めていたと観ることができよう。
     作品内では悟浄が、三蔵一行に随行し、実践することで、自己を許容し得る迄に納得し得たことを描き、これを描いたことによって夭折した中島の到達点をも描いたと言えるのではないだろうか。
  • 満足度★★★★

    問答する空間
    冒頭からズドンとやられる思考への誘い。頭の中をぐるぐる回す問答に、正直全然ついていけないんだけれど、目の前で繰り広げられてる事がすご過ぎて、目が離せない。一見なんでもないように見える空間が、次々と驚きを産む。光と影と音が、自己と世界をグニャグニャと歪めていく。実在と思考が舞台上で交錯してる感じ。スゴイもの見たなぁ。

  • 満足度★★★

    実験的演出
    実験的な演出だったが、私にはその実験意図がわからなかった。

    ただ、それがわかる人、感じられる人にとっては、面白い作品なのかもしれない。

    というのは、詳しくはネタバレBOXに書くけれど、確かに何か強い筋の通った論理・意志で世界が構築されていたからだ。

    ネタバレBOX

    そもそも、どこまでが演出意図なのかわからないが、率直な感想を書く。

    台詞やその意味内容が、観客である私の中にまったく入ってこなかった。
    ただし、わざとそうしているんじゃないかと思わせるようなところが随所にある。

    まず、文語体の台詞が多いこと。難解な用語が多様されること。
    そして、書き言葉のような台詞(モノローグや日記文の朗読)が多いこと。
    (これはおそらく中島敦の文章をそのまま使っていたからだろうが、、、書き言葉と話し言葉は違う訳で、、、と私は思ってしまうが、、、難しいところだ)
    そのような台詞を役者が発する際も、敢えて感情移入をさせないような、そんな発語の仕方をしていること。
    ダイアローグの場面でも、お互いは顔を見合わさず、心の有機的な繋がりを敢えて切断しているように見えること。
    など。

    舞台上がそもそも有機性を排する形式なので、必然的に、客席に伝わってくるものも、無機的な言葉ばかり。

    なぜ、敢えてこんなことをしているのか?
    演劇の命(のひとつ)と言っても過言ではない台詞(言葉)の有機性を敢えて異化する意味とは何か?
    役者をオブジェ化するということか?
    人間中心主義(ヒューマニズム)への反逆か?

    この作品のテーマの一つに、西洋から東洋に持ち込まれた「自我」の問題がある。それらは、言語を基にした思考によって生み出されるもの。そのことをこの演出形式で何か観客に問いかけようとしているのだろうか?
    自我の基本である思考、その思考の根本にある言葉のことを。
    でも、そんな感じもしない、、、

    もしそうだとすると、後半の展開がわからなくなる。
    近代的自我の話から始まった物語は、後半になるにつれ、西洋の植民地主義と東洋との関係などに話が敷衍されていく。
    そこまでくると、もはや「自我」「言語」とはテーマが離れてしまう(勿論、根底では繋がっているにしても)。

    それに、深い意味内容の物語を語っているのだから、きちんと観客にその内容は伝達したいはずだ、、、

    または、言語的意味内容よりも大事なことをこの舞台で表象しているというのだろうか?
    確かに、新奇で美的な演出は面白くはあった。それに、役者の身体も鍛え抜かれたものではあった。だが、物語の意味内容を食い破る(取って代わる)だけのものとは思わなかった。

    敢えて観客に、無機的な言葉の海を見せたということか?

    もしくは、敢えてそうしたのではなく、単に衒学的に脚本が書かれいているだけなのだろうか?

    このように、テーマとその方法が重なっているような、重なっていないような、、、

    少なからず、私はこの作品を観ながら、そして見終えた後も、
    ずっと、作品内容よりも、なぜこのような演出が為されているのかが、気になって、気になって、そっちにしか意識が行かなかった。

    東洋の近代受容における西洋の暴力性というようなことは、うっすら考えたけれど、そのことと、この方法に対する「?」は私の中で全くリンクしない。

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