tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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パレードを待ちながら

パレードを待ちながら

劇団未来

こまばアゴラ劇場(東京都)

2024/05/03 (金) ~ 2024/05/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

題名をしばしば目にする作品だけあって優れた戯曲だった。その作品性を十分に体現させた舞台だったとも言える。
第二次大戦中のカナダが舞台の女性のみの芝居。男は出征しているか、語られるだけ(時にエアに向かって恨みをぶつける場面も)。
五人の女性がどういうコミュニティなのかは不明だが、空襲時に備えた訓練をやっているので地縁による集団と思しい。
劇団の成り立ちは60周年という歴史から推して「運動の時代」に澎湃と起こった地域劇団の一つと推察していたが、女優陣は最初一地域劇団な気配が過ぎったのも束の間、あれと言う間に飲み込まれた。
再々演というだけあって演技の自立した女優たち。心情の流れが自然、ゆえに企まない緻密さが清新さの中に生まれている。
舞台美術が優れている。象徴的、機能的で、(これが良き舞台にはあるものだが)目に美しい。作品の要諦を捉えた的確な演出が施されたものと思う。(戯曲に書かれていない工夫と思われる箇所は随所にあった。)
カーテンコールでは一人ずつ発言し、程よくフレンドリーで蛇足にならず「50年振りの東京公演」への意気込みと歓びが素直に伝わって来て好感であった。

ネタバレBOX

戦争が人々の生活にもたらす軋轢は、国情の違いはあれど、日本におけるそれと変わりない。
戯曲の秀逸な描写は、リーダー的存在の女性が「非常時である事」にむしろ終着している様子である。
彼女の夫はラジオ局勤めで出征を免除されていて、その事を揶揄もされるが、都市部での空襲(カナダではなくロンドンの事を指しているのかも)の局面に至って「非常事態」と彼女は考え、自らの使命として(夫の兵役免除に後ろ指さされないため、とは後に彼女が浮気夫に訴えた証言)厳しく訓練を仕切るが、不得意な女性が失敗するたびにもう一度とやり直させる。付き合わされてうんざりした女性は、不得意な女性にでなく仕切るリーダーに「いい加減にしろ」「お前は悪魔の使いだ」と彼女を罵る。こんな田舎が空襲に見舞われる事などあるもんかと言う。(圧力の強い日本では、不満は「できない人間」に向かうだろう所が違って、面白い。)「悪魔の使い」とは芝居を観ながら聞くと実に穿った台詞で、殆ど起こりもしない「不幸」を現前させたいかのような彼女に対する、的確な罵り言葉だ。そして彼女はヨーロッパ戦線でドイツが降伏した戦勝の報に皆が感極まって喜ぶのに対して、リーダーの女性は「まだ日本との戦争は続いているのよ」と訴える。理屈としては彼女は正しいのだが、舞台上では喜ぶ人たちが極めて正常で、リーダーが病的に見える。その裏付けを探すなら・・彼女はドイツが白旗を挙げた事より、戦争という事態を望んでいた、という事である。(今の日本に置き換えれば、似たような心理はこの苦境の中で散見される。事実彼女は不幸であったから、戦時下という環境を愛したのだ。)
全て紹介しないが、他の女性たちそれぞれの事情も描かれる。最後は一人が病死する。その墓参りの帰りに、登場人物の一人、ドイツ系のカナダ人女性とすれ違い、一人と抱擁を交わす。彼女はナチスとの関係を疑われた父の墓を訪れ、父は全く無実であったが抗弁の術なく力なく死んだ事実が語られる。
一人の夫は出征し孤独に暮らす中で夫の顔が分からなくなる。一人の息子は世間知らずにも能天気に兵役を志願する。出征中の女性は職場で声を掛けられたジムという男性に惹かれるも、夫の噂を聞く事で夫への愛を思い出す。・・女性たち自身と女性によって語られる男たちによって当時のカナダ社会の輪郭がほの見える。被害と加害の熾烈だった日本や他の国に比べれば、強い反戦戯曲となっていないが、戦争の無い生活との地続きの「戦争」の日常を描く事で逆に戦争という「異物」が意識される戯曲である。
SEXY女優事変ー人妻死闘篇ー

SEXY女優事変ー人妻死闘篇ー

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2024/04/24 (水) ~ 2024/04/30 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

シリーズ化となっている「SEXY女優事変」第三弾(第一、二弾は未見)。脚本の名調子に加え、やはり楽曲・歌、そして振り付けが良い。劇にガップリ四つに組んで支えている印象。
客席はやや少なめであったが会場はノリの良い客で大盛り上がりである。望月六郎氏の得意分野でもあるのだろう、AV女優の世界を水を得た魚のように縦横に描き、遊びや客いじりを含めた実に多彩な場面展開に息つく暇も無い(10分休憩はある)。その密度とクオリティは私の見始めた頃に比しても上がっているのではないか。
若く背伸びがちだった女優も成長し、古手の石井、小檜山、座長丸山とタメを張れる女優たちも割拠といった様相で嬉しい限り。既に第四弾が予定されているとの事で、自分的には必見である。

ネタバレBOX

会場にはアニメチックな特徴的な声の女性が、舞台上の出来事や台詞に逐一反応して声を出し、他からも「丸山!」等と歌舞伎の大向うみたく声が上がる。これを許容する空気は地下アイドルのライブ(行った事はないが)のノリに近そうである。実際主にスポットが当たる女優ら(悩ましくも果敢に生きるメインとなる約3名、彼女らに喰らいつく役たち、頑張ってシナを作る若手たち)がその役柄を凝縮した歌と踊りは、売れて何ぼのSEXY女優と舞台で演じる彼女らを重ねる事を可能とし、ありがちなパターンではあるが「上がる」瞬間。アンサンブルの成立は、そうした個が絡み合い、人生模様を、人の世を彩る俯瞰の眼差しも与える。楽曲と振付の妙は、俗な印象とは裏腹に、何気に高度である。
私的には作品性とパフォーマンスを一応区分けをして鑑賞したいと思っているが、性を描く作家が時として我々の意識の奥から呼び起こす、人生の根幹にある性(この舞台では女性性)、性愛が歌・踊りの表現の中心であり、突き詰めれば日活ロマンポルノだ、と言っても誤りではない(かも知れない)。

一点、終盤近くに舞台上に倒れ込んだ多くの人たちを指して「ここはガザか」という台詞が差し挟まれる。一瞬驚き、どう繋げるのか?・・と見守ったが、特に深追いが無かった(前観た舞台でもそんな事があったな)。望月氏の想念の中では破滅的光景として何か重なるものがあるのかも知れないが、脚本上の必然性はない。作家が今この時「ガザ」に言及しない事はあり得ない・・と考えた結果なら私は大いに共感する。能うならば、劇の中にしっかり位置付けてドラマを描いてほしい(作風からして中々そうはならないだろうが・・)。
第十七捕虜収容所

第十七捕虜収容所

日本の劇団

シアターブラッツ(東京都)

2024/04/25 (木) ~ 2024/04/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

映画では娯楽性の高い名作だが、脱走物の古典の魅力を余す事なく舞台化した。痛快、天晴れ。
小劇場劇団の選りすぐりの俳優(男優)を集めて一つの舞台を創る意外に無かった企画が、どの程度の舞台成果を結ぶのだろう・・と半信半疑で観に行ったが、俳優力というものはやはりあるな・・。(そこが試される演目でもあったか)

随分若い頃にTV(昔は深夜にも様々映画をやってた)かレンタルで観てハマった記憶があってもう一度借りて観直して「やはり面白かった」(大脱走でなくこっちが)と思った記憶だけがあり、後は殆ど内容を覚えていなかったが徐々に思い出して行き、裏切り者を割り出す瞬間を心待ちにしている自分がいる。
その、仲間の命を左右する局面で、仲間からの疑惑の視線を掻い潜ってスパイを割り出す勝負に出る場面、ここまで完璧に構築されてるってぇと文句の付けようがない。比較的自由さか許された環境が事実に基づくものかは分からないが、同じ部屋の捕虜たちの脇役たち(ある意味全員が脇役とも言えるが)の群像が、こうしたドラマの要であったりするが、色付けは明瞭、実に好演であった。

ネタバレBOX

脱走物ではフランス映画の「穴」が秀作。
デカローグ1~4

デカローグ1~4

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/04/13 (土) ~ 2024/05/06 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

クシシュトフ・キェシロフスキ監督と言えば、映画好きであった昔2本ほど観た記憶があり、それがTVシリーズ「デカローグ」から映画化された2本(「殺人に関する短いフィルム」「愛に関する短いフィルム」)に当たったのだが、元がTV用作品だと知ったのは後の事で、いつかTV版の全作が見れたらな~、という思いが脳の奥底に残っていた。
今回の新国立主催の公演は(にしては)中々の盛況ぶりな印象だが、映画ファンの動員という事もあるだろうか。

