マレビトの会『HIROSHIMAーHAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』 公演情報 マレビトの会『HIROSHIMAーHAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.5
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★

    この空間でのパフォーマンス贅沢だな
    時間がなくて最大5時間のうち、前半1時間30分ほど鑑賞。

    フランク・ロイド・ライト作品の明日館講堂(ずっと「あすかかん」だと思っていました「みょうにちかん」なのですね…無知だな私)に
    見とれつつ…12人の告白と1人のガイドのパフォーマンスを自由に
    一通り鑑賞。この空間でのパフォーマンス贅沢だな。

    #1 駒田大輔氏とガイドの武田暁さんが気になった。

  • 満足度★★

    疲労感だけが残った
    「展覧会のような演劇」というコンセプトも演劇に対する先入観やある種の壁を取っ払う試みとしては評価できる。
    「日本国憲法」のときと同じ会場で、俳優が同時多発的に演じるのも、観客が移動自由なのも同様。
    それに伴う居心地の悪さが付きまとい、開場から1時間半強観たが、繰り返される演技もあるためか、途中でめまいに似た疲れが襲ってきて、グッタリしてしまった。
    ジャンルの固定観念を取り除くボーダーレスな“パフォーミング・アート”というのは、かつて自分も仕事で企画に関わった経験があるが、なかなか理解してもらうのが難しい。

    ネタバレBOX

    個々に「ヒロシマ」「ハプチョン」について発信するなか、ひとり芝居の演技者たちが会場で交錯しながら、あるところでは会話の芝居を行い、点から線へと流動していく。最後まで残っていたら、別のことが体験できたのかもしれないが、体力・気力がもたなかった。
    受け止め方は観客個々に委ねられ、自由なのかもしれないが、メッセージをうまく感じ取ることができなかった。
    一番印象に残ったのは、劇団衛星の俳優F.ジャパン氏を至近距離で観たこと?(笑)
  • 記憶・体験、体験・記憶
    2つの都市をめぐるドキュメント。
    役者が生身で見せる。
    リアルタイムの「展示」なのに、すでに「体験」が凄い速度で「記憶」になっていく。
    観客は、それを追体験するのではなく、固定化された「記憶」ではない、流動的なものとして鑑賞するのだ。

    ネタバレBOX

    2つの都市とは「何」であったのか、を役者たちがどう知り、どう感じたのかというドキュメントでもあった。
    観客はさらにその外側にいて、役者というフィルターを通して感じていく。その前提として知識が、必要とされるのではないだろうか。
    もちろん、ここから誘発されて、後付けの知識ということもアリではないかと思う。

    HIROSHIMAに対する演出家のこだわりは、十分に感じることができる。HAPCHEONもHIROSHIMAへのこだわりである。この展示は、その「こだわり」を、もっと言えば「こだわりの源泉」を誰かに感じとってほしいということではないか。
    「HIROSHIMA」という体験はすでに記憶の中にある。記憶を辿ることで体験を知ることができる、はずである。そこへの疑問が原爆資料館における展示でふつふつと沸いたのではないだろうか。そこで、「体験」「記憶」ということにも「こだわり」が出てきたのであろう。

    つまり、「体験・記憶」への演出家の問い掛けは、「HIROSHIMA」への問い掛けでもあるはずだ。
    それへの答えを演出家自身が持ち合わせているのかどうかはわからないが、「体験・記憶」というアプローチによって、まずは「役者」たちに感じてほしかったのではないだろうか。
    「都市」という総体でとらえている演出家独自の視点からの考察は、役者たちにそれぞれの思考を与え、かつ縛る。その中で彼らは「感じる」ことを「強いられ」る。観客は、そのあがきを感じることもできる。演出家も同様にそれを見ているのだろう。

    彼らの感じたことを「発表する」ということにより(それを行う上での動機付け的意味合い)、彼ら役者自身にとっての「体験・記憶」への問い掛けになるのであろう。それが演出家の意図ではないだろうか。
    つまり、役者たちの「体験・記憶」の観客への提示とその反応が、役者自身の意識を揺らすことになるのではないのか。

    では、観客はそれらの一連の出来事、つまり役者や演出家たちの「体験・記憶」への問い掛けについて、どうとらえるのだろうか。

    観客は、演出家や役者たちとは、動機付けの部分で異なっている。
    それは観客は常に「受け身」であることだ。
    演出家や役者たちは、「自ら求める」ことにより、アプローチをしている。
    と、いうことは、展示が意図している、問い掛けが届きにくいのではないかということだ。

    また、観劇時間はおおよそ60分程度をと言われて、実際には90分会場にいた。
    しかし、その場で行われていた「展示」のすべてを鑑賞することはできなかった。半分もできなかったような気がする。なんと言うか、「遅れて公演中の劇場に入った」感じなのだ。
    そんな不満足感が残る中では、展示の持つ意味を辿ることさえもできないのではないだろうか。
    それはまた、「体験・記憶」の継承の困難さを表しているのだが、観客としては、そういう考え方よりも、満足感が足りないことのほうが勝ってしまっている。
    それは「展示」の意味(意義)としては成功なのかもしれないのだが。

    他人の体験(記憶)に対するもどかしさ、つまり、演劇というものは、実はそういうことを内在しているのだと気づかされた思いもある。だからと言って納得したわけではない。
  • 落ち葉が舞う季節の
    明日館講堂もいいよねー。夕暮れのだんだん暗くなる中、ステージにボンヤリと座っていても全然ジャマされないで済むパフォーマンスだったなあ。建物が堪能できたなあ。でも、内容はどうなんだろう。正直言って、雰囲気はいいけど、内容が物足りないって気がしてしまったなあ。なにしろ「ヒロシマ」っていったら、ハンパじゃないテーマだからなあ。

    ネタバレBOX

    勝手に2回のテラスに出たりして、冷たい空気が気持ちよかったなあ(って、私は何を観に行ったんだ!?)。

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