実演鑑賞
満足度★★★★
ニールサイモンの1985年の作・芝居の中身は1943年の新兵暮らしの兵隊六人の青春もの。ビロキシーは新兵訓練所のある街。若者の主役は作家志望の若者で、生き残ること、作家になること、童貞を失うことが人生の希望である。1幕は新兵訓練の中で若者たちがお互いを知っていく兵営のなか、2幕は童貞喪失は、小島聖の夫がありながらのバイト売笑婦にあっさり夢は果たされ、失望するが、カトリック信者の少女に出会い恋をする、という回想録。
これだけ書けば十分のような筋立てとドラマの進行で、おなじみの挿話ばかりだ。古いなぁと苦笑しながらも見てしまう理由は二つ。新兵たちが一人ひとりきちんと類型的ながら書き込まれ、演じられている(演出・小山ゆうな。小細工していないところが良い)のと、不器用な少女役の岡本夏美が最近は見ることがなくなった恐る恐る女を試す年齢を上手く演じていたことだ。男優は一人一人を粒立てることを優先していて、こういうところにも時代が現われる。二つ目、やはり40年という年月は作品を彩る大きな役割を果たすと言うことだ。舞台とされた年から40年たって書かれた戯曲。それから40年たって東京で演じられた東宝公演。二つの時代を超えていて、演じる人たちも、見る人たちも、このささやかな青春劇には歴史を重ねて時代を見たと思う。芝居の出来よりも、その方が「演劇」の役割としては大きい。兵士役の男優たちも鬼軍曹役もジャニーズなくとも大丈夫。この中身で九割は大健闘。日本青年館のような役者たよりで愚にもつかない芝居をやって満席と言うよりずっと良い。
実演鑑賞
満足度★★★★
ニール・サイモンの自伝的戯曲。1943年、ユージン・モーリス・ジェローム(濱田龍臣)は10週間の新兵訓練でミシシッピ州のビロクシー・キャンプへ。そこで寝食を共にした5人の仲間と、新兵を徹底的にしごいて規律と服従をたたきこむ鬼軍曹トゥーミ―との出会いと別れを描く。娼婦のロウィーナ(小島聖)との童貞喪失と、カトリック女学生のデイジー(岡本夏美)の恋もある。
なんといってもニューヨーク州出身の頑固で読書家のユダヤ人、アーノルド・エプスタインの存在が光る。最初はただ胃弱の神経質な落ちこぼれ兵なのかと思うと、次第に芯の強さ、無理を許さない合理的思考が明らかになっていく。とくに、トゥーミーのしくんだ「盗難」事件を、みずから犯してもいない盗みを告白して、一矢も二矢も報いるところはすごい。エプスタイン演じるのは宮崎秋人。宮崎は真面目な坊ちゃん刈りと眼鏡で、二枚目を隠して、これまで見たのとは全く別人。繊細で偏屈なエプスタインを好演した。エプスタインの敵役であるトゥーミー(新納慎也)も、優男がサディスティックな軍曹を演じるから、そのギャップにすごい面白みがある。そしてコミカルでなく怖い。
この二人を描くことで、サイモンの戯曲としては、最も深みがある作品かもしれない。
良いせりふがいくつもある。とくにユージンの「文字に書いたことは皆信じてしまう」という教訓は、いまのSNSの炎上、ネット社会(その走りだった佐世保の小6女子の事件)を見ると、その意味は一層深い。マクルーハンは「聴覚型社会」から「視覚型社会」への転換を指摘していたそうだ。
ほかにも「どうしてわざわざ苦労をしょい込むのか」問われて「苦労がなければ人生は朝の11時で終わる」(エプスタイン)。「君は人生へのツッコミが足りない。傍観者に過ぎない。人の言動をノートに書いているだけ。人生のどまんなかにとびこまなければ」(同)とか、理性などいらない「兵隊が敵の前に飛び出すのは、けつに銃剣を突き付けられているからだ」(トゥーミー)等。「彼女の名前を思い起こすと、小さな心臓発作を起こす。命を奪うほどではないが」という恋愛気分も。
「人間以下の異分子、へそ曲がり、落ちこぼれ云々」の、トゥーミーのエプスタインへの敬意を秘めた悪口もいい。
2時間45分(休憩20分込み)