Aプログラム(1話・3話)を観た。
子役が出演する。見たところ小学高学年。特に1話では主要人物3名の一人の役を担い、台詞も多く、父子家庭(母親とは死別か別居か不明)の健気だが繊細な、しかし自分の考えや疑問を中心に存在し得ている、うまく言えないがある特徴を備えた役柄。父親は間違いなく彼の成長を大事に、不要な作為で相手の精神を歪めないよう、自分も自然で正直な、それゆえ世界を肯定する前向きな存在であろうとするような、そんな姿を想像させるすくすくと育った子どものキャラが浮かぶ。
つまりドラマが想定した父子関係を成立させる役のキャラが鍵に思われる。その点でこの低年齢の俳優は、「稀に見る天分」の子役ではない事は全く良いのだが、キャラがフィットしない感が残った。指定された動きをこなし、台詞を出す範疇に止まり、心を動かす領域には到達できなかった。と言ってもそれは恐らく劇作りで難度の高い作業で、小川絵梨子演出はこの最大のネックをどれほど意識しただろうか、と疑問が過ぎった。勿論大意を伝える役割は果していたけれど。

第一話は父子と、父の姉(=息子の伯母)が主な登場人物。学者の父は、パソコンの計算式を活用する技量を体得した小学生の息子と、プログラムの話題で日々のコミュニケーションをかわしている(パソコンに打ち込まれる文字・記号は、縦に長い「団地」の装置の上部の壁面に映し出されるが、ポーランド語らしい)。
この所息子は「死」についての質問を父によくする。なぜと聞けば、近々建つ教会の敷地の前に、犬が死んでいたという。「死とは何か」の質問に対し、父は分子レベルの話をする。死によって人間は「消える」だけだという。
「今日は伯母さんが夕食を作ってくれるからな」と出かける父。伯母の興味に答えて息子はパソコンを立上げ、打ち込んだ指示算式で家内の電化製品を動かし、玄関の鍵を解除し、風呂の湯を沸かす。感心する伯母。父は遅く帰って来る。伯母は甥のために教会に通わせたいと願い、弟にも勧めるが、無神論を貫く科学者である弟は難色を示す。父はコロンの匂いをさせ、姉に指摘される。(姉はこれを厳しくは咎めないので、妻はいないと思われる。)
不思議な場面がある。ある夜、子どもが得意で毎日プログラムを作っているパソコンの電源を消したにも関わらず、点いてしまう。もう一つ伏線らしい事が起きるが、その後、ある日の夕方学校帰りに事故が起きる。サイレンが響きわたり、近所の大人が「子供二人が池に落ちた」と告げに来る。息子は池の氷の厚さを計算できる。そういう間違いは犯さない。だから息子ではない、と推量するも父は居ても立っても居られず駆けつける。救助隊に引き出されるのを凝視するもう一人の近所の母親が、絶望の声を上げる。息子とつるんでいた級友を見つけ、姉が声を掛ける。「スケートに行くと言っていた」と言う。そして父も現実を知り、崩れ落ちる。家に戻った父は、再び「勝手に」立ち上がったパソコン画面に映った「I am resdy」を見つめ、エンターを押す。再び「I am ready」と出る。何度もエンターキーを押すが他に何も起きない。普請中の教会の壁に蹴りを入れる。まるで無神論である自分をあざ笑った相手に抗議するように。
ポイントは、上述した「不思議」で、最初私は息子が不可思議の領域に触れつつある事を示唆するものかと考え、池の氷の厚さは十分だったのに息子に備わった別の力が氷を貫いた、とも想像したが、恐らくはパソコンが息子に嘘の解を教えた、というのが作家の意図だろう。
旧約聖書にはアブラハムが高齢にして漸く授かった一人息子イサクを、生け贄に捧げるよう神が命じるという有名なエピソードがあるが、旧約の神は理不尽な神、人間を「試す」神だ。しかし現代において、人間が神を裏切るテーマは数あれど、神がかくもあからさまに人を試す物語は寡聞。息子を死なせたのは神ではなく、「科学への過信」と言い換える事も可能だが、このドラマは事故の背後に「神」を読み取らせる。
以上がエピソードⅠ。Ⅲはネタバレに改めて。

ネタバレBOX

クリスマスイブの夜。車を降り、ホッホー、サンタが来たぞ~と赤い服と白い髭の出で立ちで子供たちにプレゼントを渡す彼は、父親である。やれやれ、とこうして家族水入らずでの時間を過ごすのは久々な風。もう寝なさい、プレゼントはツリーの下に。明日開けるのよ、と母。ふいに淡泊になりそうになる妻に、夫は心を傾け、買ってきたワインとグラス二つをテーブルに置く。揺らいで来た愛を今夜は互いに確認する機会として与えられた・・そんな空気が流れるが、突如ベルの音で破られる。
男が出ると、かつて付き合いのあったらしい女。外へ出て「何しに来た!」と詰め寄ると、彼女の夫が消えた、と言う。男が停めた車はタクシーだったらしく、商売道具が盗まれたと妻に告げ、探しに行くと言い置いて外へ出る(妻が出てきたらバレるので動かしておく、と女が言い、男がキーを渡す周到なやり取り)。あくまで友人を心配して義理を果たす男の様子であったが、次第に二人の「かつての関係」が語られる。救急搬送された男は無いかと病院を訪ねたり、駅方面へ出て彼女の夫の車を見つけたり、一旦女の部屋に戻ったりしながら・・。生活に倦んだ男は女を本気で愛した。だがある夜二人が居た部屋に女の夫が現われ、女に「どっちを取るか決めろ」と言われ、女は男に目もくれず夫の元へ走った。女は自分の夫に場所を教えたのは男だ、関係を終わらせたかったからだ・・と主張する。男は懸命に否定する。冷たい目で見つめる女。「なぜまたやって来た」問う男に、女はついに真実を語る。夫とはとうにうまく行かなくなった事、今まで語った事は大部分嘘だった事、ただ淋しく孤独に耐えきれず男を訪ねた事・・。引き裂かれるような思いで、自分のかつての思いが真実であった事を訴える。だが今は家族を大事にしたい、本気でそう思っている、と告げる。女は一夜を過ごす相手を求め、引き回し、最後には車を故障させまでして、目的を遂げたが、男はその事をとがめる事なく、ただ己の当時の「愛」の真実性を認めさせようとする。恐らくはその機会とするために(無意識レベルで)、彼女の捜索に付き合う事にしたとも思える。
別れ際、女が男への嫌疑(二人の逢瀬の場に自分の夫を呼んだ)を解く。その一言で男は報われ、彼女に感謝さえする表情を浮かべる。嵐は過ぎ、男は居眠りする妻のそばに寄り、先の続きを始める・・。
「デカローグ」の十話は聖書の十戒の罪に寄せて書かれたそうで、解説本でも読めば何話がどの戒律かと分かるのだろうが、この第三話は「嘘」の罪だろうか。

阿部海太郎の音楽は、劇中ではクラシック曲等も挿入している感じだが、メインテーマに当たるのがシンプルにメロウな短調で、メロドラマに相応しい。
物語は、ギリシャ悲劇に似たシンプルな構造の強さがある。
答えを出さないが、「落ち着き所」に落ち着く印象。
東欧の空気感というものを勝手に重ね合わせて観るせいか、「らしい」感じを噛みしめてたりする。
「東欧の空気感」と言っても自分の場合は全て映画からであるが。
TIME

TIME

(株)パルコ、朝日新聞社、集英社-T JAPAN

新国立劇場 中劇場(東京都)

2024/03/28 (木) ~ 2024/04/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

我が音楽脳に小さからぬ刻印を残した存在である故、「最後」ならば観て置こうとこれも迷わずチケット購入した。(見れば割安チケットであったらしい。)Corichに書き込むとは思わなかったが折角なので。
とは言えこの度も、普段の観劇同様チラシの雰囲気に惹かれた。モノクロの静謐に褐色系が微かな熱(情)といった色彩感は先日観た「船を待つ」の大阪バージョンの照明、東京バージョンの音が融合した感じ。過去の二人のワークを精査する事なく漠然と期待を抱えて新国立中劇場の一階席に座った。(実は一階席は初めて)

ネタバレBOX

既に亡くなった坂本龍一の音源を活用したインスタレーション的な何かであろうかと、高谷氏の「本業」も知らず見始めたが、音、照明、映像いずれも精緻に作られ、観客は遠くからその様子が見て取れるよう正確な設えである。
トーンを落とした声も、落としたニュアンスのまま、観客の耳に届くな・・と感心しつつ観ていたが、確かこの声は田中泯、と言う事は・・舞台上に居る胴衣姿の白髪混じりの男は、そうだ田中泯の立ち姿だ。
始まりは、客電が点いた時点から流れている、何かを作る工房で金製の何かを投げたチャリッという音や、自然音。これが心地よく聞こえていて、やがて笙の音が聞こえて来る。その楽器っぽい物を両手で持って口に当て、巫女風の和衣裳の女性が能に近い速度で、中央に湛えた四角く水を張った池にも足を入れ、横切って行く。
女性が倒れている、という夢の一場面が語られるが、笙の女性はここでも舞台上で横たわる(それでこの女性は女優であり笙の音は録音であろうかと推測したのだったが、本人であったらしい)。
やがて男が、荷物から何かを取り出して何か作業をする。悠久の時をさまようイメージの中で、男の「する事」とは当然原初的なのであるが、どうやら目の前に現われた河を渡るため、石や枯木を投げ入れている。舞台中央に置かれた池は、7、8メートル四方位。その向こうのワイドスクリーンに映る映像を反射させている。

