ピーター・ブルック近作『WHY WHY』 公演情報 ピーター・ブルック近作『WHY WHY』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
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  • 満足度★★★★

    ピーター・ブルックからのメッセージ
    演劇における大カタルシスの否定、思考停止への警鐘、あるいは社会性を持ち続けることへの喚起と言う感じ。
    何事も、演劇も、どうしてそうなのか、ということを問い続けなければならない。本質を置き去りにして、慣例に縛られてはいけない。なぜ演劇が社会にあるのか、上演する側も、観客ももう一度考えよ、と受け取った。

    劇場に来て、感動して帰るのではなく、問題意識を持つために、問うために来るべき。ブレヒト的。女優さんもドイツ人。

    なのだが、上演した女優さんが素晴らしすぎて、チャーミングすぎて、そっちに感動していい気持になってしまった。

  • 満足度★★★★

    演劇とは―、俳優とは―
    古今東西の演劇人の言葉を抜き出し、ピーター・ブルックが考える「演劇的なるもの」をユーモアを取り混ぜて語っていく一人芝居。氏の演劇観を堪能したい演劇関係者やディープな演劇ファンは惹きつけられる内容でしょう。そうでない人はおそらく敷居の高い舞台かと思いました。

  • 201106181600
    201106181600@静岡芸術劇場

  • 満足度★★★★

    ピーター・ブルックからの問い掛け
    「演劇」あるいは「役者」を、いろいろなテキストからの問い掛けてくる。
    とてもシンプルな舞台。
    舞台に釘付けになる。

    残念だったのは、私がドイツを解せず、字幕に頼らざるを得なかったこと。

    ネタバレBOX

    役者1人、演奏者1人、黒い舞台にはいくつかの装置があるだけで、ほとんど何もなくシンプル。
    女性の役者が観客に、自分に問い掛けていく。

    「演劇」あるいは「役者」について、過去のいろいろな戯曲等のテキストを使い、ピーター・ブルックは「WHY WHY」と、根源的な問い掛けを私たちに浴びせてきた。
    誰に問い掛けているのか? それは観客と演劇関係者ではないか。ピーター・ブルック本人、今舞台の上で演じている役者自身へも同時に問い掛けているのだろう。これは常に行われていることと思って間違いないだろうと思う。

    ただ、問い掛けながらも、ピーター・ブルックには、その「解」もすべてお見通しなのではないかと思ってしまう。「解」を知りながらの「問」とでもいうか。
    つまり、教師が生徒に問い掛けているようなものであろうか。
    「白熱教室」のサンデル教授に代表されるような教授法のイメージ。問い掛けと討論によって成り立つ方式だ。舞台では討論は自分の中、あるいは後に自分のカンパニーの中で行われる。
    そして、「解」を知っているとしても、実践では、常にそれを意識しなくてはならないということでもある。

    「演劇」とは、「役者」とは、「狭間」に存在するものである。
    「光」(炎)と「闇」、すなわち、「生」と「死」、さらに「肉体」と「霊(スピリット)」、「私」と「他人」これらの狭間に役者は立ち、それらを行き来し、それらを観客に見せる。
    役者は、観客席から現れ、舞台に登る。象徴的なオープニングシーンだ。「観客」と「舞台」の2つの世界を通って、「舞台」に現れるというもの。
    2つの世界を繋ぐ「ドア」を使い、それをさらに具体的に見せる。
    2つの世界の「狭間」を「行き来」するのが役者であり、させるのが「演劇」であるということなのだ。

    ライトを使って、舞台は闇、現(うつつ)であり、ライトによって、現実のものと「する」(なる)。
    また、「泣く」と「笑う」は同じもの(原理)であると説く。

    さらに「私は誰か」「私はなぜ生きているか」という根源的な問い掛けをする。これはに「今の」を付けるともっと明確となる。すなわち「今の私は誰なのか」「今の私はなぜ生きているのか」である。「演じている」という語句を付けるとさらに明確になる。

