フィフティ・フィフティ 公演情報 フィフティ・フィフティ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.0
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  • 満足度★★

    何もかもが中途半端な作品
    タカラヅカの作品を論じると、出来・不出来をはじめすべてが出演者(多くは主演スター)のせいにされてしまうところがある。それは宝塚歌劇が「トップのスター性を強く前面に押し出す」ということを至上主義としている形態ゆえのことなのだけれども、ここでは純粋に演出面ついてのみ述べてみたいと思う。以下、ネタバレで。

    ネタバレBOX

    石田昌也が明らかに失速している。彼の作風は(好き嫌いはあっても)とにかくスピード感と、「現代」性が売りだったのではないのか。約20年前、疾風の如く登場し、「大時代的なタカラヅカの作風」に面と向かって異論を唱え、インカム形マイクをいち早く、見せる形で導入したり、小劇場演劇ばりのテンポと、タカラヅカでは禁制とされている下ネタや今風のネタをあえて確信犯的にちりばめ、風を巻き起こしたのではないのか。それは宝塚歌劇の中では主流にはなり得ないが、タカラヅカというレトロの殿堂に外界の空気を(それに対する拒否反応も当然)入れるゲリラ的役割を果たしたと、私は思っている。

    彼は2009年現在の「現代」について行けていないのかもしれない。台詞の中でブログを「トイレの落書きの延長」と斬って捨て、パソコンその他の通信機器(にFAXをいれるあたりがもうすでに時代に乗り遅れている感)をもちながら引きこもっている登場人物に「世界中が知ることができる情報は自分が知らなくてもいい」とこれまた斬って捨てる(10年前に自分が「古い」と斬って捨てた同じ刃だ)。

    かといって、10年前の「現代性」は10年ばかりで円熟するわけがなく、厚みがない。スピード感と現代性を失ったところに残るのは、薄っぺらさだけだ。

    しかし、そういうことを感じさせないような作り方もあったはずだ。生の舞台には生の力があり、何かで目をひけばぐちゃぐちゃとした現実的なことや理屈が入りこむ隙ない空間を作り出すことができる。しかし、それもない。

    たとえばストーリー展開で一番気になった点は、「姉(実は母)と恋人になりそうな男性のいい雰囲気に『自分は邪魔者』と思いこんだ少女が家出する。嵐の中、その救出した少女(寝ているが)をはさんで、別の主演カップルが愛の告白と、虐待を受けた過去のことを話し合う」という設定。少女がずっと寝てりゃあまだいいけど、時々起きるのは何なのだろう。普通、少女のことを考えていたらこういう行動はしないだろう。せめて場を変えるとか、少女に話を聞かせないようにするだろう。あまりにも展開が雑だ。こういう雑さが、脇のキャラクターや「虐待」というモチーフを、ただのツールにおとしめてしまう。

    あと、これは完全なダブルトップ作品だ。華形ひかると真野すがたという若手路線男役を、前者はインチキ不動産ブローカー、後者は結婚詐欺まがいのジゴロという役柄にあてている。孤児院で育った二人がど田舎の過疎の村で1ヶ月暮らし、人間性を得るという大筋なのだが、インチキ不動産ブローカーが幼馴染みとカップル成立するのに、ジゴロの方の恋は空中分解してしまう。この恋の描き方も中途半端この上ない。愛している女に子どもがいたということで、恋は冷めるのか、なんなのか。男は結果として身を引く形になり神職を志し、悟りの境地に突入してしまうし、女は一目惚れして強く惹かれたその男よりも、子どもの父を選んでしまう。じゃあ何で別れた?別れてからの10年間の歴史は何だ?子どもを産んだ女だって恋をするという当たり前のことを知らないのか、石田昌也。

    タカラヅカだ。恋愛至上主義がスタンダードだろう。どんなに話が不整合でも、恋が成就すれば(私も含め)客の大半はうっとりするのだ。うっとりしに来ているのだ。子どもを産んだ女も、更年期の女も、いや80歳になっても90歳になっても、いつだって私は少女に戻ってうっとりできるぞ。そのタカラヅカセオリー否定するならするで、新しいものを持ってこい、といいたい。「母」に埋没させてどうする。それはあなたの嫌う「タカラヅカセオリー」より数段大時代的でレトロなのに。

    タカラヅカを見る楽しみのひとつは装置だ。バウホールは小劇場ながらレビュー専用の自前劇場なので、よその舞台ではできないような工夫ができる。今回はそれもなかった。カキワリとパネル式で構成されていた。振付と歌も、目をひく(耳をひく)ものはなかった。衣裳はもともと現代劇では奇抜なもの、豪華なものは使いにくいだろう。

    タカラヅカ的なところで言えばトップスターにこれでもかと光を当ててスター性を強調するのも目の引き方のひとつだが、今回はダブルトップ作品ということで、その手も使えない。しかしそれは企画の段階でわかっていること。ならば他で工夫するしかないだろう。

    いみじくも「フィフティ・フィフティ」(五分五分)というタイトルが、この作品の中途半端な作りをそのまま表しているようで、皮肉な印象をうけた。

    以上は冒頭に述べたとおり、すべて演出(スタッフ)面への感想。私が見たのは初日開けて2回目の公演なので、千秋楽までに出演者の頑張りと熱気でもっともっとこなれたものになっていくはずだと思う。

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