(この続きを書いていたのが例によって消えてしまい、再度書き留める気力が起きなかったが、今少し書いておこう。)
調べてみれば、この舞台の初演はコロナ前、海外であった。日本初演では坂本氏は故人であったので、私はてっきり高谷氏が坂本氏の音楽をベースにパフォーマンスのステージを作り上げた物、と想像したが、実はステージ細部にも坂本氏が製作上の関与をしていた(使われた三つのテキストも坂本氏のチョイス)。主に用いられた楽曲は「async」というアルバムから。オープニングの自然音の出所は不明だがこれもどうやら坂本氏が晩年の一時期「音」の採取に取り組んだ時のもののよう。そして笙の生演奏、これもBGM的に場面を彩った後、asyncの楽曲が使われて行く。これがチェロ等の低い弦楽器を用いたリフレインを基調とした楽曲で、かつてYMO時代の「BGM」や「テクノデリック」、またソロアルバム(「B2ユニット」だったか)に収録していた一定の小節の繰り返しで最後はフェードアウトして行くタイプの楽曲に通じる。作曲家坂本龍一はストーリー性のある大曲を作るが、ミニマルな断片のリフレインで作られる曲の方が、かつて私の耳に刺激的に残った。考えてみればそういう楽曲を「音楽」として聴く初めての体験だった。昔のそれはテクノな音であったがasyncのは生楽器の音で深淵なイメージへ誘う。バックの巨大スクリーンにも絶えずイメージ画像が流れ、数学的図像から、終盤では巨大な瀑布が音と共に圧倒する。「胡蝶の夢」「邯鄲」「夢十夜」が、時間(歳月)をテーマに坂本氏が選んだテキスト。「TIME」というタイトルも忘れ、没頭して行く中で感覚させられたのは悠久の時間と、瞬間的な時間の揺らぎ、その中に置かれた己の人生の時間だった。
やがて笙が再び逆方向に横切り、自然音が鳴り始め、客電が点く。終りだと分っても暫くは誰も立ち上がらない。心地よい椅子の中で「時間を忘れた」症状そのままに、放心している。と、漸く高谷氏が客席から前方へ駆けつけて現われ、礼をした。拍手が起き、客席が動き始めた。
三人姉妹

三人姉妹

ハツビロコウ

小劇場B1(東京都)

2024/04/02 (火) ~ 2024/04/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「ワーニャ伯父さん」に続いてのチェーホフ作品公演。今回は異色であった。というより、ハツビロコウの真骨頂はこれなのか。古典・名作の上演ではテキレジが優れていると感じたのだが、今回の「三人姉妹」は場面の構成、つなぎも含めて大胆な展開であった。特に私にとっては「こんな三人姉妹は初めて」な部分は、チェーホフ作品の厭世観、救いの無さを前面に押し出したようなラスト。軍楽隊の音を聞きながら、不幸と不運にまみれた姉妹らが「それでも生きて行く」意思を確認するような堂々としたラストが、今作では力なく弱々しい、没落し行く人間の等身大の没落ぶりがあった。ただしその事を強調したというよりは、三人力を合わせれば・・と希望がのぞく青春物語のラストを止め、淡々と終わらせる事を選んだようであった。普通ならとうに別れを告げたはずの軍医がまだ居て、最後のニヒリズムな台詞を、長女オーリガの「それが分かったらねえ」の直前に持ってきて、去らせるテキレジである。
私としては、地元の学校長に担ぎ上げられた事でモスクワが夢となった長女、恋する軍人と永遠に別れしょぼくれた夫の元に残された次女、本物の愛の到来を諦め誠実な結婚生活を選んだ矢先に夫が殺された三女。等しく不遇に置かれた事で三人が漸く手を取り合う場面でもあり、劇的なラストをやはり期待してしまう。だが、今舞台はそれを敢えて回避した。
要は、「変えた」所がはっきり見えてしまった。そこがこれまでの古典の舞台化と異なる点(といってもどの程度知っているかで「分かる」かどうかも決まる訳であるが..)。ラストの手前までは出はけを壁際の椅子で処理したのも含めて華麗な捌き方を味わって観ていた。私的には「危うい」挑戦であったが、ハツビロコウの志向がもたらした必然であれば、ただ前進して頂き、私としてはそれを見守る他はない。

カラカラ天気と五人の紳士

カラカラ天気と五人の紳士

シス・カンパニー

シアタートラム(東京都)

2024/04/06 (土) ~ 2024/04/26 (金)公演終了

実演鑑賞

開幕から注視させる流れである。別役戯曲の中でも些か軽いナンセンスの部類だが、加藤拓也演出は客との馴れ合いでナンセンスのもたらす緊張を即座に笑いへ着座させられる所をさせず、手練れの役者が「真剣に」というか「純朴なまでに真面目に」そのアホな言葉を吐く男共を演じてる。その様が良い。
松井るみの装置はその場所を近代的な地下鉄のホームに見立て、柱を上ると等間隔に設置された最近風の電灯に手が届き、これは劇中で使われる。
「俺たち」という集合が見えて来るのが終盤のこと。女性二人が嵐のようにやって来て、去って行った後、「男ども」の集合が残る。彼らはあの彼女たちこそ本当に物事を実行した「何かを為した者」だ、と評する。だとすると何事をも為し得ない自分らは一体何ができるのか、何をすれば良いのか・・。
時代の産物を微かに戯曲に残して行く別役実の台詞の端に、何かが引っ掛かる。恐らくはこれが書かれた当時あった何か、またはその当時人々の記憶に残っていた何か..。
加藤拓也は令和に読み替えた「カラカラ天気」をやったと言う。
当日立ち見で観劇した時、令和への翻訳のポイントは分らなかったが(今もあまし判っとらんが)、配信をやるというのでこれも観て、新たな発見もありまた初見と随分印象も違った。戯曲の時代性という点で言うと、「何かを成し得ない」事への自省、自己批判は今の時代、そう厳しくは問われない(己を突き刺す事はない)のではないか。
何かを成そうにも成せない時代、条件的に剥奪された状況がスタンダードな時代だから。
戯曲的にも、男たちの前に何か具体的な課題を持ち込まないと、彼らはそれほど痛烈には、その事(何も成し得ない事)を慨嘆するには至らない。
しかし言葉の一般的な意味としては、つまり語義的には理解はできる。そして、彼らは今少なくともやれる事に、真摯に向き合うというラストを作る。これはこれで、感動的なのである。

イノセント・ピープル

イノセント・ピープル

CoRich舞台芸術!プロデュース

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2024/03/16 (土) ~ 2024/03/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

納得の舞台。
スマホで書いては消え、が続いたので嫌気がさして打っちゃっていたが、気を取り直して何がしか書いてみる。

キャスティングに感心しつつ観た。名を知るのは川田希、森下亮、山口馬木也、阿岐之将一、水野小論、保坂エマ(顔がちゃんと判るのは最初の二三名だけ)という案配で、後方席だった事もあって役者の照合を断念(上の二三名以外)したら、役の人物による物語だけを浴びる感覚になった。

畑澤聖悟による脚本は、原爆開発を行なった米国南端のロスアラモスの研究所が舞台。
冒頭はある記念式典のため久々にかつての研究仲間たちが当地に集まり、旧交を温める場面。
主人公となるホストファミリーの夫婦は共に当時の研究者であり、進路を探る年齢の子ども二人(兄妹)もいる。家族まじえた交流の時間、戦争当時を回顧し、現在の情勢への思いを語り合う中、息子が合格通知をもらった優秀な大学を蹴って、海兵隊に志願したいと宣言した事がドラマの起点となる。ベトナム戦争が始まり、大統領の呼びかけに答え、若者は応召して行った。

時は移り、今度は娘が自分の交際相手を両親に紹介しに戻って来る。相手は日本人、しかも幼少時に被爆した広島の若者。反核キャンペーンの米国派遣団に選ばれ、渡米していた。娘は親が研究者であった事から核兵器に対する問題関心が芽生えていたのであり、必然的な出会いであったが、親は顔を曇らせる。娘はなぜ祝福できないのかと問い、その理不尽な思いから親の研究を難じる言葉を投げつけるに至り、絶縁状態となる。
この時既に、息子はベトナム戦争で負傷兵として帰還し、車椅子姿である。
他の元研究仲間には、罪意識を抱えて研究所を去り、一介の高校教師となって教え子と結ばれた者、郷土愛と愛国心に溢れ軍人の道を歩んだ者、二人を両極として、主役に当たるホストファミリーの家長と、あと二人がある(二人の人物的特徴は忘れた。一人は結婚し、一人は独身)。
軍人のグレッグは冒頭のパーティに連れていた恋人と結ばれ、一粒種が育っていたが、息子も親の思いを受け止め、海兵隊になると言う。グレッグは誇らしげだ。

