美しい星 公演情報 美しい星」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.7
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  • 満足度★★★★

    これまた「F/T仕様」?(笑)
    半世紀前に書かれたメッセージ性の強い原作を「現在」に繋ぐための実験的な試みが多々あり、演劇的に面白い。
    また、終盤、照明でほぼモノクロームにしたのは役者の演技よりも内容を強調するためか、などとも思ったり。
    さらにあのエピローグったら…(謎)
    が、「ゴドー…」を知っていたらもっと愉しめそうだったのは癪の種。(自業自得だが)

  • 満足度★★★★★

    重層的な
    豊富なアイデアが投入されていて面白く見られた。


    (追記)
    一度目は構造のほうに気がいってわかった気がしなかったので、もう一度観てみた。

    ネタバレBOX

    三島由紀夫は超越が不在の日本で超越をいかに導入するかということと格闘していたと言う。
    ベケットの『ゴドーを待ちながら』の2人組がメタ視線として配置されていて、この公演が自己言及されて埋め込まれている。
    自らを宇宙人と見なしている登場人物たちは、宇宙人という役を演じている役者の身体性を持っていて、演者としてのメタ視線が埋め込まれている。
    またそうした意識でこの作品を演出している演出家の発話もゴドーの二人組が発話して演出家のメタ視線も埋め込まれている。
    本編の最後のほうでゴドーの二人組が登場人物たちに台本を配って、役者はそれをそのまま読み始めることで観客が観劇しているというメタ視線も埋め込まれる。
    エピローグでは屋上にあがって(というのもメタ視線の隠喩ぽい)、ゴドーの二人組が待つのをやめるかどうかでもめているのを登場人物たちがコロスというメタ視線になって囲んで高みを求める人間の性を描写する歌を歌う。
    というわけですべてがメタ視線から演劇化されてゆく感があった。
    原作では最後に空飛ぶ円盤が登場してベタに着地するのだが、この作品はベタに着地した感じがないという点でベケット化されている。重層的な演劇化するメタ視線だけで成立していた。
    日本には超越がないがゆえにメタが簡単に発生する、といった含意があるんだろうか(でてくる宇宙人がサヨクやウヨクと対応しているように見えた)。それとも超越が不在なゆえにメタが超越と錯視されるということだろうか。エピローグでゴドーの二人組がもめていたのが何かを意味していたのかもしれない。

    ちなみに『ギャラクシー・クエスト』という映画では宇宙人が地球人のネタをベタと勘違いして全てがベタになる。


    テキストを提示することに依存した結果ややリズムが足りないと思われる。ラップのところが印象的でよかったから、かえってそう思ったのかもしれないが。難解なことを教えてくれるのは殊勝だが、それでももっとポップでいいと思われる。初期の『さららばい・モミの木』はやたらポップだった。あのポップさは貴重。


    (二度観た)
    一度目は構造のほうに気がいって、あまりわかった気がしなかったので、もう一度観てみた。
    今回は三島の『美しい星』自体の家族劇という側面が感じられた。一方でキャーバ危機を背景として行われる核の議論には個人的には全くリアリティを感じなかった(日常的に内部被曝を恐れているにもかかわらず)。
    演出上で最初観たときと大きく変わっていたのは客に紙が配られて、演出家がそこにある文を読みあげたところである。演出家が読み上げることで上で書いたメタ視線の取り込みにまとまりがついたように思われる。読みあげた文の内容も面白い(三島『美しい星』第8章の重一郎が羽黒らにする話の一部をベースにしたもの)。人間という存在が反政治的な空虚をもち、それが反政治的な連帯を可能にすると言う。これは劇中の台詞にもあるような政治と美という一見分裂した二つの極(大杉家の兄妹にも象徴される)を架橋しようとした三島に対するひとつの反駁のように聞こえた。
    劇中で『小説家の休暇』にある三島の演劇論が言及されていたが、後でそれを読んでみると、この舞台は三島の演劇論を実験する舞台であったように思われてきた。『美しい星』の登場人物たちを宇宙人を演じる演者と見立てることで、それを舞台化すると俳優が俳優を演じるという状況が生じる。『小説の休暇』七月十日にある三島の俳優の定義「芸術家としての俳優は、内面と外面とが裏返しになった種類の人間、まことに露骨な可視的な精神である」に照らせば、内面と外面との反転を再反転させねばならないということである。再反転して何かねじれが生じてくるかのかと言うとそうではない。三島が言う俳優と批評家の類似性から言うと批評の場合は批評の批評も別個の批評として勝手に増殖して収拾がつかない(批評の不毛性)のだが、俳優は肉体があるおかげで「批評と別の方向」をたどる。つまり俳優が俳優を演じても増殖しない。台本を読む俳優を演じる俳優は俳優のままであった。微妙な効果として演技が臭い演技になって家族劇向きにはなるようだ。

    以下雑多な印象
    ・ゴドーの二人の台詞には『小説家の休暇』からのテキストがimplicitにも挿入されていたように思われる。二人は風貌からしてロシアのSF映画『キンザザ』にでてきそうだった。
    ・羽黒一味が世界的に流行しているPSYの江南スタイルのダンスを踊っていた。
    ・ダンスと言えば金沢の竹宮の舞いもあった。三島の作には竹宮の後日譚が欠けているように思われる。竹宮もやはり金星人でないと辻褄が合わない。結末から逆に見ると、竹宮と暁子の交流にのみ宇宙人の宇宙人性が表出しているのである。
    ・劇中でかかっていた曲はYesのArriving UFOに似ていた。
    ・『美しい星』はウルトラセブンと雰囲気的に似ている。暁子は地球に残ってウルトラ警備隊のアンヌ隊員になるのではないか。

    というわけで三島の『小説家の休暇』の演劇論を『美しい星』で実験するという企図のもと『美しい星』で空飛ぶ円盤を待つ人々をベケット『ゴドーの待ちながら』の待つ二人と対照することで、超越的なものをめぐる世界の俯瞰図を示していた。また三島における政治と美のあり方や『美しい星』を通じた技術論にもふれていた。オーバーフロー気味なのは否めないものの、三島由紀夫という人物の総体性を呼び起こそうとする果敢で稀有な試みのように思われる。(ので満足度を4点から5点にあげた)
  • 満足度★★★★★

    まさに三島由紀夫ワールドだった120分
    原作を壊さないような、なおかつピーチャム風にアレンジした内容でギャラリー演劇にリーディング形式を挿入しながら、最後に意外な結末(その上の屋上で)結ぶ一風変わったピーチャムカンパニーはすごいことをやるんだなあと感じた、120分でした。

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