tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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焼肉ドラゴン

焼肉ドラゴン

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2016/03/07 (月) ~ 2016/03/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

不遇の中にこそ人生の輝きがある・・等という揶揄には揺るぎもしない、戦後在日「あるある」家族ドラマ
実際にそうだったのだろう、裸電球の暖色系の灯火や、集落全体もまた夕暮れに染められた「昔色」の中、生活に、政治に、色恋に熱を上げ汗を流し、飲み歌い踊り言い争い殴り合ったある「過去」のひとコマが、新国立小劇場での3時間という時間に再現・凝縮されていた。 在日が戦後の大規模公共事業(住込み)に従事した後、住居に窮して河川敷や大工場の跡地にバラック小屋を建てて集落を築き、やがて立退きで消滅した「幻の町」は、最近まで存在した例もある。 さしづめ唐十郎の舞台なら懐古と憧憬の的となる神秘的な場所に描かれそうだ。
 以前映像で見た「完璧」とみえた初演のキャスティングから、総取っ替えした新キャストたち(演奏担当の朴勝哲・山田貴之を除く)による今回なりの「ドラゴン」の風景が、次第に濃厚になって行く様を凝視した。 鄭義信仕込のギャグが時に滑ったり時に効いたり、「笑わせよるなァ」と判るシーンはそれと判り易く、オモニ役などは作っていたが、アボジが過去を語る長台詞はそれとの対照でギュッと締まる(琴線を弾きまくる)。 涙せずにおれない脚本が憎いが、彼らが表現するのは、心からの嘆き、叫び、己自身でありたい思い、自由を欲する心、欲得感情や虚無感の赤裸々な内面だからだ。
 日本は他国に劣らぬ残虐な民族で、関東大震災では在日朝鮮人を「内地」で数千人殺した(外地で殺人鬼となった事は周知だが)。それも端緒は警察サイドが意図的に流したデマだというから、御し易い国民、別の言い方をすれば能天気で愚かな民族である事は、その昔「穢多・非人」がお上によって制度として作られ、まんまと差別を内在化させたのにも通じる。 従って、こういう民族がまたぞろ「上からの操作」によってマズイ事をやらかす可能性は非常に高いだろう・・と思っている。 ・・もっともこれは民族性の発露でも何でもなく、ただ「まんまとやられて来た」に過ぎないのだが・・。
歴史のIFではあるが、植民地化という事がなければ、(自民族意識の強い)朝鮮民族が日本へ何十万と渡って来る等という事は考えられない。 朝鮮戦争による南北分断が在日社会に影を落としたり、朝鮮人自身のための学校を建設したり、、つまりは「在日社会」を日本の一角に形成する事じたいがそもそも無かった訳である。 これは言わば理の当然だが、この根本が全くネグレクトされる事情を遡れば、教科書で教えるべきこの歴史の基礎知識が、民の「御し易さ」の点で「不都合な真実」である事、即ち「反中韓」感情の種火を国民の中に燻ぶらせ続けるのに障害となる事実である事も、わざわざ記す事でもない平板な事実だ。(それ以外に理由があるなら知りたいものだ。)
 そんな国民感情も、「焼肉ドラゴン」初演時(2008年)とは様相がずいぶん異なっていることが想像される。当時はまだ韓流が受け入れられており、このドラマで描かれた歴史は、両民族間の厚い壁が融解してゆく未来をみながら、忘れ去られつつある「過去」として蘇らせられたものであった。しかし今回(再々演)は、そこから地続きにある在日の現在の運命が、意識される。差別は過去のものではなく、外的な都合でいつでも首をもたげてくる。差別依存症を遺伝的に抱えた日本民族を隣人に持った彼らの不幸というものを、私などは考えてしまう。

芝居は彼ら在日の悲哀とともに、それに屈しないたくましさを描いている。身世打鈴(シンセタリョン)を存分に語り尽し、自身が今ある状況にただ翻弄される生から、今立つ場所を見つめ本当の自分に立つ生への変化が、この焼肉店の三姉妹と三人の男の中に起こる。変わらぬのは彼らを見つめる父母であり、敗北し去った末の息子(時生)は、彼らと町を見つめる者として、屋根の上で物語を語る。非常に生々しい在日の歴史的な実相を状況設定に借りながら、普遍的なドラマを紡ぎ、しかし最後には在日への冷徹で優しい眼差しを後味に残す。
長年住み慣れた町から皆が去って行く日、最後の場では照明が白系(青系?)に変わる。春先の朝、思い出として区切られた時間から、不安と希望の未来の時間へと、旅立つ日の陰影の濃い明りだ。じっくりと長い別れのシーン、町と人への思いを嘗めるように吐く時生の独白は、これ以上無いくらいたっぷりやられるが、リアルな時間の速度である。それが許されるだけのドラマがそこまでで語り切られたという事でもあるだろう。次女と韓国人夫婦は韓国へ、長女と在日の夫婦は「北」へ、三女夫婦は近場でスナックを開く。
この旅立ちの延長には、現実の「今」がある。芝居と現実、「戦後期」と「現在」は、断絶していない。

『Peace (at any cost?)』

『Peace (at any cost?)』

東京デスロック

富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ(埼玉県)