戦争当時の回想も挟まれる。轟音と火柱を遠くに眺めた彼らが「これで(対日)戦争に勝てる!」と沸き立つ中、後に高校教師になるマッケランは「あれを町の上に、落とすのか」と愕然とする。
ブライアンとジェシカが良い仲となり、会話を交わしている所へ、実験成功についての感想を聞きたく意気揚々と仲間がやって来る・・。回想場面はあくまでも明るい。

時が経ち、老境にある彼らは既にイラク戦争後の世界にいる。マッケランは既に自殺によって亡くなっている。元教え子は夫人となっていたが、死ぬ前まで苦しんでいた夫の事を述懐する。
グレッグの息子は出征したが、戦闘によってでなく、肺癌で死んだ。米軍が用いた劣化ウラン弾により被曝した兵士の多くが肺の病で亡くなったが、グレッグは味方がいるのにこんな兵器を使うとは軍人として信じがたいと憤り嘆く。だが核兵器使用を正義と主張し続けた男の言葉は、弱った男の周囲を虚しく巡る。

最終場面、日本からブライアンの娘の夫が訪ねて来る。既に妻のジェシカは亡くなっている。だが、息子は彼のヘルパーをするベロニカへの前場面での反発を乗り越え、彼女の愛を(即ち、己の運命を宿命として)受け入れている。
前の場面ではネイティブ・アメリカン出身であるベロニカが、居住地にあったウラン鉱の採掘に親族らが駆り出され、病に亡くなった体験を語り、右翼的発言を止めないグレッグを黙らせるシーンがある。
ブライアンは婿であるタカハシから、シェリルが亡くなった報告を受け、最後の機会だと家族「三人」で広島を訪れる。
シェリルが彼を親に紹介した時は白い仮面を彼はつけており、言葉は発しなかったが、この場面では仮面を取る。英語で台詞を発している表象でもあろうが、父と対面し目を合せて会話をしている風景として映じる。父は娘のことについて彼の言葉を通して聞くしかないのである。
広島でブライアンは娘を弔った後、タカハシから紹介された娘の友人たちと対面する。彼らの言葉をタカハシが「●●はこう言っています」と取り次ぎ、父は娘の生きた足跡をこれを聴きながら噛み締めている。
(タカハシ以外の日本人は皆やはり白い仮面を被っているが、以前観た青年座研究所での公演でも確かそうであったから戯曲の指定かと思う。と書いたその後、この戯曲が収録された畑澤聖悟戯曲集がこの4月に出版されていたのでご関心の向きは確認されたし。)
そのやり取りの最後、ブライアンが携わった原爆開発の成果により、「何万人もの無辜の日本人」が亡くなった事についてどう思うかを問われる。そして「謝罪の言葉はありませんか」と、彼らが考え続け願い続けた事の一つの証しを、ブライアンから引き出そうとする。直截で痛い言葉が、会場に響きわたる。
元よりこの質問は無辜の立場から、悪を為した側への一方的なそれとしては成立しない憾みがある。
日本は民主主義ではなかったとは言えこぞってこの戦争にもろ手で賛同し熱狂した。遅れて来た植民地主義時代の文明国としての戦争の勝利に酔った。「無辜」ではなく罪多き戦争を遂行した側でもある。
従って「戦争を止めるため」が正論として成立してしまう。ただし謀略を巡らし覇権を堅持するため手段を択ばぬ弱肉強食の帝国主義的あり方を脱し、別のステージを選んだのなら、その立場からアメリカに問いを発する事ができる。
一方ブライアンは一研究者として、科学的真理を追究する営為に、善悪はない・・一貫してこの立場を譲らず、是非を語る事がなかった。しかし娘の生き方はあたかも親の罪を償うために捧げられたかのようで、ついに彼はその前に伏して詫びる。果して何が解決したのか、一抹の疑問が過ぎるような空気(ここはかなり主観的な受け止め方だろう)。その流れで、現われた孫娘と対面し、その頬へ手を伸ばそうとする手前、プツッとテープが切れる音と共に照明のカットアウト。終演であった。
このラストの解釈と感想は様々あるだろう。
日澤氏と畑澤氏との対談に「脚本に喧嘩を売る」的なくだりがあったとどこかで読んだが、この処理について言ったものだろうか。

山口氏演じるブライアンは、前半は快活だ。研究者として成功し、愛する妻との間に子を設け、長男が有名大学に合格した、という一場。それが時を経るごとに寡黙になる。大学進学をやめて海兵隊を志願した息子が、負傷して帰還し車椅子に。親の原爆開発を指弾した娘を勘当同然にし、やがてジェシカを失い、息子が一人の女性と結ばれるのを見ながら、隠居後の生活を送る・・。最後に彼が何を思うのか、日本の地で謝罪を乞われて何を言うのか。作者はドラマの終着地にこれを持って来る。ここまでで既に脚本の勝利と言える。ブライアンがどうふるまうにしても、成立する。

平均的な「父親」であった彼は最終的には、国家が行なった非人道的行為の責任について考える事より、家族へ心を傾ける事を最も大事にした、そのようにして己の人生を整理するという、平凡な市民の姿を見せた。
栄えある研究を共にしたジェシカとの青春時代の「実」として子どもたちがある以上、研究を否定する事は許されなかった。
だがジェシカを失い、彼女との人生の証でもある娘シェリルを認めない態度に固執する事もやはり彼にはできなかった、そのようにも見える。
私は彼が「謝罪した」と記憶していた。が、実際には彼が答える前に、同行したロゼッタが自分の村で発見されたウラン採掘のため親族は死んだが、そのお陰で日本人が亡くなった事を申し訳なく思う、と彼女はそう言ったのだった。
以下は「謝罪した」前提で書いた箇所なので、そこを削除し、また書き改める事とする(律儀である)。

日本の歴史認識を巡る現状を踏まえて、これに触れるドラマを作る時、とりわけ原爆投下を扱う場合、何を強調するかは難しい問題。「未だ解消していない」問題は、「問題提起」を結末にできる。原爆投下の「罪」、そこに至る道を自ら開いた日本の大陸進出の「罪」、当時世界を席巻していた帝国主義・植民地主義の「罪」、その原動力として経済構造を塗り替えた資本主義、その淵源としての産業革命、果てはルネサンスに至るまで、罪の告発は議論の霧散を準備する。
だから演劇は人を描く。生きる姿を刻印する。

ネタバレBOX

自分のやった加害は棚に上げて米国のやった事の被害だけを語る、いわば相互理解不可能性という現実を、この舞台は助長する意図はないだろうが、日本が絶対的被害者で相手が悪人と処理してしまう歴史観を多くが持っている時代でもある(全国的な歴史修正の活動が奏功した結果。これが日本の偽らざる現状である事は認めざるを得ない)。
一方で親米感情がきわめて浸透している日本でもある。

フィクションの中で一介の父親が謝罪を口にした所で、核兵器(の効力)を肯定し、その使用に対する反省もない現状。これを告発した終幕だろうと私は解釈したが、しかしアメリカに対する真の怒りが「無為な殺戮」に対するものであるなら、それは自国の過去のそれにも、イスラエルのそれにも向かわねばならない。
原子爆弾という兵器の特殊性が加害性を高めるのではなく、古い兵器だろうと同等の人の数を殺せば意味的には同じだ。あまりの威力と無差別殺戮が必定の兵器に、マッケランが「唖然」とした感覚は、人間の正常な感性だと言えるが、「戦争」は殺戮を正当化する。
日本兵が中国大陸で狂気のように人が殺せたのもそのような訓練が為されたから。広島で14万、長崎で約7万が亡くなった。外地での戦死(餓死者含め)と内地での攻撃全て含めて日本の死者130万。そして中国大陸での殺戮数は1000万規模と言われる(2000万近い数字が以前は出ていた)。ベトナムでは日本軍の食糧「現地調達主義」により100万規模の餓死が出たという調査もある。
ガザやウクライナでは核兵器無しに数万規模の死者が生じ、積み上があればヒロシマ・ナガサキ規模にもなりかねない。もっと言えば、富の偏在を構造的にキープしている世界で病死者・餓死者を生み出し続けているのも、自然というより人間の罪だろう。
「無差別に人を殺すこと」に怒りを覚える根底は、理由もなく身内が殺される事への想像力だ。そうであれば、その怒りは地球上のどの殺戮に対しても向けられるはずのもの。尊い命とそうでない命がある、という認識を自分に許している者は、自国(ゲルマン民族)優位の思想を突き詰めたナチスを批判する事はできない。社会科教師の演説になった。
ハザカイキ

ハザカイキ

Bunkamura

THEATER MILANO-Za(東京都)

2024/03/31 (日) ~ 2024/04/22 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

