演劇大学2011 in 福岡 公演情報 演劇大学2011 in 福岡」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 1.0
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    「大学」もなければ「演劇」もない
     幼稚園のお遊戯会で「あの芝居はなっちゃいない」と文句を付ける人間はいない。講師こそ一流どころを呼んできてはいるものの、練習期間はたったの4日、素人を集めて素人が演出を務めているのだから、そもそも「演劇」になりようがない。「一人一人、その人なりに一生懸命、頑張ったねえ」と、出演者のみなさんを労ってあげるのが順当な対応というものだろう。
     客だって殆どが出演者の身内のようで、よく笑ってあげている。正直な話、私にはどの芝居も苦痛なくらいに退屈だったのだが、一般客がこの場に紛れ込んでしまったこと自体が間違いなのだろう。

     と言って終わりにすることができ難いのは、この発表会が、曲がりなりにも「日本演出家協会」の企画によって成り立っているという事実があるからである。
     演出家協会の目的は何か。それは、各地域において演劇の土壌を作り、演劇文化の活性化を図る、即ち「一般客にも見せられるレベルの演劇の構築と、プロの演劇人を育成すること」ではないのか。
     だとすれば、現行の演劇大学の「お遊戯」な有りさまは、全く目的を果たしてはいないと断じざるを得ない。2ヶ月なり3ヶ月、じっくり時間を取って、演出も中央から招聘する演出家に全面的に任せる程度のことをしないことには、決して効果は上がるまい。もしそこまでの予算も時間もないというのであれば、「演劇大学」などという仰々しい看板を揚げるのはやめて、「演劇セミナー」程度にしておいていただきたいものだ。
     福岡の演劇人が参加しているとなれば、その内容も質も吟味分析することなく、安易な現状肯定、根拠も示さない擁護や賞賛、的外れなアドバイスを行う者も少なくない。「これは試演だから」などという擁護にもならない詭弁を弄する者も出てくる始末で、そんな言い訳が通用するのであれば、全ての演劇が試演ということになってしまう。そんな馬鹿な話があるはずもない。一般客の眼に晒されたものは、それが一つの完成形として観られることを覚悟しなければならないものなのだ。
     それでもなおあれが試演であって、あえてオモテに出して一般客の俎上に供したのだと主張するのであれば、そんな「演劇以前」のシロモノが批判に晒されるのは当然であろう。結局、擁護派の言は何の言い訳にもなってはいないのだ。
     そういう劇団や俳優にすり寄り、媚びる乞食のような連中によって「誉め殺された」劇団も福岡には少なくない。妙に「人の輪(和)を作る」行為が福岡では質の低下、逆方向にしか作用していない。演劇大学のこの無様な結果は、その端的な象徴と言ってよいだろう。

    ネタバレBOX

     企画自体に問題がある以上は、個々の作品について心情的にはマットウには評価がしにくい。
     しかし観客は、制作の裏事情などは忖度せず、「そこにあるもの」をただ観て評価するものだ。と言うか、「時間がなかったんだろうねえ」なんて制作の裏事情が透けて見えるような舞台は演劇の名に値しない。素人が演じようがプロが演じようが、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。その視点で個々の作品を鑑賞してみる。


    『二つの星』青井陽治(講師)三浦直喜(作・演出/熊本総合舞台芸術舎)
     東日本大震災からの復興を、宮本武蔵や太陽系の惑星たちが協議するという何だか意味がよく分からない脚本。地震が起きたのはどうやら海王星の管理ミス、ということらしいのだが、これは「海王」=海の神ポセイドンの管轄、と言いたいのだろうか。惑星の名前、人間が勝手に付けただけなんだが。全てがこの調子で、被災の現実を直視して我々に何ができるかと真剣に悩んだ形跡が見られない。
     人の輪(和)が復興を助けるとでも言わんばかりに、観客を無理やり最後に舞台に引き出して輪を作らせる傲慢な演出。これが子ども、家族向けミュージカルとして、そういう場で上演されていたのならそれもありえるだろうが、ここは「演劇大学の発表会」である。場を一切理解していないとしか思えない。
     観客無視のこの酷い演出は何なのだ、と思っていたが、実際の演出は田坂哲郎(非・売れ線形ビーナス)が行っていたということが最後の挨拶で明かされた。どうしてそういうことになったのか事情が分からないが、これも「看板に偽りあり」ではないのか。