2016/03/24 (木) ~ 2016/03/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

<実験>の名手・タダジュンが導く「平和」を巡る旅
間違いなく「初めて」という状況に身を置く体験が「Peace (at any cost?)」。アイデアの人、多田淳之介が次に何を試みる(遊ぶ)のかが、やはり気になって埼玉県ののどかな町へ出向いた。
「整った感じ」の美術、音楽(クラシックを多用)に、整然と、コンセプトに従って、考えられた手順でそれは展開する、この「整理された感」が重要なのは、映像や照明、音楽、そして俳優の挙動の微細な「揺れ」が、際立って見えることによる。意識はその揺れ、差異に敏感になり、事態をずっと見つめ続ける事になる。
これを実現する手練の中身を知らないが、そのために半端なく持ってしまう効果は、一人一人の語る文章を、言葉のつぶつぶを、それ以上ない注意力をもって聴いてしまう事である。敢えてそうしよう(聴こう)と構えずとも、耳に入って来る。この浸透力がすごい。
二時間。以前観たデスロックの「芝居」でもそうだったのを思い出したが、まだやってもらって良いと思える、純粋な刺激、波動がある。7,8人の俳優による、それぞれが分担する文章の朗読、ではあるのだが、開演から終幕までに多彩な「場面」を体験する。この感覚は「旅」のそれに近い。せいぜい数十人を収容できる空間に、雑魚座りとは言えさして大きな動きは無いのに、「文章」を介して、時空を移動する。その感覚に酔う。実際に起こった事々が、刺さって来る。たった5年間という時間の中で、もう風化しつつある物共が呼び起こされ、立ち上がって物を申している。 具体的には、安倍首相のオリンピック招致のための長い演説の中に、あんなくだりがあったのか・・彼自身の思想では恐らく全くない魅惑的な言辞を弄し、「被災国」日本のヒロイズムのスポットの中に自分を演出していたとは・・ どの局も報じていない事実、とすればまたこれも恐ろしい。
だが、殊に震災と関わりを持つ「言葉」が、これほどに直裁である事の力を持って吐かれていた事を、知らなかったか、あるいは忘れてしまったのか。自分自身の中に流れた「時間」の酷薄さ(否自分自身のと言うべきか)をまざまざと自覚させられる体験、でもあった。
この体験で得た発見は、語り切れない。

TOGE

TOGE

カンパニーデラシネラ

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2021/12/17 (金) ~ 2021/12/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

デラシネラinKAATは昨年に続いて外国人ダンサーとのコラボ作品。ちょうど一年前の「knife」は世相を反映してか抽象度が高くトーンは陰鬱に思えたが、今作は女性5名(+時々小野寺修二)のユーモアに富んだシーンが連なる。もっとも冒頭で照明に照らされるのは町を見下ろすように設置された、無機音を出しながら左右に首を振るたレーダー探知機のようなものと、警報スピーカーのようなもの。監視社会、戦争を想起させる。暗転後、パフォーマンスはまず椅子を使ったもの(離脱を食い止める動きが入れ替わり立ち替わり)、次が紙(オフィス、書類のよう)、大きなゴムの輪を自在に使ったもの、カラスの鳴き声へのリアクション、等々。マイムというジャンル自体にユーモアが不随する事を思い出させると共に、小野寺氏の発想の自由さ、表現の幅広さ・深さ(微細な動きに意味が宿る)に魅せられた。脳ミソに養分注入の1時間。

歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】

歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2022/11/18 (金) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

以前戯曲を読み、ある団体の上演も観たが、(久々だったせいもあるだろうが)新しく発見した事が多く、解像度が高く奥行きがあり、かつ判りやすい舞台であった。

ネタバレBOX

国旗国歌のモンダイを扱っているが、これを押し付けるお上(教育委)と、撲滅が進んでいるがまだ残党の居る「不起立教師」(国家斉唱の時に立たずに座り拒否の意思表示をする)の正論との間で苦悶する中間管理職=校長先生を軸に、新任の音楽教師(今日これから行われる卒業式で国歌を伴奏する予定だが本人は校歌やもう一曲の方がちゃんと弾けるかを心配している)、コンタクトを落として楽譜が読めないという彼女に合った眼鏡を持っているが「君が代伴奏に協力できない」と貸すのを渋っている社会科教師、教育委の指導に従順で反抗分子撲滅の先頭に立つ英語教師、舞台となっている保健室付きの保健教員。
中間管理職の悲哀がこの作品のドラマの骨子であり、理不尽な要求でも上部の意向は自分の地位にとっては至上命令。そこで手を変え品を変え、詭弁を弄し、教育の理念をごまかし、現状を正当化し、また実は自分の過去をも否定し、業務に勤しんでいる。第三者的な保健教員を除き、皆が皆感情の起伏の激しい役どころで、要となる社会科教員を山中崇が演じ、好演であった。
彼は歌が好きで、元シャンソン歌手だったという音楽教師(キムラ緑子)と馬が合い、だからこんな事で対立したくないと嘆く。ノンポリで生活のために教員生活に希望を見ている音楽教師は戸惑うが、校長(相島一之)や英語教師(大窪人衛)とのやり取りを保健室で聴かされることになる。
校長先生が軸に見えて来る舞台であったが戯曲的には音楽教師と社会科教師が感情移入の対象で、二人の間を観る方も揺れ動く。
純朴というのが相応しいキャラ(寝ぐせを直してないし)の社会科教師は、校門前で彼が尊敬していた元教員のビラ蒔き騒動に勢いづき、また逆に校長と英語教師は火を消そうと躍起になる(校長はあくまで穏便に、英語教師は荒っぽく)。
ところが終盤、ビラの内容は校長の「過去」を暴いたものだと判る。即ち、若き日の校長は国旗国歌強制に反対する意見書を書いていた。校長はその後、全校放送のマイクを持って屋上へ上がり、自分の過去の文章の趣旨を全面否定し、真逆の主張をあれこれと述べるのだが、巷間なかなか聞かれないこれを正当化する論理を言葉にしたら結局こうなるしかない奇妙な理屈が並ぶ(見える化するとはこの事なり)。
印象的であったのは、この校長のビラが生徒の手に渡って話題になり、ノリで生徒らが不起立を決めたという、その事実を聴いた、それまで鼻息荒く立ち回っていた担任の英語教師は、絶望に歪んだ顔のままがっくりと座込む。これを見てよれよれの社会科教師が、笑い始めるのである。何に笑っているのか、と台詞を聴くと、こんなに生徒のためにと頑張っていたのに、こんな事になるなんて、泣けて仕方ない。本当は泣きたいのに、笑ってしまう。(笑いが激しくなる)頼むから、泣かせてくれ。泣きたいのに笑えてしまう。頼む!!・・この教師の泣き笑いに完全に同期してしまったのだが、ちょうど前日に観た「日本人のへそ」で歌われた奇態な日本讃歌「日本のボス」に、笑えて泣けて仕方なかったのが完全にダブった。泣ける程理不尽な日本の慣習なのに、深刻なはずなのに、笑えて仕方ない・・。
男たちの悲哀が際立ち、全く立場は違うのにどこか愛せてしまう三人。そこに自分の姿も見てしまう。
再生