千秋楽を観たようだ。おやそんな雰囲気でもなかったが?・・と思い出せば、確かにカーテンコール四つ目で座長らしい記者役が手招きし、袖から三浦大輔氏が呼ばれた。思わず演出から何か一言な空気がよぎった後、やっぱ何も言う事ないわと礼をして周りもバタバタと頭を下げる様が微笑ましく笑いを起こす風景。
三浦氏の舞台は緻密で明確で、何も補う事はないし観客も満腹で何か言って欲しいとは思わない。

下卑た日常を描いて本質を抉るような三浦大輔の世界へ、一気に誘うのはギター音が作る音楽。本作は三浦氏にしては露骨な性欲の摘出がなかったが、欲望とその追求が恒常的にもたらす爛れ、疲れ、金を払って味わう一時的な全能感、黄昏どきに催す時間を超える感覚・・都市生活と不可分の要素を、音楽が既に彩っている。

アンドーラ

アンドーラ

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2024/03/11 (月) ~ 2024/03/26 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

隣国「黒い国」と緊張関係を持つ架空の国アンドーラを舞台とし、ユダヤ人差別を軸に展開する不思議な味わいのドラマだった。文学座のアトリエ公演は濃い。秀逸。

文学座の勢いある女性演出陣の若手の一人とされる西本由香の演出舞台は初めてであった。その視点で反芻していなかったが、アトリエ公演らしい実験精神も見られた。架空の世界を描く際には、確かに、その世界を統べる法則や人々のふるまい方、習慣が戯曲に即して特徴的に描かれたい。
ただこの作品では「ユダヤ」という固有名詞は現在用いられるそれそのものとして使われ、迫害の熾烈な隣国の好戦的ファシズムの脅威にさらされた国、を舞台に、平和主義を貫いているとは言いつつそこここに欺瞞が満ち、ユダヤ差別も屈折した形で存在する哀れな弱小国の現実が浮かび上がる。この作品のメタファーがどこへ向かっているのか、どの現実を特に意識して書かれたものなのか、知りたく思うが舞台のみでは思い至らなかった。

天の秤

天の秤

風雷紡

小劇場 楽園(東京都)

2024/03/29 (金) ~ 2024/03/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々の風雷紡観劇。再演だったとの事。好評ゆえとすれば納得である。冒頭でよど号ハイジャック事件が題材と分かる。透明プラスティックの椅子二台を動かすだけの転換で、場面を淡々と構成。「楽園」の狭い舞台で感情が爆発するとダイレクトに波動を受ける。ハイジャック犯一人の他は、機長、副操縦士、CAのキャップと部下二名、行政官(大臣と政務次官)、キャップの先輩も行政サイドに居る、という人物構成で、事件解決に向かう人物たちの群像だ。乗客がゼロ、ハイジャック犯が一人(ここはやや気になったが)でも、この歴史的事件をうまく現代に浮かび上がらせ、観客に強い関心を持って事件を見据える事を促している。各場面が事態の進行と共に人間模様の簡潔な描写を兼ねて面白い。後半の展開のテンポも良い(程よく間を省いている)。

ネタバレBOX

改めてよく出来た作劇、テンポ感、照準の絞り方、広げ方がよく、蠱惑的な空気があったのだが、何故だろう?と考える。答えは見つからないが、やはりこの劇団の特徴である「左翼」の歴史に分け入ったドラマである点が一つ、考えられる。ハイジャック犯の役は一人で代表させている点では、ステロタイプを担わせ、グループメンバーそれぞれ背景の異なる個人の人生までは分け入ってない。が、理想を望む情熱と、打算の振れ幅を体現させ、観客目線では身近な存在として見る事を許している。
もっとも、法を犯した者を絶対悪としがちな昨今の風潮では、予め悪人と見、韓国の金浦空港に騙して連れて来られた後に人質入れ替えにより平壌へ向かう算段が付いた時の犯人の浮かれた名調子、演説の軽薄さに「悪の烙印」を押させてもらって溜飲を下げた、といった感想があってもおかしくない。
「悪」には両義性、多義性があり、ルールがそう決まってるから悪とされているに過ぎない悪もあれば、たとえ法に規定がなくとも倫理上はどう考えたって「悪」だろうという事もある。こういった題材はそれを考えさせる。
旅客機の乗客の代わりに人質となった外務官僚のその後の顛末として、ある悲劇が冒頭とラストで僅かに紹介され、恐らく史実をなぞったものと思われるが、ドラマの中に意味的に取り込みづらい。単なる英雄譚で終わらせられなかった人生への大いなる謎。
とは言え、よど号犯人たちのその後は決して「楽園」でのそれでは無かっただろう事と、波長として重なり合うものがある。
夢の泪

夢の泪

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2024/04/06 (土) ~ 2024/04/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

観た時間が楽しかった(過去形)に止まらない今もひた寄せる感覚を伝えようとなると「おおおお」とか「ぐうぅ」「んなっ!」と咆哮にしかならないのを、無理やり言語化して結局「良かった!」「楽しかった」「泣いた」等の語彙を引っ張り出すしかなく。
「感動」という心のありようを表現する事は難しいので、やはりその周辺をぶつくさ書きながら「籠める」以外ないようである。

な事はともかく。開幕後まず目が探すのは、他でもない我らが桟敷童子の板垣桃子。。だがこれが中々見つからない。サザンの後部席とは言え、舞台上の雰囲気や声で分かりそうなものが、暫く目が泳ぎ、不穏な想像までした(降板...)。オープニングの歌を皆が賑やかしく歌ってるのにそこに居ない(後から登場組)とは考えにくいので、女優3名を消去法で潰すと一人残るのだが、声質も体の動かし方も当てはまらない。あの桟敷童子での立ち姿、風情から想像できない・・。言いたいのは、演技者としての幅が予想外であった事だ。声は高らかで明るく、体もしなやかで華やかな動き。それにまず驚いた。
一幕は寝落ちしそうな瞬間が何度か訪れた。(周囲にも相当数いたので私の「体調」だけが原因ではなさそうだ。)説明台詞が特に前半に仕込まれるのは博覧強記が戯曲にも滲む井上作品の「通常」で、休憩時間に回復した頭は「この仕込みが後半生きるのが井上戯曲だったな」と気持ちを改め、二幕物の華麗な「逆転」の例を思い出し、休憩後は前傾で舞台を凝視し始めた。読み通りであった。

弁護士夫婦の自宅兼事務所のある建物の「事務所」スペースが一、二幕とも変わらぬ舞台。ここで最初に「争い事」を持ち込んだ二人の歌い手の「同じ歌」の取り合い問題が、後半思わぬ形で決着を見る。そして改めて歌われ、最後には合唱となるその歌が、最初に耳にしたのとは見事に違って聞こえる鮮やかで静かなクライマックスは、忘れられないシーンとなった。既にメロディーも忘れ(譜割りの難しい歌だったが)前後関係も怪しいが、場面を反芻したくなる。
弁護士夫婦の夫(ラサール石井)は、東京裁判で松岡洋右元外相弁護団の補佐を引き受ける事となった妻(秋山)を支え、弁護人を有給で雇うよう当局へ掛け合う等「商才」?を発揮する。妻を公務に取られた弁護士事務所には、妻の父の知人という老齢の弁護士(久保酎吉)が応援に来ており、物の見方や法律上・人生上の助言もする役どころ。夫婦の間の一人娘は一本筋が通り、事務所の手伝いをしながら法律家を目指す。復員した正は抜け殻のようになった自分の中身を埋めるかのように勤勉に事務所の仕事に勤しむ。発語はいつも大声で「であります」口調。その感情を排除したような声が「言葉」として事実を淡々と伝える時、言葉の意味だけが情感を伝えてくる瞬間がある。ギャップ萌えと言えようか。

本論である東京裁判について、正面から言及されるのも二幕に入ってからの事。
妻はこの裁判はきっと「なぜこうなったのか」事実から振り返る機会、きっと良い影響をもたらそうだろうと熱っぽく語る。「歌」問題の調査(それぞれが歌を教わったというそれぞれの夫への聞き取りなど)を任された正が折々に報告する。この二つが主な案件として並行して進むが、これ以外に、弁護士事務所が受けた相談が紹介されるのは一件。
こんな相談だった、と報告する形で語られるのは、闇米の運搬を引き受け報酬を稼いでいたある女性が、上野で一斉摘発に遭った際、リュックサックに刃物を突き刺して穴を開けて中身を確認して回る警官の手にかかった。実はリュックには赤子を入れ、米は脇に抱えていた。赤子はその後死んでしまい、女が抗議しに行った所、文句があるならリュックに米を入れているヤツらに言え、と取り合われない。
この警官らの「返し」が井上の文才を思わせるが、占領下の日本でこれを告発するのは難しいとやむなく帰す。
この話と同様に「断念」を勧められるのが、弁護士夫婦の娘の幼なじみの青年。彼は父が朝鮮人で、地元の暴力グループに家を襲われた。警察はそっちの味方だから当てにできない、耐え忍ぶしかない、と周りはやむなく説得する。
朝鮮出身者は戦前「日本人」とされていたが、終戦で一旦処遇を保留されていた所、改めて「日本人」とされた。この事の意味についても作者は人物に語らせている。実は戦前は「日本人」と言いながら実際には区別していた。だが、今度は真正の「日本人」と規定した、それは「外国人」なら配慮が必要だが日本人なら放っておけば良い、という理屈なのだと。ここで歌われる歌は、日本人も朝鮮人も誰も彼も、「捨てられただけ」という歌詞。「ただ捨てられたのだ」が、日本人が到達すべき一つの認識(達観・諦観?)として作者が立てた(捻り出した)言葉だ。
負けた事を認められない人間が国家に寄り添い、政権に寄り添う。私らは政治によって良いように扱われ、軽んじられ、今も損をさせられ奪われている、つまり「負けている」のだが、これを認めたら権力と対峙する立ち位置に立たねばならなくなる。だから「奪われてなどいない」「政権は自分の味方だし」「反対を言ってるやつはパヨク」とこうなる。長期政権を「過ち=負けを認めない」リーダーが統べていた事も、影響しているだろう。
不敗神話=無謬性の原則に似て、先人の為したこと敷いたレールを、否定すべきでない、戦争でおかした過ちも「ない」として、改善と進歩の契機を一切認めない態度に通じる。20年前と言えば、歴史修正主義が勢いづいた時期だが、井上ひさしはこの時点でナショナリズムと「負けを認めない」態度との通底を見ていたのだな。