    『あの星はいつ現はれるか』岸田國士(作)柴幸男(講師)渡部光泰(演出/village80%)
     このところ、岸田國士が上演される機会をよく眼にするが、これ、単純に版権が切れていて上演の許諾が要らないからなんじゃないだろうね。課題を与えたのが企画側からなのか、講師か演出家からなのかは分からないが、出来上がった舞台からは、岸田戯曲に真剣に取り組んだとは思えない、惨憺たる空気しか流れては来ない。
     対話劇(会話劇)を基盤とする岸田戯曲の台詞は、安易な改変を拒否する極めて微細な心情のやり取りで成り立っている。相当な演技力の俳優でない限り太刀打ちできない、というのが現実だ。つまりこんな劣悪な制作システムで岸田戯曲を上演しようというのが誤りで、実際、俳優は全く台詞を自分のものにしていない。
     演出は懸命に台詞に抑揚を付け、奇妙な動きを付け、台詞とは無関係なパフォーマンスを多々盛り込み、何とか舞台を「見せられる」ものにしようと努力するが、それが一切「内面の表現」には結びついてこない。ブツ切れに解体される台詞はドラマを完全に崩壊させてしまった。これでは舞台を見るだけでは筋も人間関係も分からない。戯曲をそのまま読んだ方がよっぽど面白い。
     岸田國士を上演するのに小手先の技術は役に立たないのだ。


    『秋の対話』岸田國士(作)流山児祥(講師)幸田真洋(演出/劇団HallBrothers)
     同じ岸田戯曲の上演でも、まだこちらの方が見られるが、それは前者が酷すぎたために相対的にそう感じてしまうだけのことで、ト書きを台詞で言わせるなど、やはり戯曲を読み込んでいるとは言えない拙い演出が目立つ。
     戯曲には、花の役の俳優がそれらしい衣装を身につけるように指示されているが、衣装や舞台装置を用意する費用も時間もないから、状況を台詞で説明しようと考えたのだろうが、木は木の、草花は草花の、虫は虫の演技をすれば、そう見えるものだ。と言うか、それを「教える」のが「大学」だろう。ここでも「素人に四日間で演技を教えるのはムリ」というマイナスの判断が働いている。
     一つの役を、二人に分ける演出は、要するに全員に役を振らなければならないための苦肉の策か。これも演劇的な効果を考えてやったものではないから表現として昇華してはおらず、誰が誰の役なのやら混乱するばかりで、各キャラクターの心情などいっこうに伝わってこない。混乱させていい戯曲ではないだろう。


    『知恵』小林七緒(講師)山下キスコ(作・演出/演玩カミシモ)
     教師と保護者の母親との、子どもを巡っての諍いを滑稽に描く「二人芝居」だが、これも一人の役をそれぞれ五人ほどが入れ替わり立ち替わり演じる。既にこの無意味な演出が「仕方なく行われている」ことには諦めが付いていたので、舞台上の出来事はあまり気にせず、筋と台詞のやり取りだけに集中したら、まあ何とか楽しめた。

     要するにどの芝居も、キャストが無駄に多い、でも全員役付けで出さないといけない、しかし演技力を付けさせる時間なんてない、どうにもならない状況で舞台を作っているのである。
     制約があってもなお、それなりのものを作らなければならない、というのが演劇の絶対条件ではある。しかし演劇大学の惨状はあまりにも演劇のありようからかけ離れている。これは参加者にとっても殆ど益のないシステムなのではないか。彼らがここで何を学べたというのだろう。学んだ気になれたという「雰囲気」だけではないのか。
     演出家協会が何を考えているのか、本当に理解に苦しむのだが、素人を使うのであるからそこには相当のストラテジー、「戦略」が必要になるのである。それが何もない。あるいはこの程度の企画で、福岡の演劇シーンの惨状をなんとかできると甘く見つもったのだろうか。それを何とかせよと烏滸がましいことを発言するつもりはないが、馬鹿が安易に誉めているからといって、これでいいのだと錯覚だけはしないでいて欲しいものである。
     身内客の跳梁のせいで、一般客が迷惑被ってるんだよ。
  • 演劇“大学”とは?
    短編4本。

    どれもつまらなかったが、前半2本は特に酷かった。

    参加者の数の問題なのかわからないが、どの作品も一つの役を複数でやるようなことをしている。
    それがどの作品も何らかの演出意図があってのことのようには見えない。
    あったとしたなら台本を阻害するばかりで失敗しているとしか言いようがない。

    どだい4日間で一つの作品を作り上げることは福岡の(福岡以外の方もいたようですが)演劇人には無理なのではないだろうか。
    4日間というのは、それまでに多くを積み上げいつでも準備が出来ている、という者か、演劇的センスのある者が実力ある演出家に出会えた時だけだろう。


    無料だったのであえて星は入れません。

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