「さくら」~あの満開の桜の下で~ 公演情報 「さくら」~あの満開の桜の下で~」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.0
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  • 満足度★★★

    ねがわくは
     現代のタウン誌編集部と幕末の函館を絡め、西行の名歌“ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃”を挿入してこの作品の厚みを増した。真琴役を演じた女優が、終始内股で歩いていた点も評価できる。また、個人的には、現代メディアの最大の悪弊である自己規制がちゃんと描かれていた点が気に入った。ホントの事を書くと発表させないメディアが多い、のは事実である。

    ネタバレBOX

     だが、物語の展開として、「呪い桜」と呼ばれる桜が、真琴の怨念の故に花を咲かせないということにリアリティーを与えるのは、難しい。その前に、真琴の恋した雪之承が幽霊になって現れているわけだから、ここで言うリアリティーは、合理性・非合理性の問題では無い。観客が納得できるような強い思念を生むだけの、真琴の境涯が描かれていないことが原因である。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」は誰でも知っている作品だが、何故、四谷怪談がこれほどまでに人口に膾炙しているかと言えば、赤穂浪士の外伝という側面と、伊右衛門によって殺された岩の境涯が、余りにも悲惨で、化けてでも出なければその恨みは、果たせないということを、誰よりも観客が思うからであろう。無論、其処までキチンと書けば、それだけで脚本が一冊出来上がってしまう。
     然し西行にも詠まれた桜であるらしいことを匂わせたのだから、その霊木の生命力を封じるだけの力を真琴の思念は持っていなければなるまい。この点で真琴の思念が深まる過程が脚本中に出ていないことが嘘臭さを観客に感じさせるのだ。演劇に限らず表現は総て、表現する者と受け手とが、通じ合った所に立ち現れる何かである。そして、そこで問題にされるリアリティーとは合理的な真実ばかりではない。寧ろ、そのように動かざるを得ない何らかの力の強度、誰しも認めざるを得ない強度を、或いは弱さを、体現する人物が舞台上に表現し、其の表現を観る者が納得できる時に成り立つのだ。

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