この捻り出した言葉に、井上氏の精魂が生々しく乗っている感覚を覚える。この作品も遅筆で苦しんだとの話。苦労の跡をこれほど感じ、そしてその苦労を超えて到達した高みをこれほど感じる作品はなかった。

ネタバレBOX

板垣桃子は藤谷理子と共に(年の差)歌い手コンビで歌の事で対立しながらコンビ愛が徐々に育まれていく役どころ。
オーラスは歴史の事も戦争の事も忘れた10年後の場面、ラサール石井が商才を発揮して四階建てビルを建て、弁護士事務所の二階に開いた店に皆が集い、二人の歌い手の歌と酒に酔う姿は「アッと言う間に忘れ去る日本人」を象徴。
この付録的場面(作者的には思いきり皮肉を込めただろうが)の直前が真のクライマックス。歌の作者の調査の最後の報告を読み上げる正。歌い手の夫それぞれを二箇所の陸軍病院に尋ね、同じ部隊に居た二人の上官が故郷を思って作った同じ歌を教わった事が判明した後の続報である。その上官も横浜の陸軍病院に居る事が分り、訊ねた所、二か月前に亡くなっていた。そこでその人の実家を訪ねて行く途中、丘を登って行った先に、正は「なんとそこに」・・「桜の木が風にそよいでいるではありませんか。(そんな感じの台詞)」と言い、目の前にその情景を浮かべる。軍隊に行き言葉に出来ない体験もしただろうこの青年が、二人の軍人と、その上官との「物語」の最後のシーンに身を置いている姿がそこにある。と、大事な事を、と正が報告を続ける。彼は上官の奥方に会い、歌をめぐる権利問題の決着をつけるべく経緯を話し、回答を待った。奥方は二人が夫の歌を大事にしてくれた事に礼を言い、「好きなだけ歌って下さい。それが主人への供養になります。」との回答を得る。
万事解決、と一同が喜んだ後、二人は申し合わせる事なく「桜の木」が口をついて出る。全員が、微かに声を合せ、小さな、儚い花の命を愛でるように、歌う。
この元歌なのだが、『ひょっこりひょうたん島』の挿入歌でこまつ座常連の宇野誠一郎作曲「心のこり」という歌だとパンフに書かれてあった。Youtubeではヒットしない。どこで聴けるだろうか、いつか聞いて反芻する事ができるだろうか、それが心のこり。
さるすべり

さるすべり

オフィス3〇〇

紀伊國屋ホール(東京都)

2024/04/06 (土) ~ 2024/04/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

異色作。2022年に前哨戦をやっていたのか。殆ど書き上げたばかりのをやったかの空気感だった。(大幅に書き直して、とあるのでそれはそうだったかも。)
昨年の「ガラスの動物園」で見事なアンサンブルを俳優との間で形作った生演奏の川本悠自(b)と鈴木崇朗(バンドネオン)が付くというので、全幅の信をおいてチケット購入。千秋楽であった。
ヘルメットを被ってトンカンやってるイベント準備の中、二人が入って来る(トンカンやってるのは演奏者二人と踊り手(松井夢)だったらしい)。渡辺が客席語りをしながら、高畑女史に過去の話題作の演技を再現させたりのサービスの時間。そこから、渡辺えり節全開な支離滅スレスレ(否ほぼ支離滅か)の展開へ。ピースを後付けで力技で繋いでいた。華麗な台詞回しと展開があるかと思えば、弾けないもどかしい場面も。「死ぬまでにやりたい事やる」宣言を「した公演」を含めて三つ目を数えたが、まだまだ随分続きそうな勢いでもあり、通常ペースで見守る事にするか・・。

ネタバレBOX

導入はコロナ禍の「コロナ」を思い出せず、「何で私たちは4年間も自粛してるんだけ」と思い出そうとするやり取りから。「八月の鯨」をモチーフに、老いた二人の姉妹がどうにかこうにか生きてる風景だ。駄弁りが芝居の基調でちょっと笑える会話や風情に客席からはドヨと笑い声が起きる。八月の鯨のベティ・デイビスとリリアン・ギッシュを舞台で演じたいと思っている二人の稽古風景でもあり、即ちもっと老いた渡辺と高畑の未来予想図、といった趣きもある。だから二人が八月の鯨を抜けて、別の物語を生きる場面も点々とある。
「これはアングラなんだから」と序盤で渡辺が高畑に言う。戸惑う新人に宣告するニュアンスは、アングラ組から新劇組への宣告というより、「際物」から「普通」、「貧乏家庭」から「恵まれた家庭」への妬み半分の宣告にも聞こえる。カテゴリーにこだわるつもりはないが、小劇場演劇(遊眠社や第三舞台、劇団3○○(元2○○)、第三エロチカといったあたり・・見れば三の付くのが多いな)は確かに、アングラの延長と言って差し支えなさそうであり、「アングラ」と自称するのに何ら不自然はない。
物語らしきものはある。途中「種明かし」的に伏線を回収する体で、二人の共通の知人らしい「みつお」に言及される。「忘れようとしてた」から話題にもしなかったが、思い出した、と。二人の弟である彼は窓からさるすべりに飛び移ったり、平らになった枝にひもをかけてブランコを揺らしたりした思い出。ところが実は「みつお」は高畑の息子であり、高校時代に出会って感化された大学生との間に出来たが逃げられ、一人で生んだ。そして「みつお」は高畑の夫でもあった・・。そんな相の変化が断りもなく起きるので、台詞から人物関係図を完成させようとする脳では、到底追いつかない。「男」の持つ位相を「みつお」に代弁させたものと強引に解釈して観劇を続けた。
最終的には楽曲で締められる。パンチのある渡辺氏の声が歌の時である事を告げると効力覿面、終幕へと船は動き出す。無事進水すれば大団円、不思議な旅は終わりを告げる。このとき涙を拭う仕草を前の客席に認めるが、私はと言えば「夢の泪」の珠玉の歌を観た後である。そう簡単に騙されんぞと、肩肘を張る。だが席を立つまでがお芝居。舞台を終えた渡辺えりの語りに会場が沸く。手練れであるな・・ここは降参とするか。
「八月の鯨」に寄せた家族の物語の「みつお」を巡る悲劇は彼がさるすべきの木で首を吊った事。「果実のように」と表現し黒人の自殺に重ねている。八月の鯨の稽古を抜け出て、機動隊と対峙した全学連時代を潜り、爆撃のある戦時下を潜り抜ける。渡辺女史の社会派がほぼぶち込まれている。
第37回公演『ライダー』

第37回公演『ライダー』

激団リジョロ

シアターシャイン(東京都)

