-改訂版-汚れなき悪戯 公演情報 -改訂版-汚れなき悪戯」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
1-2件 / 2件中
  • 満足度★★★★★

    夢中で観劇! さすが桟敷童子!
    とにかくうまく構成されているな、と感心してしまう。
    いくつかの「?」がうまく話をつなぎ、見事に独自の世界を描き出す。
    役者たちの温度の高さもいい。

    夢中で観劇した。さすが桟敷童子。

    ネタバレBOX

    映画の『汚れなき悪戯』は、私も劇中の少年たちと同様の小学生のときに観たのだが、捨て子で孤児になってしまったマルセリーノが、親切をした結果、天国に召されてしまうという、あまりにも理不尽な内容に涙し、憤りを感じたのを今でも覚えている。キリストに「マルセリーノ・パンと葡萄酒」なんて名前を付けてもらっても、うれしくないのだ。
    「奇跡」を起こしてくれるのならば、天国にいる母親を生き返らせるべきだろうと思った。

    しかし、劇中の山崎少年たちは、そうではなかった。映画に出てくる大男(キリスト)に願い事を叶えてもらいたいと思うのだ。
    今でも、映画音楽を聞いたり、一場面を思い出しても涙しそうになる私は、「えっ、そっち?」「それはおかしいよ!」と思った。しかし、彼らが本当に惹かれていたのは、実はさらに違うものだった。

    映画では、キリスト像が置かれている屋根裏部屋は、入ってはいけない場所であった。その禁を冒し、マルセリーノは入ってしまう。
    舞台では、マルセリーノと名付けた、少年たちがつくろうとしているモノは、扉の向こうにあり、山崎少年しか入れない。他の者は見ることすらできない。

    山崎少年は、映画の向こう、扉の向こうに何を見たのだろうか。
    なぜ、マルセリーノをつくろうとしたのだろうか。

    それは、「死」だったのではないだろうか。映画のマルセリーノが扉の向こうに行き、「死」によって希望を叶えてもらったように。

    山崎少年は意識していなかったと思うのだが、死に魅入られてしまったのだ。
    そして、その「死」の磁場のようなものに引き寄せられて、戦争が終わったのに、戦争の爆薬で大勢が死んでしまった、ひまわりが咲く地下倉庫に行き着いたのだ。
    ほかの少年たちも、それにうすうす感づいていたのかもしれない。
    少年たちにとって、「死」とは、身近でないだけに魅力的だったりするからだ。

    だから、マルセリーノ(少年たちがつくっているモノ)は、とても危険な方法、つまり、電車に10円玉を潰させた板でつくられるわけだ。轢かれてしまえば、人なんかはひとたまりもない電車に、10円玉を轢かせてつくるのは、刺激的であるはずだ。死と隣り合わせにある刺激。

    山崎少年は、マルセリーノについて、直感的によくないものであると気がつくのだろう。それを確かめるために彼のブリキの飛行船を欲しがった丸尾少年に、交換条件を持ちかける。
    そして、丸尾少年は死んでしまう。山崎少年は、マルセリーノの真実、自分が魅入られていたモノに気がついてしまい、恐ろしくなり、マルセリーノを妹とともに葬ろうとする。

    しかし、山崎少年は、大人になっても、マルセリーノの「死」と丸尾少年の「死」の呪縛から抜け出せず、マナルセリーノをつくり続けるのだが(周囲からはノイローゼと言われてしまう)、やはり死んでしまう。

    かつて山崎少年と一緒にマルセリーノをつくっていた重田も、会社を辞めさせられてから、山崎のマルセリーノづくりを受け継ぐ形でつくり続ける。
    かれも「死」の磁場にとらえられてしまったのだろう。
    山崎も、妹がときどき見に来るぐらいに、孤独だったのだが、それと同様な状況に重田もいたのだろう。

    かつてマルセリーノをつくった仲間たちは、普通の生活の中で満足しているので、マルセリーノは必要ではない。
    何か「負」の要素を持つ、少年や主婦、女性たちが、重田とマルセリーノの発する匂いに惹かれてマルセリーノづくりに加わる。
    しかし、彼らには「居場所」と「仲間」が必要なだけで、重田のように切羽詰まったところまでは行ってなかったのだ。

    死に魅せられた重田は、闇の中に飲み込まれていく。

    いないはずの丸尾の妹は一体誰(何)だったのだろうか。何を求めてやってきたのだろうか。山崎、重田のことを考えると怖い存在だ。

    切ない話である。死に魅入られてしまった者を救うことはできなかったのだろうか。

    「死」が「奇跡」であり、「幸福」なことであるという映画のラストとは違う、「死」から遠ざけることができるようなラストこそ、今、必要だったのではないかと思う。
    今回の舞台では、その点が唯一、残念である。

