せんがわ劇場×桐朋学園芸術短期大学自主上演実習公演 公演情報 せんがわ劇場×桐朋学園芸術短期大学自主上演実習公演」の観てきた!クチコミ一覧

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  • 実演鑑賞

    「葉桜」「命を弄ぶ女ふたり」は、どちらも岸田國士作品。なお後者は「命を弄ぶ男ふたり」が原題だったような。それを女性バージョン、しかも現代的に改変している。ただし内容は同じだった。両作品に共通しているのは女性の2人芝居、その会話をどう描くか。

    岸田國士作品は、映画 小津安二郎作品のように日常のありふれた光景を滋味ある会話で紡ぐ、といった印象だ。刺激的な出来事などは起こらず、淡々とした日常の味わい深さ それをどう観せ感じさせるかが見所だろう。

    ネタバレBOX

    〇「葉桜」(作:岸田國士)
    舞台美術は中央にソファ、その後ろの丸窓に障子 そして桜が見える。上手は足踏みミシン、下手に鏡台(鏡なし)。和風の落ち着いた雰囲気を漂わす。母は和装、娘は洋装、その外見は世代や考え方の違いを象徴しているよう。

    お見合いを終え 縁談を進めるか否か、決断を迫る母と迫られる年頃(19歳)の娘の揺れ動く心を描く。母と娘、世代が異なれば「結婚観」も異なる2人の女がお見合いで出会った男の印象と、自分たちの将来について葉桜の季節に逡巡する物語。

    気になったのは、現代版(戯曲は大正14年作)に改変したのか否か。雰囲気は当時のように思えるが、速いテンポの会話は時代感覚としては違う、そう違和感を覚えるのだが…。そして母・娘という関係から、その口調は違うが やはり同年代による親子の演技は難しいようだ。

    〇「命を弄ぶ女ふたり」(作:岸田國士)
    舞台美術は、中央にベンチが置かれているだけ。
    ある日の夕暮れ時に、自殺しようとする女2人が線路近くのベンチで奇遇にも出くわしてしまう。それぞれ死のうとする理由を正当化し、先に自殺することを譲らない。その面白可笑しい遣り取りをするうちに、死ぬことから生きることへ気持が変わってくる。もっと言えば、生への執着が芽生える。ラスト、夕闇に輝く星々(照明効果)はキレイで印象的だ。

    原作通り、外見=顔面に「眼鏡」と「包帯」した男ならぬ女2人。線路に見立てて客席通路を駆け上がり、脇を回って舞台上へ倒れ込む。交互に何度か自殺を試みるから、その躍動感は半端ではない。そしてスマホを取り出しlineを見せることから現代版へ改変したと思われる。早いテンポと最新機器という時代感覚も合っている。

    気になるのは、「眼鏡」と「包帯」がそれぞれの身の上話をするが、その切実さが伝わらない。そもそも自殺しようとする理由がはっきりしない。他公演で知っていたから自分なりに解釈しただけ。次のようなことが感じられれば良かった。
    ●「眼鏡」は恋人が亡くなった喪失感を話し出すが、その先は聞かなくても分かる。「包帯」は事故で二目とは見られない顔になったが、恋人から「悲しくはない」と。それぞれが相手の話を聞いても自殺するほどの事ではないと言い合い、相手を怒らせてしまう。それが納得出来ること。
    ● 結局、2人は自殺しない。勿論死ぬのが恐いこと。2人の悲恋は命を懸けるほどの価値がないと悟った、そんなことが感じられること。
    ●全体的に表層の面白さが目立ち、その奥に潜む<死と生>の奇妙な可笑しみが滲み出ていないのが惜しい。
    次回公演も楽しみにしております。
  • 実演鑑賞

    有名な戯曲2編「父と暮せば」(井上ひさし)・「2020」(上田岳弘)、と言っても後者は観たことがない。前者は現実をリアルに描いた反戦劇、後者は抽象的というか観念的な創造劇。その違いを続けて観ることで、演劇の幅広さ奥深さを改めて感じさせる。上演演目の選択は勿論、その並べ方(上演順)も上手い。