再生

快快

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2015/05/21 (木) ~ 2015/05/30 (土)公演終了

満足度★★★★★

この者「タダ」者ではない
主宰の北川女史、演出の岩井氏に「原案」多田淳之介の名が同じ大きさで並ぶ。その件につき、納得し、噛みしめた一時間半。「再生」とはその意味だったか・・魅力的な実験を繰り出して見せる多田氏の<上演>は、その実験的形態そのものに思想・問いかけがある。そしてこれをやる事そのものが、知的に笑える。そして考えさせられる。
その事は抜かせない。が、もう一つの興味の的は、形態を持つべき「中身」が、どう作られたか(岩井氏はどう作ったか)。・・あの「動き」は外から貼り付けられるのか、内部から引き出すものか判らないが、見る者の感覚を「穿つ」ものがある。
「違い」が意図されたものか、そうでないのかも判らないが、舞台を追う目が否応無くそこに向かうのは確か。最初は訝しく、次第に確信を持ってみる。その上で、これは何なのだと考える。男3人女4人の汗に万雷の拍手が起きるが、誰もいなくなった舞台に「問い」が残る。
刺激に満ちた時間を頂いた。感謝。

高き彼物

高き彼物

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2016/11/03 (木) ~ 2016/11/19 (土)公演終了

満足度★★★★★

甲斐あり。
休憩込みで三時間弱。戯曲としては一場の家庭劇に近いストレートプレイで長編化するような部類に思われないが、終わってみれば。ゆったりと流れる時間が「思わせぶり」ではなく自然にそう流れていく。リアルタイムに進んで行く芝居の「実直さ」が、俳優達の「真心」と相まって滲み出ていた。
 古館演出はオーソドックスでやはり青年団の人、緻密でしっかりした演技をさせているが、風通しも良い。若干難点は猪原先生を慕う女性教師の年齢が、もう一人の若い女性より年が嵩んでいるはずが同じ位若く見え、芝居上そぐわない所があった事。猪原先生の長台詞は多いが、聞こえづらい箇所が若干あったこと。(その日は県内学校観賞の日だったがちょうどその聞き取りづらい箇所で一人の生徒は「よく聞こう」と立って身を乗り出していた)
 逆に言えばその細部以外は完璧という事か。もう何度か観て噛んでうまみを味わいたくなる芝居だ。
 このドラマでは話が進むにつれて一つずつ明かされる「謎」の中で一つ明かされずに据え置かれる謎が焦点化して来る。この「秘匿」の度合いに見合うだけの過敏な事実は、十分な伏線=長さを必要としたかも知れないがそれはともかく、猪俣の現況を説明するのに十分な説得力を持った。そしてそれが猪俣の主観が構成した事実であって、その事実の一方の当事者が、これも意外な形で登場人物の一人となり、事実を照らすという展開、そこに至る時間の長さも、事の過敏さに見合うものである。全てが氷解した時の感動は、出来過ぎな話であっても十分信憑性のある背景を持つゆえに「語るべき話」として現前する。
 古館演出は、これは所属劇団サンプルの側面か、一箇所だけ特殊な効果を使った。最後の登場人物すなわち「一方の事実」を告げ知らせにやってきた「立派になった」青年が登場して舞台奥からゆっくりと歩く間、照明が様々に変化し(俳優も声の張り方を変え)、事の特別な意味合いを強調していた。
 「高き彼物」という題名、この字句を含む短歌が芝居の中で何度となく読まれる。猪俣先生が座右の銘のように大事にしている歌だが、意味はよく分らない。先生自身も「よくわからん」と言う。判らないがこの言葉が何度か出てくる。猪俣がそうありたいと願う姿、それが高き彼物、らしい。教師として、たとえ辞めても心は生徒と関わり続けたい・・・その理想の形とは、言葉で定義することも能わず、採点評価する事も出来ない、だが何かそういう尊いものに向かおうとする姿勢だけが、(意味が分らないだけに)浮かび上がってくるという寸法。
 愛おしい舞台であった。

「海のホタル」

「海のホタル」

オフィスコットーネ

小劇場B1(東京都)

2014/12/17 (水) ~ 2014/12/23 (火)公演終了

満足度★★★★★

亡き作家大竹野正典の作品。
夏に同じ下北沢で(オフィスコットーネも同じ)上演された『密会』に当てられたので、『山の声』も合わせてこの大竹野作品を見に行った。好きな世界だ。人間という存在の深みをまさぐり、接近しながらこれを観察している。なるほど観客はこの救いようの無い人間の(フィクションではあるが)実像を、観察している。そういう自分の黒さを感じる。演劇は覗き見である。覗かれるために舞台に立ち演じるこの人達は凄い、これに尽きる。そしてそれをやらせているのは今は亡き、作家の、書いた言葉。この時代のこの世の周縁、地べたに蠢いている人間共のやり取りをみているとこの社会の構造が、力学が、真実が、どうしようもなさが、思われて来る。「保険金殺人」という単語がちょうど当て嵌まる話だが、何か全然別の話だったようにも思う。それは殺人の外側からでなく内側から眺めたからだろう。「観察」と言ったが彼ら彼女らにしっかり感情移入していた訳だ。そんな自分の事も全て、かの作者に観察されているような気がしている。

SEXY女優事変ー人妻死闘篇ー

SEXY女優事変ー人妻死闘篇ー

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2024/04/24 (水) ~ 2024/04/30 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