2024/04/12 (金) ~ 2024/04/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

二度目の観劇。公演情報を入手したのがそれ以来なので久々の東京公演か、と勝手な想像をしていたが、劇団否激団の拠点は東京であり(旗揚げ2年後には関西から上京し、経緯あって東京にて改めて旗揚げした模様だが、それでも20年経っている)、また前回と今回の間に既に2公演やられている。前回観たのは2021年であった。
激団の名が表わす体は「熱い」。ただし前回は日韓の歴史を遡った(植民地時代から現代)リアル基調の劇で、尖った切っ先の熱とは異なり人情部分の熱(だから上がっても40℃位?)。だが今作は相当に現実離れしたフィクション。時空を飛ぶ。エッジの効いた鋭い「熱」にはこちらの方が親和的。で、これが中々面白かった。
過去公演の履歴を改めて眺めるとゾンビが登場する話もある。基本「激烈」な、啖呵を飛ばし合う劇の様相が浮かぶ解説文だったりするが、今回、作・演出の主宰は壮年期、他俳優が若手なのでこの「激しさ」「熱」を仕込む指南役とその弟子といった空気がやや舞台においても流れる。
おや?と思わせるのが冒頭、5、6歳位と見える女の子が登場し、最後も締める。普段っぽい表情で客席を眺めつつ動いたり台詞も言う。これが主人公の女性役の子供時代の設定で、何だろう?と目を引く。ツーリストと呼ばれる、操縦桿(一本のバーを床に据えて左右前後に動かす)一つで宇宙を旅するいかつい男(主宰・金光仁三)が現われ、女の子にこう告げる。「そうだと思った事が本当になる。何がしたい?」「宇宙に行きたい」「ならそう願えばいい。」大きくなったこの女の子は、AIと人間のハイブリッドこそ新たな時代の理想だと語る国のリーダーの下、潜在的な敵対関係を持つ事となり、「戦い」が徐々に始まっていく。
ディストピアな未来を生きる彼女は「そう願う」「そう信じる」いや「そう思っている(だけ)」でそれが実現するというそれが一つの「能力」である事を、自ら知る。かのツーリストが彼女を再発見し、これを告げた。彼は彼女の誘導役となるが、やがて前線から退場し、最後に彼女一人で戦う段階が来る。
AIと人間とのハイブリッドを高らかに歌う国のリーダー(女)のバックには、化け物的な、人間の肉体という宿を持ったAIの存在があった。だが、人間とAIの融合の実態とは、脳にチップを埋め込み、情報処理能力は高めるものの、指示者に対し従属的となるような代物。主人公の父はこれを悟って従わず、抹殺されるが、事が一巡りした後、国のリーダーも「理想」が欺瞞であった事に気づき、対抗勢力となる。だがその時点で主人公は先行してAIとの対決と撤収を繰り返し、逃れる過程で彼女はツーリストに紹介された避難先として訪れた星で、それぞれに個性的な存在たちと出会う。彼らに助けられ、また助け、学んで行く。
これはスターウォーズの構図だな、と途中から思い始める。「本当にそうなる」と心から信じていないならば、その力(映画ではforce=理力と言ったっけ)は生じて来ない。
彼女は旅の中で、この力を使いこなすコツを習得していくのだが、ラスボスであるダースベーダーと決定的な対決を行なうまでに、人間力を高める修行の中に様々な星の住人との出会いがある、という構図は、古典的だが力強い。

この荒唐無稽なSF物語が、ストーリー完結の辻褄合せに付き合わせるだけに止まらず、心が広がるような感覚を持たせたのは、ユニークな各星人たちを始めとしたキャラの魅力。
こういうタイプの芝居はそういえばあまり観ていないが、キャラ創出の才は中々ではなかろうか。最後まで「熱力」で押すドラマに相応しい精神論(根性論?)だが、スポ根とは異なり、最後には静かな心を希求している。
とは言え、その心を勝ち取るために、激烈な戦いを戦わねばならない物語の宿命は矛盾と言えば矛盾なのだが。
いずれにせよ、かような舞台を疲れず面白く観られた自分に気を良くして、帰路についたものであった。

ワイルド番地

ワイルド番地

ホチキス

あうるすぽっと(東京都)

2024/04/05 (金) ~ 2024/04/14 (日)公演終了

実演鑑賞

前回の観劇は割と最近ではあったが、二年位?、、と見るとまだ一年前の事。自分(と劇団との距離感)にしてはインターバル短めであったがタイトルに惹かれ観劇。テーマ性、リアリティ、暗喩(皮肉?)そして最近は俳優(の蠱惑的演技)を重視する自分には異世界のホチキスの「見方」が、幾分判った気がした。
近未来(又はあり得ない現代)の設定でのっけからリアルを飛び越えた漫画的キャラ演技で成行きを正当化、ストーリー展開させるが、僅かな隙にリアルを忍ばせる。そこが終極「感動」に繋がるので(無論感動アピールは抑制的だが・・小玉女史の演技がこれを象徴)、やはりリアルは演劇の要であるのには相違ない。
「決闘」する本人のような出立ちの小玉氏は市役所決闘課二課の課長で、「決闘の要望を実現させる」ために奔走する課の課員は生き生きと躍動的。一方の一課は「決闘をさせない=和解に持ち込む」役割を任じており、倦んだ勤務環境をデフォルメしたかのようだが老獪な課長は課長なりのスピリッツがある事が観客の前に表面化し、両課の二項対立は二課の新人社員の「恋」も絡んで物語的に激化し漫画的展開とナンセンスすれすれなゲーム感覚が暴発して行く。
醒めた目では楽しめないリアル外しに思えるが、テーマ性はそこはかと漂ってる感があり、メロウを嫌った終劇で笑いを誘う。
今少し述べたいが後日追記。

あとのさくら

あとのさくら

ここ風

「劇」小劇場(東京都)

2024/03/13 (水) ~ 2024/03/17 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

二度目のここ風。それでも「らしい」芝居だ、と思えるのは、前回観た記憶に引っかかる特徴と、符合する所があるからだろう。関西弁ががっつり登場するのは一つの特徴になる。人情物である事、家族の泣かせる話がある事、など。「確かあれだったっけ」と記憶と資料のページをめくるとタイトルは「チョビ」、幽霊だった、に帰着する「よくある」人情劇(涙の誘発の仕方も古典的)だが構造に工夫があってドライさが勝っていて、後味が良かった。
今回、途中が抜けた(例によって入眠によって)。台本を後で読み返すと、やはり抜けていた。やはり観た感じより、読めば完成度がある。
今回は幽霊でなく、回想が挟まれる構造の劇。三代前が開業して今は休業中だった山村の旅館を再開する前、特別価格のプレ営業に訪れた客四組(五名)と旅館サイドの人間(四名)による、旅館家族の秘密が明かして行く物語。
パズルのピースをはめ込むような脳内作業は大変で、眠気に勝てなくなった。
三代前の回想シーンがあり、二代目たちは不登場。台詞で語られる証言で事実を構成する。

S高原から

S高原から

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2024/04/05 (金) ~ 2024/04/22 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

青年団で「今的にgood」という意味で評価したのは、いずれも新作の「ニッポン・サポート・センター」「日本文学盛衰史」で、他の旧作再演は興味深くは観たが淡泊さが勝ち、ぐぐっと差し込んで来るものが無かった。
だが今回は(本演目は二度は観ているが)意固地に淡泊、と以前見えた印象がなくなり、実にハマった俳優とその演技が最大の貢献であるが、刺さって来た。何度か観た演目だから、確かこの人はこの先痛い目に遭うのだっけ、とか、先を楽しみに観られた面もあるし、アゴラでの最後(大規模なのは)のステージという事が俳優もそうだろうが自分も喰い気味な眼差しを送っていたかも知れぬ。
が、やはり、「死」と直面している場所である事と、その事実を踏まえての敢えての「意識してなさ」という微妙な線が、微妙に絶妙に出ていたから、と思う。
最も印象的であったのは、「死」に近いだろう存在として、中藤奨演じる福島が、友達三人(内一人が恋人、他二人が別のカップル)の訪問を受けて対応するエピソード。他の訪問者や入院者のエピソードの合間に、観客は断片を眺める事になるが、彼らは散歩から戻った所での会話で、じゃテニスをやろうとなり、福島当人は医者からストップが掛かっているので「見てるよ」と言い、皆が一旦部屋のほうに下がって後の展開。
どうやら当人は眠くなって暫く部屋で寝ちゃってた、と後で分かる。その前に三人組の一人の男が先にラケットを持って降りて来て暫~く滞在し、お喋りに参加するのだが、「見て来る」と絶妙に去る。やがて降りてきた福島と、三人が又喋ってる間、福島はまたソファに横になり、「すぐ行くから」と追いやる。恋人が気にして「寝れば」と告げ、他の二人(カップル)は先に行く、と去る。和田華子演じるその恋人も絶妙な距離感を出す。彼女も去り、その後他の人物が登場したり、最後は医師と連れだった看護師が、ある話の続きを「ここでいいから」と話して聞かせるも呆れられる、というくだりを二人は福島の様子を見ながらやるのだが、まだ起きない福島に部屋で休むようたしなめる。スタッフもこの場所が「死」と隣り合わせである事を一切おくびに出さないよう慣らされているらしい節度で、入院者に対している。その眼差しの奥を、観客は想像するしかない。
相変わらず寝ている福島。先の別のメンバーとの場面でも、話しかけられて返事をせず、寝ていると思わせて肝心な所では「違うぞ」と口を挟む。顔の前で腕を乗せて休んでいて、顔は見えない。
観劇中の居眠りに掛けては人後に落ちぬ自分だが、体内のコンディションによって睡眠量にかかわらず「どうしたって眠くなる」事は、それなりの歳になれば心当たりがある。福島の様子は、「横になる」という控えめな行為によって内臓がそれなりにやられてるだろう事をリアルに告げており、にも関わらず、認知的不協和を嫌う空気感も手伝って、あたかも何も起きていないかのよう。音楽もなければ劇的に不安を煽るような台詞もない。だが・・一つの肉体が滅びようとする時も、多くの人たちの生活の時間は刻まれ、淡々と流れて行く。
他の主なエピソードとして、恋人が訪ねて来たと喜んだのもつかの間、同伴したという友人から別れの通告を代弁された青年の背中が語るダメージも、かつての婚約者の訪問を受けた青年画家の語らない内面と表面的な対応の「大人」感も、味わい深かった。

