猫は,なぜか,ドイツの作曲家ロベルト・シューマン(1810-1856)の名
演劇『セロ弾きのゴーシュ』では,猫は,なぜか,ドイツの作曲家ロベルト・シューマン(1810-1856)の名をあげている。宮沢賢治は,この曲が大好きだったのだろうか。宮沢賢治は,セロも実際試みたが,さほど上達はしなかったとのことだ。楽団は,第六交響曲をやろうとしていた。これは,どうも,ベートーヴェン『田園』である。どちらも,たいへん美しい名曲である。ドイツでできた,こういう曲は,今でも世界中で愛されている。
明治期に,ドイツのかくのごとき格調高い交響曲やら,器楽曲をどのようなホールで,演奏し,喝采を浴びたのか,『セロ弾きのゴーシュ』でなんとなくわかる。全神経を集中し,粛々と聴くべき音楽と,楽しみを目的とする娯楽としての音楽がある,と誰もが理解した。しかし,ドイツの人たちが,ある時期そのような厳格な作法を確立し,外国(日本)に音楽を輸出する際,そのマナーまでセットで送り込んだだけで,西欧では特殊だったとのこと。
それは,どういうことかというと,ドイツ人には,歴史的に専制君主国で自由がないという憤懣が満ちていたらしい。そのために,せめて,音楽において,内面的に,現実逃避したい,と音楽家たちは思った。そこでは,なぜか,言葉とか,文学性を離れた,交響曲やら,器楽曲が発達する。声楽を回避する。さらに,オペラそのものも,「貴賓席」重点のホールでやっていて,魅力に欠けた。
エドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)という人は,音楽は,音楽でしかない。交響曲で,「英雄」を意味させるのは,良くない。絶対的なものとしての,音楽を追求すべきであると考えた。しかし,起源的にも,音楽は,詩や,ドラマと切っても切れない。声楽が回避されたというが,ベートーヴェンの第九には,合唱があるではないか。音楽に生命力を与えるものまで全て否定するなんてバカ,ということで,ヴァーグナーが,改革に向かう。
で,『セロ弾きのゴーシュ』を書いた宮沢賢治は,非常に面白い童話を,死ぬまで何度も推敲し,登場人物(動物)も入れ替え,現在の作品を残している。童話の楽団は,『セロ弾きのゴーシュ』を頂点に,結束し,さっそうと名門オーケストラへと躍進していくだろう。『インドの虎刈り』というのは,即興曲のようなものなのだろうか。宮沢賢治は,この童話に,どのような意図を秘めて死んでいったのか。しかし,何度見てもおもしろい演劇だった。
参考文献:舞台芸術への招待(放送大学)
満足度★★★★★
いつも心にカレンちゃん。
素敵なねこでした。
また,作品がムダがなくひきしまっていました。
演劇『セロ弾きのゴーシュ』は,とても調和の取れた演劇です。まず,全員が楽団の役で,トランペットなどを吹くさまを演じます。怖いのは,楽長です,でも,楽団員役の子どもたちは,泣き出したりしません。じっと,その指示を待っています。いざ,ゴーシュを応援しようと決まると,動物のマネをして,ゴーシュを励まそうとするのです。楽団員の物まねの動物なら,ゴーシュは見抜くにちがいないのですが,実際の動物は,とってもリアルなのです。たとえば,何度もドアを破ろうとして,血だらけになるかっこうなど。
狸もほのぼのとして良かったのですが,やっぱり,野鼠がすごい。言葉が,ていねいであり,実感がこもっている。子どもの演技とは思えないくらい,ぐっと来た。そこで,人形劇的に子ねずみがいる。しかし,その分身として,本物の子どもも子ねずみを演じている。たいへん工夫してあって,感動した。自分は,最初の,猫役が,なんとも愛くるしくて瞼に焼き付いてしまった。ゴーシュの後ろに回って,親しげに語る様子もとても面白かった。この演劇『セロ弾きのゴーシュ』は,小時間なのだが,ミスがない,すきがない。
すると,猫は,肩をまるくして,目をすぼめてはいましたが,口の当たりでにやにやわらって云いました。
「先生,そうお怒りになっちゃ,おからだにさわります。それより,シューマンのトロイメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「トロイメライ,ロマンチック,シューマン作曲」
「先生もうたくさんです。後生ですから,やめてください。」
しまいには,猫は,まるで風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュを回りました。