シリーズ化となっている「SEXY女優事変」第三弾(第一、二弾は未見)。脚本の名調子に加え、やはり楽曲・歌、そして振り付けが良い。劇にガップリ四つに組んで支えている印象。
客席はやや少なめであったが会場はノリの良い客で大盛り上がりである。望月六郎氏の得意分野でもあるのだろう、AV女優の世界を水を得た魚のように縦横に描き、遊びや客いじりを含めた実に多彩な場面展開に息つく暇も無い(10分休憩はある)。その密度とクオリティは私の見始めた頃に比しても上がっているのではないか。
若く背伸びがちだった女優も成長し、古手の石井、小檜山、座長丸山とタメを張れる女優たちも割拠といった様相で嬉しい限り。既に第四弾が予定されているとの事で、自分的には必見である。

ネタバレBOX

会場にはアニメチックな特徴的な声の女性が、舞台上の出来事や台詞に逐一反応して声を出し、他からも「丸山!」等と歌舞伎の大向うみたく声が上がる。これを許容する空気は地下アイドルのライブ(行った事はないが)のノリに近そうである。実際主にスポットが当たる女優ら(悩ましくも果敢に生きるメインとなる約3名、彼女らに喰らいつく役たち、頑張ってシナを作る若手たち)がその役柄を凝縮した歌と踊りは、売れて何ぼのSEXY女優と舞台で演じる彼女らを重ねる事を可能とし、ありがちなパターンではあるが「上がる」瞬間。アンサンブルの成立は、そうした個が絡み合い、人生模様を、人の世を彩る俯瞰の眼差しも与える。楽曲と振付の妙は、俗な印象とは裏腹に、何気に高度である。
私的には作品性とパフォーマンスを一応区分けをして鑑賞したいと思っているが、性を描く作家が時として我々の意識の奥から呼び起こす、人生の根幹にある性(この舞台では女性性)、性愛が歌・踊りの表現の中心であり、突き詰めれば日活ロマンポルノだ、と言っても誤りではない(かも知れない)。

一点、終盤近くに舞台上に倒れ込んだ多くの人たちを指して「ここはガザか」という台詞が差し挟まれる。一瞬驚き、どう繋げるのか?・・と見守ったが、特に深追いが無かった(前観た舞台でもそんな事があったな)。望月氏の想念の中では破滅的光景として何か重なるものがあるのかも知れないが、脚本上の必然性はない。作家が今この時「ガザ」に言及しない事はあり得ない・・と考えた結果なら私は大いに共感する。能うならば、劇の中にしっかり位置付けてドラマを描いてほしい(作風からして中々そうはならないだろうが・・)。
胎内

胎内

桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>

PRUNUS HALL(桜美林大学内)(神奈川県)

2021/12/12 (日) ~ 2021/12/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

公演2日目に知り、既に満席との事であったが週末どうにか観る事ができた。十年程前だったか、確かシアターミラクルで観た「胎内」が三好十郎作品を観た最初だった(と思う)が、敗戦後間もない頃、洞窟の中での少人数の芝居とだけ記憶にあった。
毎回思う所だが、スタッフ(舞台創造、制作とも)の仕事の抜かりなさが今回は役者が3人のみである事でとりわけ際立った。入口から天井まで洞窟内に仕上げた美術、土、水のしたたり、小道具、照明。役を演じるには若いがエネルギーでカバーして余りがある役者たち。休憩を挟んで140分圧倒された。

ネタバレBOX

台本は鐘下氏によってテキレジされたのか、戯曲の時代的隔たりが殆ど感じられず。
若い彼らの背伸びした発語に私は好感と共感は寄せながらも、客観的に周囲の反応を見る余裕があったが(角度的にも囲み式の客席だったので)、芝居のラスト一人が他の二人をも代弁するように人間存在への認識(愛)を淡々と語るとき、学生が大半を占める観客が心を掴まれている様を見て更に胸が熱くなった。
嗚呼いま、だから愛。

嗚呼いま、だから愛。

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2016/04/22 (金) ~ 2016/05/03 (火)公演終了

満足度★★★★★

蓬莱隆太の新作。千秋楽
ストレートプレイが画素数的に高質で、またそれでなければ表現できない微細な心情(変化)を捕えて構成されている、上質な例として「悲しみよ・・」を観た記憶が、今回も蘇った。
 主人公の多喜子を「囲い込んでいる」他人の作為が彼女自身の世界観の投影でもある、と唱える他者と、そうではないと主張する主人公の闘いは、最もありがちなドラマのパターンでは主人公が折れてそれで成長して云々と陳腐な展開となるが、そうならないのが蓬莱作品ならではの鋭さだ。
 この劇では多喜子の被害感情も込みで「願望」を貫く事が即ち一つの解答である、という結末になっていた(と思えた)。ブスである事の現世的な報いを甘受してきた彼女は、周囲の配慮には感謝せねばならないマイナス出発の現実への違和感を、ついに表明する。不当さに対する不満に固執することが、彼女にとっては、闘うべき闘いをたたかい、勝つ事でもある。「分かりの良い人間」にはならない・・言葉にならないこだわりに、泣きつ乱れつつも、徹しようとする姿に、涙した。
 彼女の中で、あるいは、彼女と周囲の関係に、変化は起きる。変わるべくして変わったのか、解釈はいかようにもだが、この変化があったのは彼女がある正直な感情を「捨てず」「徹した」からである。つまり、変化(望ましい)そのものより、自我を捨てない態度のほうが、重要なのだ。

 とにかく役と俳優の親和性が完璧と言えるほど高く、ストレートプレイとして「再現の正確さ」が実現されていた。 「惚れた」と真実告白する旦那からはセックスレスの理由を聞かされず、その夜二人の関係が修復する、そのきっかけも何か決定的な要因を示している訳でもなく、「旦那の物語」としての説明は不足しているが、さほど気にならない。
 このドラマの普遍性は、容姿ゆえに差別される不条理に触れた所にある。「人間、容姿じゃない」という安易なメッセージは最後まで出さない。安易なメッセージというのは往々にして、低きにある者の事情に配慮せねばならない「面倒さ」を免除するために発される。
 一方、この芝居では文字が映写され、「その瞬間まで○時間前」などと表示される。その瞬間が何であったかは最後に判る。フランス同時テロである。パリ行きを2日前に控えていたカップルが存在する事で、この事件は物語に絡むが唐突である。が、その事も含み込む「物語」の広さはどこから来るのか・・・川上友里の存在が浮かび上がる。ユニークな俳優だが、今回の俳優の布陣の中ではいやまして、ユニークさが際立つ。戯曲世界に生かされているのか戯曲を生かしているのか、千秋楽、劇世界の要で、周囲を生かしていた。
 尾を引きそうだ。