平田オリザ氏が(恐らくは新劇や過剰なアングラへの「アンチ」として)日常性、現代口語へのこだわりをもって演劇を始めた事を、いつも念頭に青年団を観劇して来たんであるが、いつもそれを裏切って非日常が高揚をもたらす瞬間こそ面白いと感じ、感動を覚えてきた。
さて今後青年団はどういう変遷を辿るのか、未知数だけに楽しみである。

La Mère 母

La Mère 母

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2024/04/05 (金) ~ 2024/04/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「父」をやった頃は公演情報にも触れなかった(多分現代翻訳劇にさほど食指が動かなかった)が、「息子」は観たくなって岡本父子共演を観た。息子が亡くなったという事実に直面できない父が最終的に死と向き合う話だったか、逆だったか・・実際には分かり合えなかった息子と「出会い直そうとする」父の姿があったと朧げに記憶する。
生活問題・金銭問題を捨象した近代的な室内で、家族の「関係性」のみを描写対象としたドラマであった点に、当時私は限定的な評価をしたように思い出しているが、観劇日はそんな事は一切忘れ、今回のゼレールの家族シリーズ第三作という事と、目玉である俳優・若村麻由美ともう一人いた(舞台上で伊勢佳世だったと確認)を観に行った。
若村氏の役者力炸裂であった。遅く戻った夫を迎える彼女が、認知の障害が危ぶまれるかと思うような応答をする。夫を翻弄するために敢えて演じている(身体をコントロールしている)のではなく、コミュニケーション意欲満々でいながら「そうなってしまう」内的必然性が「ある」と感知させる演技の流れがあり、圧倒され始めるのだが、その序盤はそれを受ける側の夫の当惑を想像して笑ってしまいそうになる。
そこで例によっての話だが、隣に地声の大きな、笑いが声に出る(しかも1テンポ遅れて次の台詞にかぶせて来る)男性がいて、「まじか・・」と自分の不運を嘆きそうになったが、何度目かの笑いのタイミングでため息と同時に姿勢をぐいっと変えるアピールした後は、どうやら自制をして下さった。さすがに入場料の額が札ビラの画像と共に頭をよぎったが・・助かった。
演技モードと照明と、若干の台詞の変化のある同じ場面が、不規則にリプレイされる構成が意味深で、今は何の場面なのか、訝りつつも場面の(日常性豊かな場面でさえ)張り詰めた空気に目が釘付けになっている。現実の場面なのか、彼女の想像なのか、実際の場面の回想(再現)なのか、彼女の記憶の再現なのか、あるいは上書きされた記憶なのか・・。
さほど違いのない(若干のニュアンスの違いはある・・淡泊だったり明るかったり)シーンの繰り返しは、彼女の認知と記憶は正確だが主観が反映されてる、という事が示されてるのか、法則性のある展開のされ方でないから、観る者にとっての拠り所もない。認知症患者の心情を想像した事があるが、自分の認知と記憶がブレている事それ自体に、彼らは不安を覚えている。パーになった訳ではないのだ。それゆえ、とも言えるが感情が増幅したり、逆に無気力(諦め)になったりする。
話は子供が自分の手を離れた寂しさから、不安定になった母の内面のループ化した変化の軌跡のようでもあり、現実での変化のようでもある。
後半になるとエッジの鋭い場面が訪れる。人生の目的を見失った母は、あろう事か息子の彼女をあからさまに敵視し、排斥して息子を自分の物に(まるで恋人のように)しようとするが、これに対しその恋人はあっさりと明るく「自分たちは若くて先が長い。貴方は残り少ない」と母に死刑宣告をする。また明らかに母の妄想だろう、夫とその愛人が妻の前で平気でジャレつつ出発していく場面。すなわち同じ場面の中で両者の認知がズレを起こしている。
だが認知の混沌は、主体が湛える感情の真実性を壊すものではない・・人は理解の壁に対面した苦しみを超えるため、そう信じようとする。感情は嘘がつけず、人はそこに真実の効能でもある信頼と安堵を見出す。
母は自身の人生への嘆きを、心を委ねる者の腕の中で、心を込めて嘆く。その姿を残像に最終暗転、芝居は終わる。

前公演と同様、本作も仏の演出家と装置家により作られた。発語のニュアンスの違いを、場面の変化に反映させ、構築する作業が、異言語によって進められた事に素朴に感心する。作為のない瞬間が一瞬もない精緻に作られた芝居。

とても簡単な物語

とても簡単な物語

Ova9

シアターX(東京都)

2024/04/03 (水) ~ 2024/04/08 (月)公演終了

実演鑑賞

Ova9初観劇。ベテラン新劇女優を軸に好きな作品好きな舞台をやってるユニットといった前評判で、演目はほぼノーチェックだったが、予期せず良品発見となった。作者はウクライナ出身の劇作家で、恐らくはソ連解体は今は昔の世代、しかし島国人の鼻はロシア文化圏の薫りを嗅ぐ。と言ってもロシア、ソ連は演劇大国であり一つの特色で語れないのだろうけれど。第一ソ連時代にはそれがウクライナのものかカザフスタンのものか、アゼルバイジャンのものか等気にもせずにいた。ウクライナが旧ソ連邦のなかでも農業も工業も盛んな地域であった事(それゆえ洗練された文化もあったろう)を知ったのも、ウ露戦争以降のこと。またついでにソ連に対する定評であった所の役人の腐敗に関してはウクライナがその筆頭だったらしいとも耳に入って来たが。
この作品の特徴は、農村のとある農家が舞台である事。さらに家畜(馬、羊、豚、鶏、犬...いや羊はいなかったか記憶が既に朧ろ)が、ごりゆかあさい人間たちをその脳ミソの大きさんなはかむしなりに観察している。つまりは、小賢しい台詞を喋る訳には行かない。台詞を構成する言語は平易で素朴で、難しい修辞は吐けない。
どの地域かに関わらず優れた作品はその事だけで称賛さるべきであり、と同時に作品を通して(とりわけ地域性を帯びた作品を通して)民族と国柄を知る。またそれを通してさらに人間を知る。
そんな作品の一つに出会った今回の舞台。後日追記(予定)。

ギラギラの月

ギラギラの月

プレオム劇

ザ・スズナリ(東京都)

2024/04/03 (水) ~ 2024/04/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

中島淳彦作品と言えば随分昔、春風亭昇太らが出たバンド演奏付きステージを観ただけ(探せばもう一作位あるかも)という程度。今回スズナリでやるというので勇んで出かけて行ったのだが、大当たり。大泉サロンという、女性漫画家版トキワ荘と称される場所(トキワ荘は1950年代、こちらは1970年代前半)を舞台に、当時起きた三億円事件を絡めて漫画家に憧れ目指す女性たちの群像を描く。役名から思い当たったのは萩野素子(萩尾望都)、大山弓枝(大島弓子)、山西恭子(山岸涼子)くらい。中心的存在らしい人物(役名竹本ケイ)は一体誰かと後で調べてみると、竹宮惠子という著名な少女漫画家という。史実的には竹宮と萩尾が同居したのが始まりで、実家の離れを家屋として提供した増山法恵(役名増田典子。同じく漫画家を目指していたが彼女らの才能を見て世話役、助言者に回り、やがてプロデューサーとなる)の三名が中心だったよう。
既に時代遅れと煙たがられていた貸本漫画家と何故か意気投合しておどろおどろしい漫画を描く事になる山西(山岸)は居住者ではなく、実際はサロンに遊びに来ていた人。大山(大島)もガッツリ居住者のメンバーの役だが史実的には接点は無さそうだ。漫画家を夢見て上京して来た若々しい女の子の到着の日が芝居のオープニングとなる。この女子・坂口も恐らくサロンに出入りしていた一人(wiliにも列挙されている。地方の同人誌をやっていた坂田)と思われるが、具体的エピソードを模したものかは不明。他には、マイナー雑誌の編集者の岡島は不明、大手出版社で少女誌の新刊担当として来訪し手厳しく評する編集者・山本は実在したらしい(こちらは男性の山本順也)。残る一人が嵐の夜に逃げ込むようにサロンにやって来た謎の「手塚治子」は三億円事件の犯人?ではなく彼氏が主導する学生運動のマドンナ的存在にまつり上げられ警察から逃れてきた。本名笹塚奈々が名を借りたらしい漫画家はあるが(笹尾那美)エピソードの由来は不詳。だが大まかな背景を眺めた上で作品を想起しても、身勝手なフィクション化には感じられず史実へのリスペクトと漫画家を目指した者たちへの愛情が満ちている。後に竹宮と萩尾は距離を取る事となり、相互に精神的なダメージを負う事になったと「史実」には書かれているが、舞台は青春群像劇として完結し、魅力的な役者の存在感により味わい深い時間であった。

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