    ネタバレBOX

    〇「父と暮せば」(作:井上ひさし)
    板敷の上に畳、中央奥は台所/流し場、上手に襖 傍に卓袱台。屋外には隙間のある板壁が見える。シンプルな造作だが、戦後のあばら家と思えば納得できる。登場人物は父と娘の2人。当日配布されたチラシによれば役者2人は同い年。それを父・娘を演じることの違和感を危惧したが…。設定では亡父だが、亡くなったのが兄で 親心といった面持ちで観ても泣ける。

    物語は、戦後3年経った夏の広島が舞台。美津江は「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と固い決意。原爆で多くの愛する者を失った美津江は、1人だけ生き残った負い目を持っている。最近 勤めている図書館に通ってくる青年に好意を抱くが、恋のトキめきからも身を引こうとする。 そんな娘を思いやるあまり「恋の応援団長」として現れるのが父・竹造。実はもはやこの世の人ではない。共通パンフには「死者と生者、父と娘それぞれの抱える思いが交錯しながら紡がれていく日々」とあり「いまを生きるあなたに届けたい物語」と結んでいる。

    父と娘、その年齢差をあまり感じさせない演技力。全編 広島弁、その臨場感も相まってシーンとした場面では、至る所ですすり泣きが聞こえる。第二の故郷が広島であり、聞き慣れた広島弁に違和感は感じられなかった。それだけ方言指導と演技が確かということ。
    気になったのは、すべって尻もちを搗き苦笑いする美津江。転んだのが気になったのではなく(⇦良くはない)、真剣に演技しているから真顔、その表情が硬く(特に目が据わっているようで)怖い。転んだ(アクシデント?)後の苦笑いだが、何となく柔和になったように思う。真剣に演じている表情だが、例えば亡くなったとは言え、父が幽霊となって現れる。それだけでも嬉しいと思うのだが…。真剣になればなるほど硬い表情・演技になる難しさ。因みに、美津江役の東春那さんは翌日 ブランケットの貸出をしていたが、その時の笑顔は優しい。

    舞台技術は、冒頭の雷鳴や雨音、そして朝・夕を表す照明の諧調が実に効果的だ。特に原爆投下を表す目つぶし照明は 強烈な印象付け。また美津江の衣裳は白ブラウス&もんぺ、父の普段着も時代感覚に合っており、戦後間もない頃の様子を窺い知ることが出来る。

    〇「2020」(作:上田岳弘)
    舞台美術は横長テーブルを菱形に配置し、その角に額縁枠だけの小物を置いたシンプルなもの。正面奥に映像を映し出す。登場人物は男1人…約60分間の一人芝居でその台詞量は膨大だ。

    物語は時代を往還するかのように、その時々の情景や状況を表す。「2020」というタイトルだが、描かれている時代・世界は現在の視点のよう。共通パンフによれば、疫病があっという間に世界を覆い、まさしくコロナによるパンデミックを連想させ、東京オリンピックを起点に はるか昔、人類の誕生からはるか先の世界の終わりまでを語る。まさしく<語る>のだが、それは独白のようでもあり、演者の精神・肉体から発する声のようなもの。それをしっかり伝え届けることが出来るのか否かが、この物語の面白いところ。

    物語に関連があるのか、先のパンフによれば「クロマニヨン人」「赤ちゃん工場の工場主」「太陽の錬金術師」そして「最後の人間」などが語られている。また断片的な台詞で世相の象徴的なことを表し、時代を行き来するタイムトラベルまたは宇宙飛行を思わせるような映像、その舞台技術の駆使が印象的だ。照明ライトを浴び、その中に浮かぶキャストのシルエット…腕を天に向かって伸ばす姿が神々しい。全体的に観(魅)せるを意図しているよう。
    また、具体的な事件等も映し虚実綯交ぜといった観せ方だ。語り続ける男、その本意をどこまで理解出来たかは解らない。

    言えるのは、男が客席通路を駆け上がったり、横長テーブルに上り熱く語る姿。それが熱演といえるかどうか?だた永い人類史に絡めた人間心理と社会世相、それを額縁枠から覗く様は俯瞰的であり客観的に自身を語っている、とは感じられた。
    次回公演も楽しみにしております。
  • 実演鑑賞