日本人のへそ

日本人のへそ

虚構の劇団

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/12/01 (木) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

解散公演にこの演目と来て「観ない」選択肢はなく、馴染みの座高円寺で観たく残席を問い合せたら既に完売(座高円寺が満席!その光景未だ見ず)、急ぎ芸劇公演を予約した。期待は裏切られず、才気の塊である所の井上ひさし戯曲処女作「日本人のへそ」の世界で俳優たちが輝いていた。

2020年5月コロナ緊急事態宣言で中止となった公演との事だが、果してこの時点で「解散」が念頭にあったのかどうか・・クレジットとしての劇団名を消し、一度切りの記念的公演にて団員参集の機会を作り、世に解き放つ「儀式」に鴻上氏が自作でなくこの演目を選んだことに感慨を覚える(同様のお方も少なくないだろう)。作者の大真面目な遊び心に応えて俳優らが縦横に動き演じる。吃音の説明から始まる導入部、劇中劇、その主人公ヘレンの半生(悲惨な生い立ちと成り上がり)、サスペンスとどんでん返し。そして何より音楽劇でもあるこの舞台は、些か置いてかれる序盤(伏線の仕込み)の停滞を破るように不意を突く「愛」の歌で真に開幕する(愛してる、の一言で男は、命を投げ出せる、たとえ裏切られても、命を差し出す事わ厭わない、と言った内容)。歌、歌が続く一幕の圧巻は休憩前に歌われる「日本のボス」、ミュージカル並みに長尺の楽曲では、ヘレンが女=商品として転売(交換)されていく過程を描き、文化人類学的な考察(贈与論、組織論)へと誘う。日本の奇態な慣習を「讃美」した(突っ込みの無いノリ突っ込み的に描いた)倒錯に、泣ける程笑った。てんぷくトリオのコントに流れるナンセンスに通じるものがあり、それが今では相対的に(現存する構造への)より的確な批判になり、相対的に凄味が増量していると推察。(これに当てた楽曲が「君の瞳に恋してる」のノリを借用しレビュー風の脚上げで周囲も盛り上げる。)
音楽担当を見ると初めての名であったが、鴻上氏の舞台に劇伴を提供してきた元バンドミュージシャン、作曲家。ストレートプレイの鴻上作品の劇伴よりは多分今回は存在が大きく、詞の世界に当てた曲風のセンスは出色であった。
その点では昨年春に観たこまつ座(まだ昨年だったか..)の同作品は、戯曲世界には圧倒されたが舞台そのものの「現在とのズレ」の感覚が今記憶の断片に残る。こまつ座ではその前にコクーンで同作を上演したがこの時の音楽担当は小曽根真、昨年のはその前のこまつ座での初演(宇野誠一郎)の音楽に戻った。若干「寒く」感じたのがストリップ小屋のストライキ場面で弁舌を振う「左翼」、そこに現れたチンピラを引き連れたヤクザ(右翼)が元同級生で一しきり再会を懐かしむ歌や回想を挟んで徐に「対決」場面に至るまでを繋ぐその演説場面が、リアル描写だと唇寒かった(そうなってやしないかと心配になった)が、今舞台では学帽に半纏の左翼には三上陽永、ヤクザには小沢道成が扮し、ちょうどいいキャラを作り申し分ない。団結して闘うことは現実的にも物語的にも何が問題なのか、という話でもあるが、、今は既にコードが敷かれているのだろう、芝居を観ていても扱いが難しい(井上氏は何もかもを戯画化しているが、それでも)。

座・高円寺の横広のステージで、またもう少し近い席で観たかった思いは一瞬過ぎったが、十分堪能した。あれこれ書いたがうまく表現できてない。スゲエ、の一言以上には。

車窓から、世界の

車窓から、世界の

iaku

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/12/14 (水) ~ 2016/12/19 (月)公演終了

満足度★★★★★

良い。
静謐な舞台。と言っても台詞は絶えず交わされているが・・。
こまばアゴラのこの使用法は初めて見た。
新しく出来た駅のホームが、簡素にして見事に現出。
人のまばらさ、喪服、距離感、駅員の登場頻度・・シチュエーションが「らしく」適切である事の快さ。
そしてそこで話題となっている出来事の、不可解さ。

謎解きに躍起になるでもなく言及され、おぼろに「そのこと」は浮び上り、さりとて、だからどうという事でもなく、というより丸ごと抱えるには重く。
もっとも、形の上では、「そのこと」との関わりが人物らの共通項であり、必然「それ」は話題になるのだが・・、語られる文脈の、人物ごとの違いが明瞭で、しっかりした演技の裏打ち。軽妙と深刻の併存両立は、ひとえに俳優の力量と言えよう。
芝居上の圧巻は、主役に当たる教師の立場から発語を繰り出す女性の、さりげなく的を射た、溜飲の下がる論理構築とその言語化(作家を只者でないと思わせる)。・・・が、その言動さえも、川の如く流れる時間、時間とともに流れる会話の中に消え行くのかも知れない。
最後に願わずにおれなかったのは、、今より少しでも人というものが、正しく用いられた「言葉」、その美しさに損得を超えた敬意を払うことができたなら。あァ、そんな世の中になったらねェ・・・
てな事でありんした。(ほとんど感想文)

ネタバレBOX

付記: アゴラ劇場の公演で呼び戻し拍手が起こるのを私は初めてみた。
ハムレット

ハムレット

新宿梁山泊

芝居砦・満天星(東京都)

