第十九回能尚会 公演情報 第十九回能尚会」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.0
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  • 満足度★★★

    夏の演目としては一考の余地あり
    今回は、武田尚浩と長男の武田祥照がシテ、ツレを勤める「松風」がメインディッシュ。
    既に祥照も勤めた「菊慈童」を次男の崇史が舞った。
    「能尚会」は以前は9月や12月に開いたこともあるが、最近は7月が続いている。もともと夏は観客の集中力が鈍る季節だけに重い演目は選ばないのが鉄則。この時期に大曲「松風」は観るほうもキツイ。「松風」を選ぶなら秋に開催すべきだと思った。親子で「松風」のシテ、ツレをというのが尚浩さんの悲願だったと聞くが、個人の思い入れより観客の鑑賞環境を考えていただきたかった。
    まるで国文科の授業教材のように詳しい懇切丁寧な解説書をつけてくれたのはありがたい。これは、もともと、能になじみのない学友たちのために、若いご兄弟が執筆したもの。祥照くんは小学生のときから級友宛に手書きの解説付き公演案内を出していた熱心な人だった。何より、若者がいまどきこのように美しい日本語を使って解説を書けるなんて表彰ものだ。伝統の強みと言うか、敬語にもいやみがない。見習いたいものだと思う。
    ご子息の大学受験を機にHPが長いこと未更新のまま放置されているが、この情報化時代、能楽も例外ではない。人気を集めている能楽師のHPは内容も充実している。最新情報を載せていないのは大いにマイナスだと思う。
    また、外部客向けにアンケートも実施してほしい。

    ネタバレBOX

    「菊慈童」は中国が舞台。深山の奥に1200年も生きながらえている不思議な童子の話。兄の祥照がこれを舞ったのは13歳くらいのときだったと記憶しているが、子供とは思えぬすばらしい舞だった。崇史のいまの年齢を思えば、無難な出来と言えよう。
    考えてみれば、能の2番とも、秋の演目であるのが気になった。
    狂言は「寝音曲」。主人(深田博治)に謡を所望された太郎冠者(野村万作)が面倒くさくて、いろいろ理屈をつけて断るが、是非にと請われ、「膝枕でないと声が出ない」と主人の膝を借り、寝ながら謡うが、主人が体を起こそうとすると声がかすれて出ないふりをする。そのうち調子にのって、立って普通に謡い始め、嘘がばれて逃げていく。和泉流では他家のように「ゆるされい」とか「ゆるしてくれい」でなく、「御ゆるされませ、御ゆるされませ」という引っ込みをする。加賀前田家や京都の公家に仕えた流派だからなのか、この「御ゆるされませ」の手つきの優美さは独特のもの。本来なら万作・萬斎コンビで観たいものだが、萬斎はコクーンでファウストをやっている。「能尚会」で萬斎の狂言が出た年もあった。狂言師は本来このような「能会」の仕事のほうが重要なのだが、最近の売れっ子ぶりでは望むほうが無理というものか。しばらく観ないうちに万作師もすっかりご老人になっていて驚いた。
    武田尚浩の「松風」は、私自身、待ち望んでいた演目。歌舞伎舞踊の「須磨の写絵」と同じ題材で、在原業平の兄、行平をめぐる美しい海女の姉妹、松風と村雨の恋慕がテーマ。歌舞伎のほうでは、先代幸四郎の行平、中村歌右衛門の松風、4世中村時蔵(現時蔵の父)の村雨の舞台がいまも語り草となっている。特に、時蔵の村雨の美しさといったら格別だった。男にとっては両手に花の話だが、この姉妹は嫉妬しあうこともなく、仲良く、1人の男を愛し、死んでからも幽霊になって汐汲みに現れ、松を行平に見立てて、恋慕の情を語る。
    長時間のため、地謡が途中で退出する演出もあるのだそうだ。今回、地謡はずっと舞台にいたが。
    同じ三角関係を描いた「三山」の桂子の優美さが記憶にあり、今回の尚浩の松風はさほど胸に迫ってこなかった。親子競演で役に集中できないのか、いつもの冴えが感じられなかった。舞の名手だけに、彼はやはり一人で舞う役のほうが合っている。大鼓が人間国宝の亀井忠雄で、競演は観ごたえがあったはずだが緊迫する高まりがなかったのは残念。いつか、別の機会に彼の「松風」を観たいと思う。
    今回は「白ワイン」の境地にはなれず、お茶も飲むことなく家路に着いた。能の場合、演者のコンディションがかなり影響し、名人でもコンスタントに感動の舞台をつくれるとは限らない。そこが能の面白いところでもあり、日によっては若手でも人間国宝以上の舞を舞うことも出来る芸能なのだ。

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