    山崎と丸尾の、それぞれの妹役が熱演であった。目がよかった。
    少年たちがつくっていたマルセリーノの不気味さもいい。

    セットの感じもいいのだが、10円玉を磨くときのギミックも素晴らしい。
    そして、桟敷童子らしい、オリジナルの歌がいい。

    それにしても、桟敷童子は、ひまわり好きだなぁ。
  • 満足度★★★★★

    1955年スペイン映画を題材に
    「汚れなき悪戯」という映画をご存知だろうか?世界名作映画シリーズで観た事があるような記憶はあったが、今回の芝居を観てふと「観たな・・。」と記憶を甦らせる。
    物語は殆ど覚えていないけれど、導入音楽やときどきの色あせた情景を覚えていて、懐かしくも切ない感情が溢れてきたからだ。

    以下はネタばれBOXにて。。


    ネタバレBOX

    相変わらずオープニングが素晴らしい。
    マルセリーノの歌と共に郷愁を感じさせるような音楽。
    その音楽だけで、二次元の世界を彷徨う孤独な異邦人が、丘陵から眺める土色の風景や湿った銅のような臭いを嗅ぐさまや、赤茶けて錆びた鉄橋を見つめる情景を思ってしまう。

    映画での孤児マルセリーノは孤独だったが空想の世界での友達・マヌエルを作り彼と空想の世界でおしゃべりをすることで、マルセリーノの毎日はとても楽しくなった。そんなある日、屋根裏でマルセリーノはキリスト像の大男を見つける。彼の元に通ってるうちにマルセリーノは友情を感じるようになり、その少年の感情を読み取った大男は少年に願い事を尋ねた。マルセリーノは考えて「天国のお母さんに会いたい。」と答えたところ、十字架の大男はその願いを叶えてマルセリーノを永遠の眠りにつかせた、という筋。

    今回の芝居は、子供たちが10円玉をレールの上に置いて列車に轢かせて、ぺちゃんこにし、それを磨いてピカピカになった銅で、映画の中のマルセリーノが願いを懸けた大男を作ろうという遊びから始まったちょっとした悪戯だった。その大男をマルセリーノと呼んで制作に取り組む日々だったが、ある日、山崎は丸尾が欲しがっていた山崎のブリキの水上飛行機と引き換えに、大きなボルトをレールの上に置いて車輪にはじき返されないように見張るように丸尾に命じる。丸尾が乗せたボルトによって大きな列車事故に繋がってしまう。二人は考えもしなかった大事故に後悔と共に苦悩し、丸尾はボルトを探しながら次の日、ひまわり畑で死体となって発見される。

    そんな20年前の少年時代の「汚れなき悪戯」を山崎と丸尾が死んだ今でも、その思いを引き取ってマルセリーノの制作を続けていた重田を軸に世代を超えて旧弾薬庫で起こった物語。

    重田が狂気じみてもマルセリーノに拘る理由や二つのマルセリーノの謎が解かれていくうちにひじょうに良く練られた脚本だと感服します。初代マルセリーノとブリキの水上飛行機に似せた翼のマルセリーノ。
    更に物語に美しく寄り添うように吐かれるセリフの数々。その魅惑的なセリフによって観客に想像力を働かせるように呼び水をたっぷり与えながら、舞台セットでも魅せる。

    弾薬庫の裏山での爆発事故によって引き起こされた人身事故。
    爆発と共に大きな穴から10メートルの光の爆風が出たかと思うと、サーッと引っ込むさまは、竜の舌のような情景を多い浮かばせ、重田の狂気と重なり合い、山崎が空想と妄想の世界でしか生きられなかったように、重田もまた現実の世界で生きられない心の闇を持つ。その闇とは「汚れなき悪戯」だったはずなのに人の死によって、思わぬ大きな悪戯になってしまったかつての少年たちの心の動揺だった。

    手塚治虫の「火の鳥」という漫画があったよね?
    永遠の命を求める人間の悲しさと愚かさを描いた作品だった。
    あの中に年老いて死の床に伏しながらもなお、最後の望みを託して不死の薬・・・火の鳥を捕らえさせようとした王さまの話があったけれど、今回の物語も永遠の遊びと願いを求める人間の悲しさと愚かさがあり、そこに狂気や傲慢さや冷酷さ、人間味、笑いが加味し、独特の桟敷童子の世界観が広がっていた。

    芝居を観終わった後に感じる、みぞおちに苦味が張り付いてるような感覚。
    テーマを不意に目の前に突きつけられて、しかし、そのテーマは懐かしさの甘みに包み込まれて目の前に出されます。

    そう、トロッコから差し出された白い手のひらに乗った飴玉のように・・。

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