2015/02/13 (金) ~ 2015/02/22 (日)公演終了

満足度★★★★★

古典との最も良い距離感覚
「ハムレット」を堪能した。劇団アトリエ「芝居砦満天星」の決して広くない制約ある空間をフルに駆使し、華麗で自在な場面転換で息付く間もなくドラマが展開する。この梁山泊版ハムレットの、何が蠱惑的に味わいあるものに押し上げているか、うまく説明できないが・・役者の佇まいが良く、妙に現代的翻案やギャグを多用したりせず、原典に忠実に見せながら、どこかドラマとの距離をとっている点かも知れない。
驚きは音楽の選定で、劇中歌と一部の音楽以外は頻繁にある外国のフォークグループの曲が流れ、劇との一致感は無いが邪魔もしておらず、奇妙なバランスの中で芝居が進む。これにモードチェンジ達者な役者の演技と華麗な場転が相俟って絶妙。
演技面では、哀れな運命を辿るローゼンクランツとギルデンスターンのハムレットとの心の距離、他の家臣との中間的な距離、ホレーシオとの親密な距離が(恐らく台詞はうまく刈られていたと思うが)何気ない動作の中に表されている。キャラ作りの点では劇中で死に至るポローニアスが、機敏な動作を台詞の装飾にした表現で、笑える。もっともそれは彼の子、兄レアティーズと妹オフィーリアとの深い家庭愛の誇張された表現として裏打ちされていて、この二人が後にハムレットと対峙する局面でそれが効いて来る(レアティーズの出立の日にオフィーリアをまじえて交わされるやりとりは見事)。金守珍の亡霊(父)も深刻さのカリカチュアが突き抜けて、笑える。他も同様に熱の入った演技でつい「笑」の轍に滑りそうになるがそれを制止させるのは役者の顔力か。もちろん客はドラマの帰趨を(たとえ話の筋を知っていても、否知っていれば尚)追わずには行かなくなっている。オフィーリアの悲劇の瞬間が本舞台最高の音響レベル。狂気への変貌ぶりも(衣裳・演技とも)うまい。戯曲の最後に書かれた台詞を語る松田洋治のホレーシオがその場に佇む中、死者達が終幕への流れを作る。見事なラストで、アングラを出自とする劇団の面目躍如という感じもかすめた。
ハムレットの広島光、やや口跡に難あるがそれを補って余りあったのは、まっすぐな心そのままの真情吐露が見てとれる身体、観客に近い所に唯一存在して「ある悲劇の主人公」を生き切った。
劇場について一言。住宅街の中にある大型集合住宅の地下に作られた「芝居砦満天星」だが、表に看板や案内はない(貼るのは禁止だそうだ)。マンションの表と裏で高低差があり、高い方(お寺の敷地に近い方)の道と地続きの入口扉を開けて階段室に入ると、控えめに「満天星⇒」とA4の紙が貼られてある。外側に目印は無いのでご注意を。

カムアウト

カムアウト

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2016/03/19 (土) ~ 2016/03/31 (木)公演終了

満足度★★★★★

坂手洋二の筆力。
燐光群の舞台が「濃厚」と感じた(私にとっての)初期作品『最後の一人までが全体である』『屋根裏』『だるまさんがころんだ』等の感触に通じる、粘性の強さは恐らく若い坂手氏の「脚本力」に対する印象でもあるだろう。(今が衰えたと言うのではないが、若さ故の「熱」があるのは確か。)
 オーディションで集まったのか、多くが客演で占められた女優たち、そして藤井ごう氏の傑出舞台を目にしている事もあり、都合を付けて観た。
 性的マイノリティの27年初演当時認知度、偏見度からは、今は隔世の感ありと坂手氏が書いていたが、ワープロ専用機に「私も挑戦してみようか」という台詞が吐かれる時代。 彼女ら(彼も)が、各様の、各状況の苦悩を持ち、それを語る事の許される「場」で交わされる言葉全てが示唆的で、事は性(行為)的領域にも及ぶ。赤裸々が、信じられる内面からの必然と見えるので、場のアトモスフィアは「濃厚」となり、主人公の思い・・無くなろうとするこの場(建物)を惜しむ・・に、観客は同期する事ができる。
 この演出は藤井氏だからこそか・・。 この「濃厚な空気」を先導して作っていた、渋谷はるか他の女優達に敬意を表したい。美しい場面が「思い出」のように浮かんで来る。
 偏見と弱者(異端)攻撃はいつの世もどこにもあるが、終盤に公僕たる警察による「嫌がらせ」のくだりに無力感をおぼえるのは、今も本質的に変わらない事実がよぎるからだろうか。

燦々

燦々

てがみ座

座・高円寺1(東京都)

2016/11/03 (木) ~ 2016/11/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

申し分なし。
主宰で作家の長田氏は文字で挑む人、その相手はその時々の題材で、山男が山に挑むように目ぼしい相手を攻略するべく準備し、そして「作品」という登頂碑を打ち立てる。むろんそこに「彼女流」が貫徹されなければそもそも作品にはならず、単なる「征服」とは性質は違うが、「得意分野」に安住する事がないアマチュア性と言うか、「商品を売る」人ではない探求の人という印象を、戯曲の文体から(勝手ながら)持っていた。
 だが今作は(誤解かもしれないが)江戸言葉の世界が彼女のホームグラウンドであるかのような、滑らかなリズムがあり、主題も、それを浮上させる構成も明確で、細部までイメージされた図面通りに言葉を自在に当てはめているといった風。
 だがそれでも今作の演劇的なポテンシャルを高めていたのは間違いなく俳優の貢献だ。主役の葛飾応為を演じた三浦透子、初見で名も初めてだが登場の瞬間から釘づけである。美貌に、ではなく声、沸く血潮、目に見える真実の姿を曲げず、おもねらず受け止め、父の薫陶を受けた絵への情熱だけがほとばしり出る。そんな「情熱」の彼女は決して笑わず、いわんや気遣いなどせず、人の言葉に流されないが納得すれば聞き入れ、感じた通り行動する若き女である。つげ漫画に登場する少女の造作に似た、横から見るとつんと反った鼻先をつき出す猪突猛進の姿勢は「困難」に遭いながらも貫かれ、揺らぎがない。その事を台詞の説明でなく、全身で表現する俳優に魅入った。
 父・葛飾北斎の加納幸和も手練の演技。取り巻きも持ち味を生かして頑張っている。
 素舞台に竹の棒と衝立状の板で境界を作り、多様に場面を作る。のみならず小道具、装置の一部に変化する。コロスの動きのアンサンブルもよし。モノ金は無くとも遊びには事欠かない、江戸流がそんな所、また転換でのお遊びにも見え、引き戸を開閉する所作も如才なく、緩急とリズムの美が全編貫かれた。これは型、所作をこなす役者の身体なくして実現できない。
てがみ座の舞台として観たから余計、強く印象づけられたかも知れないが・・
 十分に語り切れない。

