ペール・ギュント 公演情報 ペール・ギュント」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
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  • 残念、物語に入り込めなかった・・・
    休日を1日費やして、静岡までバスに揺られて観劇旅行。SPACの企画公演は概ねレベルが高いんだけれど、今回は正直、今ひとつでした。

  • 満足度★★★★

    「自我追求」の壮大な人生双六
    ジェットコースターのようなペールの人生を双六仕立てで見せていく宮城聡の演出が素晴らしい。「女を侮辱している」と言われてきたというラストシーンも彼なりの解釈で締めくくっている。2日がかりで上演する例もあるという長大な戯曲を約3時間にまとめてある。それでも、ペールに付いていくのは大変で、疲労は激しかった(笑)。この戯曲はイプセン自身、上演を想定せずに書いたそうなので、上演する側も観る側も「とにかく大変!」だと思いました(笑)。戯曲が描かれた時期が日本の明治維新あたりということも踏まえ、宮城はペールに近代日本の姿を重ね合わせ、国家を擬人化して描いている点が興味深い。
    本作は、SPACの春の芸術祭でも再演されるので、興味をもたれたかたはそちらでご覧になるとよいと思います。首都圏や静岡近郊のかたなら、期間中、劇場まで週末、日帰り無料送迎バスツアー(片道無料の日もありますが)もありますので。

    ネタバレBOX

    開演前から、舞台には少年のような人物が1人すわり、双六の上で戦闘機や戦車の玩具を置いて、ちょうど子供がそうするように口で擬音を発しながら戦闘機を持って遊んでいる。冒頭、明治時代の女学生のようないでたちの女性が近寄ってくると、戦闘機のおもちゃを放り投げ、「撃沈!」と叫ぶので、女性は走り去ってしまう。この人物は、昔、私などが子供のころ、男の子が端午の節句にかぶって遊んでいた紙の兜そっくりの帽子をかぶっている(兜のしころの部分が戦闘機型)。舞台背景にはこの人物が遊んでいるのと同じ巨大な地図のような双六盤がスライドで映し出されているが、やがてさいころの目を描いた碁盤状の双六盤のセットに変わる。そして、この少年のような人物が俳優による器楽演奏者たちに対して指揮者の役割も担うのだ。それはあたかもペールの人生を操るように振舞う。
    ペール・ギュントはもともとはノルウェーの民話に登場する伝説の人物だったが、イプセンによって19世紀を生きる近代人として生まれ変わった。宮城演出では、さらに近代日本国家の姿になぞらえられている。
    ペールやおっかあのオーセも日本のむかしばなしに出てくる村人のような扮装で、日本人にはなじみやすくしてある。村娘イングリの結婚披露宴の場面は、ベトナム、タイ、中国、インド、韓国などアジアのさまざまな民族衣装に似た服装の招待客たちの祝宴となる。反対するおっかあを水車小屋の屋根の上に乗っけて、招かれざる客としてこの祝宴にもぐりこむところからペールの大冒険(?)的人生が始まるのだ。ペールは狭い共同体である村を飛び出し、トロルの国の異形の王女に見初められるが、ドヴル王はペールに王女とし結婚して王座を約束するためには、一般人にはゆがんだ見え方を正しい基準として受け入れることを要求する。しかし、ペールはあくまで自分を基準として生きているので、それを拒絶して出て行く。しかし、王女はペールの子を生んだといって「大人のような赤ん坊」を突きつけ、今後、どこへ行っても一生この子が現れ付き纏うと脅かす。トロルの国王が明治の元老で外務大臣の「INOUE KAORU(井上馨)」であるのが面白い。近代日本が外交デビューした当時と重ね合わせているようだ。実業家として富を得たペールが「諸外国」の扮装をした来賓たちとの祝宴でテーブルを囲み、「世界征服」の自分の野望を語って、来賓に警戒心を抱かせるあたり、列強国と張り合って、海外侵略に手を染め、それを快く思わない列強国との関係を暗示している。ペールを魅惑する異国の女性、アニトラは強欲でペールに貢がせるだけ貢がせて見捨てる。アニトラが中国風の衣装を身に着けているのが意味深(中国への多大な円借款、技術支援、企業の設備投資を行ってきた未来の日本?笑)。ペールは航海中難破して夢破れてしまう。強烈な自我追求の人生を送ってきたペールは、地獄への入門を悪魔に乞い願うが、悪魔は地獄に行けるのは「昼も夜も自分であり続けた者だけだ」とペールを門前払いにする。
    ひたすら、自分であり続けたはずのペールが実は「真の自我」を手に入れることが叶わなかったとは何という皮肉。老いぼれ、疲れ果てたペールを迎えるのは原作では理想的な妻、ソルヴェールなのだが、宮城演出では冒頭、双六に興じていた人物。それは神なのか、ペールにみどりごであるイエス・キリストのようなワンピース状の白い聖衣を着せ、双六の「振り出しに戻る」部分に立たせるところで物語は終わる。「強烈な自我」を追求して生き続けたペールの人生も、所詮、神の手によって動かされていたという皮肉なのだろうか。原作は母親のオーセから始まり、ソルヴェールで終わるため、観客にはペールは母性愛に支えられてやりたい放題生きる人物ととらえられ、それが戯曲発表当時さえ、「男に都合よく描かれている」と批判されたようだ。
    宮城演出は寛容な女性によって救われるという男の理想的なラストの部分を変えることで、この批判への解決策を試みている。
    背景の双六盤に穴があき、舞台上の同じ位置にも切り穴があって、人物が出入りするところが面白かった。また、打楽器を中心とした器楽演奏も印象的だった。

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