    つまり、すべてこれらは演劇のことではないか。「演じる」「演じさせる」ときにおいて、常に自問自答されるべき事柄ではないか。
    このように、「演じる」とは、「演じさせる」とはということについて、2つの世界を行き来する(させる)こと、そしてそれへの心構えのようなものを問い掛けていくのだ。

    もちろん、それらの問いを、意識的かつ誠実に受け止めて、「私」については、「演劇関係者」だけでなく、観客すべてを含んでもいいのだが、そのための材料を私は現時点では持っていない。

    後半、リア王のドーバー海峡でのシーンが、特に象徴的に演じられる。目が見えないグロスターが息子に連れられてドーバー海峡の絶壁に立つというシーンだ。これは演技する者に対する、一種のちょっとしたアイロニーではなかったのか。
    すなわち、「何もない空間」に「世界を立ち上がらせ」、「見えない」モノを言葉によって(観客に)「見せる」のが、演劇であるならば、演じている者にとっても、それは実のところ同じであり、「ないもの」を「あるもの」として演じる(信じる)ことは、まさに「目が見えない」者が言葉によって「ドーバー海峡」を感じる様ではないか。
    これは、後に述べる「天地創造」のシークエンスにも関係してくる。

    観客を自分たちの世界に連れていくだけでなく、演じている自分をもそのような「狭間」のエッジに連れていくことで、演劇は成立していることをまざまざと見せつけてくれたとも言えよう。

    (このドーバー海峡のくだり、最近何かで耳にした(目にした)ような気がするのだが、何だったんだろう? だからそのくだりの台詞を聞いたときに、「!」と反応したのだか、忘れてしまった)

    さらに、後半で語られる「天地創造」の7日間のエピソードは、「世界」を創り上げていく「演出家」「役者」、(主に「演出家」)への「WHY WHY」ではなかったのか。「あなたは世界を創造していますか?」との問いであり、「なぜ?」「どうして?」などなどの「根源的」な問いが、演劇を上演することへ降りかかってくるのだ。

    そういう気概は、意識は、思い入れや、思い込み、はあるのか、ということと、「安息日」ができてしまったことによる「娯楽」の要素(いわゆる「たかが」と「されど」の関係)との関係について、考えよ、ということではなかったのか。

    つまり、それは「クリエイター(創造者)」への「戒め」でもあろう。

    本当に興味深い舞台であった。

    スチール・ドラムを逆さまにして、貼り合わせたような楽器を生演奏していたが、とても感傷的な音色であり、舞台に色を添えていた。

    ただし、ドイツ語で上演され、字幕(あまりテンポの良くない)でしか内容を理解できない者にとっては、ストレートに舞台が伝わってきていないという残念感は残ってしまうのではあるのだか。

    話は変わるが、いろいろなテキストによって、1つのテーマや事象を浮かび上がらせる手法はよくある。最近では1人(太田省吾)のテキストだけてあったが、地点の『あたしちゃん、行き先を言って』、または『−−ところでアルトーさん、』もそうだった。shelfの『untitled』もまさにそう。

    特にshelfのほうでは、『WHY WHY』で「リア王」が象徴的だったように、「小さいイヨルフ」からの引用が象徴的だった。shelfの、その舞台では、具体的な答えを見つけるための作品だったような印象を受けた。そこが『WHY WHY』と同じであり、異なる点でもある。

    今回、shelfの方たちを偶然観客席でお見かけしたこともあり、この舞台をshelf版として上演してはくれないだろうか、と思った。
    shelfならば、また別の「WHY WHY」という問い掛けがされるのだろう(どんな劇団が上演しても、それぞれの「WHY WHY」という問い掛けがされるのは確かではあるが)。例えば、川渕優子さんが演じると、静謐で端正な女優を見せてくれるのではないだろうか。shelfはどんな問い掛けをしてくるのか、とても観たいと思ったのだった。

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