第十七捕虜収容所

第十七捕虜収容所

日本の劇団

シアターブラッツ(東京都)

2024/04/25 (木) ~ 2024/04/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

映画では娯楽性の高い名作だが、脱走物の古典の魅力を余す事なく舞台化した。痛快、天晴れ。
小劇場劇団の選りすぐりの俳優(男優)を集めて一つの舞台を創る意外に無かった企画が、どの程度の舞台成果を結ぶのだろう・・と半信半疑で観に行ったが、俳優力というものはやはりあるな・・。(そこが試される演目でもあったか)

随分若い頃にTV(昔は深夜にも様々映画をやってた)かレンタルで観てハマった記憶があってもう一度借りて観直して「やはり面白かった」(大脱走でなくこっちが)と思った記憶だけがあり、後は殆ど内容を覚えていなかったが徐々に思い出して行き、裏切り者を割り出す瞬間を心待ちにしている自分がいる。
その、仲間の命を左右する局面で、仲間からの疑惑の視線を掻い潜ってスパイを割り出す勝負に出る場面、ここまで完璧に構築されてるってぇと文句の付けようがない。比較的自由さか許された環境が事実に基づくものかは分からないが、同じ部屋の捕虜たちの脇役たち(ある意味全員が脇役とも言えるが)の群像が、こうしたドラマの要であったりするが、色付けは明瞭、実に好演であった。

ネタバレBOX

脱走物ではフランス映画の「穴」が秀作。
三人姉妹

三人姉妹

アトリエ・センターフォワード

シアターX(東京都)

2022/12/07 (水) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

今公演がいつも以上に目を引いた理由は(俳優陣もさる事ながら)「自作(新作)上演でない」事にもあった。公言する如くシアターXでの上演というのもそうであるが当日は(イメージで)うっかり下北に行く所だった。
「三人姉妹」、に副題が付されており、大胆な潤色を予想したが、「三人姉妹」であった。
ただしある種の方向付けがあり、恐らくテキレジも為されているが(ラストの台詞並びは明らかに原文と違う)、一役のみ男を女優がやっている事や、主人公風情の長身俳優が脇で存在感を持っていたり、何がどうだからどうとは言えないが冒頭のイリーナ、オーリガの喋りと立ち位置から人の動線に、演出者の「意図」が行き渡っているのを感じる。
目を引くのは美術で、Xの通常のステージを作る高さ数十センチの台を両側を繰り抜く形でオーリガの家を浮かび上がらせ、奥行きを作る。最奥の両脇が出はけ口。一段下がった両側が玄関に通じる廊下となり、間もなく登場する人物が早めに姿を見せる格好になる。
台上の演技エリア(家)には前半、奥と手前の間に高さ低めの仕切りパネルが左右に置かれ、狭い中央が通り口、奥での談笑と手前の秘めたる会話の図が出来たりする。

「三人姉妹」は清水邦夫の「楽屋」のせいか一度ならず観た気でいたが(戯曲も途中まで読んだ)、東京デスロックの抽象度の高い舞台(亡国の三人姉妹)を除き、ストーリーを分かりやすく味わったのは今年アゴラで上演されたサラダボール舞台(女優三人のみで全編演じられる)が初めて。一つの趣向であったが、今回のセンターフォワード版を振り返ると、役者によって形作られる一個の「人格を持つ固有の人物」らの群像劇として(言わば普通の演劇)味わい深い劇世界を作っていた事と同時に、何がどうと言い難いがリアルさの中に儚げな風がふっと頬に当たるような、不思議な感触があった。現代を感じさせる部分もある。明白に意図的と分かる演出として、ラストが特徴的で、三人の姉妹の会話に殆ど力みがなく、自然体の風景として提示され、静かな演劇風にピリオドが打たれる。三姉妹の女優(藤堂海、安藤瞳、北澤小枝子)が良い。家をかき回す兄嫁役のみょんふぁ、イリーナに思いを寄せる兵士(を止めて工場労働者になる)役の岡田篤哉、兄役の矢内文章、等々。凋落する人間と微かな希望を描く原作を、立体化するそれぞれの人物造形にも奥行がある。

「カレル・チャペック〜水の足音〜」

「カレル・チャペック〜水の足音〜」

劇団印象-indian elephant-

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/10/07 (金) ~ 2022/10/10 (月)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

「国家と芸術家」シリーズ三部作、の最終作。・・と書いたが(何処かでそう目にしたと思って探したが行き当たらず)、ケストナー、藤田嗣治、ジョージ・オーウェルの続き四作目。
劇場が狭かった前二作から芸劇へ。それに題材がカレル・チャペックという事で今回は劇場で観たい!と思っていたが結局、3度目の配信鑑賞となった。
配信についても、前二作に比べ映像が断然良く、見返す事なく一回の視聴で台詞が聞き取れ、前方席での観劇気分を味わえた。
だがもっと驚いたのは舞台の完成度、テキストの深さ、巧さ(執筆の神が味方したかのような..)である。
チャペックと言えば「山椒魚戦争」を書いた著名な作家の一人であるが、演劇への関心から知り直した人物でもある。劇場で観た彼の戯曲「R.U.R」(ハツビロコウ)「母」(コットーネ)はいずれも「戦争」に触れた品だったが、本作もチャペックが執筆に生きた第一次大戦と第二次大戦の戦間期が舞台となり、大戦後誕生した民主国家チェコがやがてナチスの台頭した大国ドイツに翻弄される軌跡と密にドラマが進む。
舞台はチャペックと兄ヨーゼフの家族=妻と幼い娘が住む家。若いチャペックがフラれたばかりの初恋の女性、彼女が交際する事になる新国家の大統領の息子、大統領本人、チャペック兄弟の親友、それにこの世ならぬ謎の女が訪れる。家族の葛藤と克服、逃れる事のできない国家と歴史の状況の中で精一杯生きる人間たちの人生が美しく刻まれていた。
配信では避けていた☆5を付けた。

