新作オペラ『地獄変』 公演情報 新作オペラ『地獄変』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     芥川の傑作を独自解釈と巧みなピアノ演奏、グレードの高い歌唱で表現。ベシミル! 本日(土)14時、明日14時の2回公演を残すのみ。昨日は満席であった。(追記2022.10.5)

    ネタバレBOX

     芥川龍之介の原作をオペラ化し上演した今作、無論原作にはなく脚本化した入市翔氏が創作した文言がある。オペラとしての上演である以上、音曲に合わせ作品の本質を活かしつつ調整されている箇所があるのは当然だ。演出を安倍公房スタジオ出身で現在は主としてイタリアで活躍する井田邦明氏が担当し、イスラエルの鬼才・ロネン・シャピロ氏が作曲・演奏を担当した。因みに今回使われているピアノは通常のクラシックピアノを特別に調律し洋の東西及び中東の音階・音域迄表現しようと整えられたものでマルチカルチャーピアノと呼ばれるが、イラン・パぺも指摘する通りイスラエルのパレスチナ人ジェノサイドに対して平和を願いパレスチナ人と共に活動してもいるシャピラ氏自身が異文化との対話と協働とを目指す姿勢の表れと見ることができる。ピアノでシンセサイザーでは表すことのできないアラビアのマカーム(旋法の体系やシステムを意味する言葉)や日本のペンタトニック(日本の五音階で作られた音階のこと)を組み合わせた微分音音階を調律しているのが特徴だ。
     舞台上はホリゾント中央やや上方に表面に箔を張った大きな円形のオブジェ。出捌けはホリゾントの下手、上手の開口部。板中央に大小二段重ねの平台を置き上段には門が構えられている。尚平台、門共に表面は箔で覆われ大殿の豪壮な御殿にも、また燃え上がる牛車にもなる。更に手前の客席側には黒い大きな円形の表面に魂の形を薄く刷いたようなシートを床に置く。
     芥川の原作では、大殿に長年仕えた女官が地の文で事の成り行きを説明しており、その語りは、絵師・良秀の天才アーティストとしての表現への執着とアートがアーティストに対して要求するもの・こととのギャップを埋める為のありとあらゆる努力と犠牲、精神性の高さ故の非凡や一般人から見た奇行や言動が、俗人が真のアーティストに対抗する為に為す曲解や蔑み、不評等々に結実する様を曖昧な表現で示す。然し深読みすれば芥川による本音、実は単に事大主義に同調せぬ者への同調圧力でしかない極めて非主体的な日本人の特性がやんわりと表現されているだけの痛烈なアイロニーに他なるまい。一方、事大主義者が奉仕する者については、その非を非ならぬもの・ことへと曖昧化、転嫁することで権力者がその権力を己の立ち位置の優位性によって如何様にも行使し得、而もその倫理的・論理的責任をも問われること無く瞞着が露呈せぬよう糊塗している事も明らかだ。
     つまり今上演作では、日本人の特性を西欧的知性で分析した上で芥川が真に望んだであろうことを的確に表現して見せた。それは良秀が、自分は見た物でなければ描けないので牛車を燃やして欲しいと願う場面の台詞で「できれば位の高い女を(牛車に載せて)欲しい」と願うのに対し、大殿の応えは「気位の高い女を云々」であり、剰え傍の者共と薄ら笑いを交わしながら良秀に惨たらしく肉を焼き骨を焦がして死にゆく娘の有様を説き聞かせる。そして簾を下ろしていた牛車に火を掛ける直前、松明を掲げさせ肩をゆすり薄ら笑いつつ、燃え盛る火の車となる函の中に鉄の戒めを施され生きたまま焼かれる姿を見せた者こそ、類稀な子煩悩の父の目前で焼殺される最愛の娘であった! 而も大殿の台詞には、原作と似てはいるが異なる以下のような意味の台詞があった。「良秀は作品を描く為には弟子たちを怪鳥に襲わせ、鎖で縛め畜生にも劣る所業、これらの行いに対する懲罰として愛娘を生贄に捧げさせる」という社会的正義を装った政治的発言だが真実だろうか? 実は単に寵愛を位の低い良秀の娘に拒まれ意趣返しに己のサディズムを満足させようと舌なめずりし乍ら娘のみならず父・良秀をも地獄に突き落とす残虐非道な宴を催したのではないか? 然し良秀はこの艱難をそのアーティストとしての良心と作品を完成させることに賭けるエネルギーの凄まじさで屈服させた。芸術即ち精神の優位を示し俗物が構成している事大主義世間やヒエラルキーしか生み出すことの出来ぬ不完全でトータルバランスを欠いた俗世及び事大主義者の非人間的残虐性や奴隷根性、非主体性故の無責任と非合理性を残酷な迄に示した。これら俗世の住人に対し、良秀の娘に救われた恩に報い、燃え滾る牛車に飛び込んで娘の肩を抱くように焼け死んだ猿の行為は実に対照的ではないか?

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