    あまり学生演劇は観ないが、本公演は誘われて というか依頼されて3日間せんがわ劇場へ。全6公演のうち5公演(観なかったのは「地獄」)を観劇した。初日に「『地獄』だけは見たくない」と シャレにもならないことをスタッフ(学生)に言ったが、実は その時間帯に別公演を観ることにしていたというのが正直なところ。
    ちなみに、この公演は学士「芸術学(演劇)」取得のための審査対象となる上演であり、上演作品の映像を専門家が観ることになっている。よって★評価はしない。

    「観てきた」は演目ごとではなく 観劇日ごとに記する。始めに全公演に共通することと初日の「フローズン・ビーチ」、2日目は「父と暮せば」「2020」、3日目は「葉桜」「命を弄ぶ女ふたり」を書く。3日間は雨が断続的に降り、蒸し暑かったり肌寒かったりと体調管理が難しかった。そんな中、スタッフは 雨で足元が悪い中、受付や傘入れなど丁寧な対応、劇場内では座席への誘導やブランケットの貸出など親切な対応が気持よい。観客にとってスタッフ対応の良し悪し、その第一印象は大切。

    ネタバレBOX

    〇 共通
    観劇した5公演は、いずれも有名作品。自分は「2020」以外は観たことがあり内容(粗筋)は知っていたが、演出(舞台美術も含め)や役者(演技)が違えば印象も異なる。その意味ではフレッシュな学生演劇を楽しんだ。とは言え、桐朋学園芸術短期大学専攻科、それも演劇専攻(56期)というだけあって演技は確か。

    作品ごとにトリガーアラートを記載し、観劇にあたっての配慮をしている。例えば「フローズン・ビーチ」では、暴力・流血描写(服が血で赤く染まっている)、銃声などの大きな音、といったこと。

    〇「フローズン・ビーチ」(作:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)

    舞台美術は、中央に横長ソファとテーブル、その後ろに白幕。上手のカーテンの奥にベット、レコードプレイヤー、下手は酒瓶が並んでいる棚が置かれている。
    物語は1幕3場。別団体で観た公演の上演時間は 2時間30分ほどだったが、本公演は1時間20分と短縮版。その時間経過に伴う変化等を補うため、白幕へテロップを映し説明を加える。

    物語は、カリブ海と大西洋のあいだにある島(リゾート地。島の名前は出てこない)に建てられた別荘のリビングが舞台。別荘の持主は、双子の姉妹である愛と萠の父親・梅蔵で、千津とその友人・市子は、愛に招かれて滞在している。千津と愛は親密のようだが、実は千津は愛に対する憎しみがあり、市子と共謀して彼女をベランダから突き落としてしまうが…。一方、双子の姉妹の義理の母で盲目の咲恵は、萌と二人きりでいる間に彼女と諍いを起こすが、体の弱い萌はあっさり死んでしまう。咲恵はベッドルームに萌の死体を運ぶ。咲恵と、死体を愛のものと勘違いした千津、市子との間で滑稽な行き違い。結局、萌は心臓麻痺だったが、千津と市子は真相を知らないまま日本に発ってしまう。第二場は、8年後の同日、同じ場所が舞台で登場人物も同じ。千津は自分が殺人犯だと思い込まされていた恨みから、再び市子と共謀し、愛と咲恵に毒を盛るが…。第三場は その8年後、水没しかかっている同じ場所に集まった4人。

    戯曲の力であろう 世相を反映したかのような描きーーバブル期の狂乱景気・騒動、オウム真理教を思わせる妄信した狂気(凶器)ーーが点描されており見応えあり。

    5人(キャストは4人)の女が繰り広げるサスペンスコメディ。等身大の女を生き活きと演じており、その弾けた(エキセントリックな)演技が実に面白い。時代・時間の変化は衣裳は勿論ヘアスタイルを変えるなど細かい。舞台技術は、照明の諧調で情況や状況を巧みに表し、音響・音楽(レコードを聞かせる)は効果・印象付けをしている。

    気になったのは 次の通り。
    ●上演時間が共通パンフでは60分、入り口には80分、そして5分押し。数分なら気にならないが…。
    ●場転換、明転してもスタッフが舞台上で作業しており、慌てて捌ける。
    ●白幕へ映写した文字スーパーとそれを読む音声がズレている。
    ●死んだ萌がカーテンの隙間から動くのが見えてしまう。
    いくつか列挙したが、改善の余地があるものばかり。
    次回公演も楽しみにしております。

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