物理的な圧力に晒された人々が、勝ち取った自由を手放さざるを得ない現実に直面する光景に、つい重ねてしまうのはわが国の事。日本は敗北を喫しつつあるが、これに関する報道は殆どなく、今どういう覚悟をせねばならないかを考える契機は希薄である。
カレルと周囲の人物たちは苦境に悶えながらそれを克服する精神、歩き方を手にし、生を全うしようとする。早晩朽ちて国もろとも凋落させるだろう効用のなくなったシステムを温存し、「改革」のポーズだけを取ってその場をやり過ごす(その実やり遂げようとしているのは売国的な政策)我が国の中枢を、「それ」としてありのままに見る事・・舞台がくれた勇気を、今以上にゲンジツを見る態度に向けるよう促されている気が個人的にしている。

海の五線譜

海の五線譜

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2015/12/05 (土) ~ 2015/12/14 (月)公演終了

満足度★★★★★

「固有である」ということ
アトリエ春風舎の空間に申し分なくはまった・・というより使いこなした舞台。黒光りする古い木板の床や、少なく不便な出入りルート、そして空間のサイズそのものも「虚構空間」へと動員して、普段は頭から離れにくい「春風舎で見ている」感覚を、忘れるほど完成度は高かった。
 多言を弄しても掴まえる事の出来ない美、瑞々しさ、もう一つ(いや沢山)去来させるドラマ上の「何か」には、ただただ作り手の充実した創造の仕事がしのばれる事よ、と返すのが精一杯である。
 終演後、階段を上った出口にややご高齢の夫婦が居て、見送りに出た役者二人程に嘆息を漏らしていた。ふだん劇場に行きつけている様子でない、何がしか縁故あって時々芝居を見に重い腰を上げてやってくる、そんなタイプ(勝手な推量だが)に見えたその女性は何度も「よかった、よかった」・・と、幾ら言っても言い足りないとばかりに繰り返していた。一足先に劇場を出た後、その夫婦と私以外客がなかなか出てこない。「そうだやはり台本を買っておこう」と階下に下りて購入。チラと見ると多くが客席に座ったまま、舞台のほうを見ていたりアンケートを書いている。
 この光景が全てを物語ってるナ・・と良い気持ちになって劇場を離れたものであった。

 青☆組観劇は多分3度目くらい。存在は随分前に知っていたが、チラシの体裁等からイメージしていたのは「女の子らしい可愛い日常を描く小品」。ところが意外に骨太な構成をもつドラマを書く。 特徴は「過去のある時代」の風景を、往時をしのばせる「嗅覚」に訴えるような風俗をうまく取り込んで、世界を再現、再構築する。青☆組の舞台の重要なポイントだろうと思う。
 過去へと遡り、「その時代」でしか起こりえないディテイルを組み込んだドラマが展開する。この「時代性」のこだわりは、話じたいはフィクションだが「確かにこういう時代があった」、という事実のほうに重きが置かれているということである。 その時代にも人々は健気に、懸命に生きていた、その証であるそれらの風俗が、逆に現在を照らしてくる。 様々な「変化」を疑わず(携帯電話の普及が如実)、次々と過去へ置き去られていく、この「変化」への鈍感さ(適応のよさ?)は実のところ、「支配する側」には大変都合のよろしい性質に違いない・・・とそんな事も思う。

 今回の芝居、隙やほころびが殆ど見られない完成度をみた。もっとも、本当に良い作品に「完成」という言葉は使いたくないものだが、敢えて使うなら、この「完成」に対し、ひねた私はまず困惑するのである。
 演劇という芸術が「完成」をめざす営為であるのは当たり前なこと。だが、皮肉なことに「良い終わり方」で気持ちよくなる分、考えない。それでよいのか、と考えてしまう。
 今作も、「気持ちよく」終わる。感動がひたひたと来る。「海の五線譜」に感動したのならその所以は何か、私としては掘り返すべきなのだが、ただ感動の後味のまま、寝かせておきたい心情がある。
 しかしそれでは×だと、自分の声が言うので少し書いてみる。 ・・劇中のエピソードは決してありきたりではない、珍しいと言えるだろう、ただし誰しもこの程度の逸話は持っているものかも知れない、と言う程度のものでもある。 絶妙に独自性のあるお話を通して、この芝居は人生、愛、世代の継承、自分自身とは何かについて、問いを静かに投げかけている。
 この台詞に無い「問い」が可能であるのは、優れて「固有」な、確かに「そこにあった」お話としてリアルに再現されているからだ。
 しかし同時に、「固有」なものとして現前しているほど、一回性の生の儚さが息を吹き込まれた人形のように存在してしまっている。これはもう儚み、いとおしむしか手の出しようがない。
 かくして、この物語の登場人物---皆が皆切実な生を生きている---の輝きや「存在」感は、手の内におかれた命のようにそっと胸にしまいこむしか、やはりないのだ。 謙虚にそのことを認め、作者、そして俳優諸兄にありがとうを言いたい。

ロはロボットのロ

ロはロボットのロ

オペラシアターこんにゃく座

あうるすぽっと(東京都)

2015/05/13 (水) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

15年来の至福
確か2001年、当時知っている劇団は僅か。でも鄭義信の名は記憶に刻まれていて、それでこんにゃく座のこの舞台を観た。子ども連れが多い会場が、開幕から終幕まで、咳一つなかった。演劇と音楽の「愉楽」に圧倒された時間が、本当はどんなものだったのか、15年を経た今、確かめたかった。思い出した。本物だった。幸せのつぶつぶがちらちら舞い散った。

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