スガンさんのやぎ 公演情報 スガンさんのやぎ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
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  • 満足度★★★★

    楽しい舞台だった。
    芝居自体はマイムで行われたが、ナレーションが日本語で入るので会場にいた子供たちにも問題はなかった。

    回り舞台で、舞台を3分割しながら、その構造は基本的に3つとも同じもの。それでいて、「スガンさん」と「やぎ」の距離や心情が見えるようだった。

    やぎの動きや回り舞台は特に楽しめた。

    内容はとてもよかったのに、客席が寂しかったのはとても残念。

  • 満足度★★★★★

    赤頭巾ちゃん気をつけて
     原作はドーデ『風車小屋便り』の一編。もちろん“童話ではない”。しかしフランスでこれが童話として絵本になっていることは事実で、「子どもには美しいものだけを見せたい」と考える親なら、この話をよく子どもに語って聞かせられるものだと、フランス人の教育意識に疑問を抱くことだろう。
     しかし、大人がこの寓話から、恐怖やエロス、生と死の問題、あるいは文明批評までも感じ取るように、子どももまた、言葉には出来なくともその鋭敏な感覚で、物語の背景にある「得体の知れない何か」を直観することは可能であるはずなのだ。そしてそれが子どもの成長に欠くべからざるものであることを、フランス人は確信しているのだろう。
     エレナ・ボスコは、哀れなスガンさんのやぎをマイムで演じる。子ども相手だからと言って、“わかりやすく”妥協することはしない。作り手、演じ手が、観客の想像力を信頼しているからこそ、この舞台は成立している。『スガンさんのやぎ』を観た子どもが大人になって、再びこの舞台を観る機会があったなら、当時は言葉には出来なかった心の中の「もやもや」の正体に気づき、慄然とさせられることだろう。

    ネタバレBOX

     今井朋彦の日本語によるナレーションは、原作を99%、そのまま朗読したものである。日本人には分かりにくい「グランゴワール」「エスメラルダ」(いずれもユゴー『ノートルダムの傴偃男』の登場人物)などは省略、ないしは「言葉の置き換え」が為されたが、物語には一切、手を加えていない。
     即ち、ドーデが小説に込めたテーマは、そのまま舞台にも継承されたと判断してよい。作者が語りかける「グランゴワール」は架空の人物であるから、これはドーデが若き日の自分自身に向かって呼びかけているのだ、と解釈するのが一般的である。教職を辞して作家生活に入った自分と、新聞記者を辞めたグランゴワールを重ね合わせているのだ。
     冒険好きな若い雌山羊のブランケットは、飼い主のスガンさんの制止も振り切って、「自由」を求めて山へと旅立つ。山が狼の巣だということは熟知しているが、その恐怖もブランケットを翻意させることはできない。彼女は希望を胸に新天地に勇躍するが、果たして数々の苦難と危険を乗り越えて「成功」を手中にすることができたか。否である。彼女はあっさりと狼に嬲られて喰われ、物語は終わる。そこには何の意外性もない。“読者が心配していた通りの結末”が提示されるのだ。
     『風車小屋便り』を書くまでのドーデは、まだ作家として成功したとは言えなかった。彼の小説が評判を呼ぶのは、まさしくこの短編集以後のことである。数多くの夢見る青年が挫折を味わったのと同じく、ドーデも自らの人生への不安を『スガンさんのやぎ』のモチーフとしたと判断してよいだろう。そしてそれは読者である「若者たち」にとっても教訓となるとドーデは考えたはずだ。

     ところがあろうことか、フランス人たちは、この物語を「子供たち」に提供した。それは、本来は社交界のうら若き子女たちに向けて語られていた『赤頭巾』の物語が、「童話」として広まっていった過程とよく似ている。戒めは、“早ければ早いほどよい”と考えているのであろうか。

     舞台にはもちろん本物の山羊も狼も登場はしない。たった一人の出演者、エレナ・ボスコは、白い服を身に纏って、美しい白山羊を体技だけで演じている。時折、身体を掻く、紐に噛みつくなどの動物的な仕草を取り入れはするものの、彼女は紛う方なき“人間”である。
     旅立ちにあたり、彼女は靴下を履き、手袋を付け、帽子を被る。山羊はもちろんそんなことは“絶対にしない”。彼女は山羊に見立てられた人間ではなく、“人間”なのだ。全身の「白さ」は彼女の純真無垢の象徴ではあるが、同時に“これからどのようにでも汚される”ことを暗示してもいる。
     ブランケットは、山で、一頭のカモシカと恋に落ちる。舞台では、人形を抱きしめる演技でそれを表現する。ブランケットと人形は、箱の中に閉じ籠もって一夜を過ごすが、これはもちろんセックスの婉曲的な表現だ。彼女は白い衣装を脱ぎ捨て、黒い下着だけになる。
     そして彼女は狼と出会う。暴行と陵辱。回り舞台の壁を突き破り、彼女は遁走するが出口はない。舞台は轟音を上げ、回転はますます速まる。やがて彼女は動きを止め、その身を横たえ、いびつな姿勢のまま固まる。この救いようのない結末に「恐怖」を覚えない子どもがどれだけいることだろうか。

     イプセンが『人形の家』で女性の解放を描いたのは1879年、『風車小屋便り』の発表は1869年でちょうど10年前になる。まだ欧州でも女性の参政権は認められていないが、社会への参画が叫ばれていた頃であり、ドーデのこの寓話は、旧弊な“男に伍することを企む生意気な女”をたしなめたもの、と見なすこともできるだろう。実際に「自由」の獲得のために血を流した女性たちは数知れない。
     しかし、スガンさんが六匹の山羊を飼い、その全てが失われ、七匹目の山羊もまた同じ運命を辿っても、恐らく八匹目の山羊は必ず現れるのだ。ブランケットは、死しても何一つ後悔はしていない。最後に黒い衣装を身に纏った彼女は、もはや何も知らなかった頃のいたいけな少女ではない。命を賭してもなお、求める価値があるもの、それが「自由」なのだと知っているのだ。
     死の恐怖に襲われながらもブランケットが戦った「狼」の正体はいったい何だったのか。彼女が壁に描いた「もう?」のあとに続く言葉は何か。観客の子供たちがその意味に思い至る時が来た時、彼ら彼女らには新しい「生」が見えてくるはずである。

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