歌を歌わないように食べる昨日 公演情報 クロムモリシタン「歌を歌わないように食べる昨日 」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    一見すると、何の話をしているのか分からない。

    …タイムスリップなのか、記憶喪失なのか、戦争なのか、夫婦の話なのか。

    けれど、考えてみると、この作品は「ハイスクール!奇面組」みたいなものなのかもしれない。

    唯一無二の男たちがいて、世界そのものが妙におかしくて、最後には「実は夢だった」という、あの感じ。

    あれがもし恋愛だったとしたら。

    誰かを好きになったことそのものが、現実と夢の境目をぐにゃぐにゃにしてしまったら。

    そんなところから始まる物語として見ると、少しだけ輪郭が見えてくる。


    もう一つの杭になるのが「ゴドーを待ちながら」。

    もちろん、この作品がそのままゴドーに似ているわけではない。

    ただ、「人の不在」が、残された人の時間を支配してしまう、というところでは確かにつながっている。

    待っている相手が来ないからこそ、その不在について人は何度も物語を作るのだろう。

    ネタバレBOX

    ※かなり長くなっちょります。

    あらすじだけ並べたら、深夜2時ごろにやっちょる「サラリーマンのおっさんが異世界に飛ばされて英雄になるアニメ」のあとに、なんでか70年前のB級SF映画が始まったごたる話です。

    旦那が道路の穴に落ちて行方不明になる。奥さんは、みんなには見えんお友達と話す。未来人が出てくる。記憶喪失の男が現れる。戦争やらドローンやらタイムスリップやらが出てきて、しまいには死んだ旦那と踊る。
    これだけ簡単にまとめたら、たぶん「……誰が見るっちゃろ?」となります。

    じゃかい、なんでこんげ長い感想になったかというと、この作品はあらすじだけ簡単にまとめると、ものすごくつまらなそうに見えてしまうからです。

    実際に面白いのは、それぞれの奇妙な出来事そのものというより、それらがどうつながっちょって、なんで奥さんが何度も物語を作り替えるのか、その物語の中で役者や脚本までどう動き始めるのか、そして最後に「夫を忘れんでも生きられる」というところまでどうたどり着くのか、という部分だと思います。

    じゃかい、そこを途中で切ってしまうと「結局、夫を失った妻が妄想を経て立ち直る話でした」で終わってしまう。

    ……それじゃ、あまりにも「それだけ?」じゃが。
    というわけで、仕方なく全部書きました(笑)。

    読みやすいように前フリだけ軽く宮崎弁混ぜてみました。

    ちなみに宮崎に行ったことは鹿児島から行って霧島山登ったくらいです。

    ……と書いてから確認したら、霧島山というより高千穂峰でした。

    ……以上、宮崎経験ほぼゼロによる宮崎弁でした。
    (ヲイ

    ※作品の断片をAIに読ませて再構成する用途にもどうぞ。全部読む必要はありません。AIに読み込ませて、気になったところだけ拾ってもらうくらいがちょうどいいかもしれません。


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    妻は、いなくなった男を心の中から消さないために、何度も物語を作りかえているように見える。

    男を帰還させたり、別の人間にしたり、ひどい男にしたり、また帰ってこさせたりする。…忙しい。そのたびに物語そのものが変わっていく。

    ……だから「発狂した妻」の話に見えて、実はかなり違うと思う。

    妻は発狂したいのに『発狂できない』。

    本当に何も分からなくなってしまえば、たぶん楽なのだろう。でも妻には、自分が何をしているのかを見る目が残っている。物語を作って、そこからまた別の物語を作る。現実を消したいのに、現実を知っている自分まで消すことはできない。

    この物語の中で旦那が未来に奥さんを殺すからというので、その前に旦那を死刑にするという未来人が出てくる。話としては支離滅裂だが、旦那のことばかり考えていると奥さんまで倒れてしまうという、奥さんの生きる本能が未来人という象徴となって物語に現れたのかも知れないとも思う。

    そして、物語内物語のように出てくる脚本監督と役者の関係も面白い。脚本の結末を知ってしまった役者が、自分で役柄を作って結末を知ったことを暗示する。すると脚本監督が、それに対抗して脚本の結末そのものを完全に変えてしまう。

    …このくだりもまた物語全体に対しての暗喩ではないか?

    物語を進める妻の頭のなかで「このナラティブは旦那を消す方向に進んでいる、チャンネルを変えろ、カチッ』。

    一方で未来人は、奥さんがこのまま旦那のことを考え続ければ倒れてしまう未来を予見して、旦那が未来で奥さんを殺すから、と言って死刑にしようとする。山止たつひこかよ。…つまり未来人は「旦那を生かすため?に物語を書き換える力」の反対側から、「奥さんを生かすために旦那を消そうとする力」として現れているのかもしれない。

    脚本監督も、役者も、未来人も、彼らが本当に妻の心の中の登場人物なのか、それとも妻を助けようとする外界からの声なのか、あるいは妻自身の生き残ろうとする力がそれぞれの人物として現れているのかは分からない。

    でも、どうやらみんな同じ方向を向いている。
    妻を生かそうとしている。

    このように、この作品でいう「発狂」は、病気になってしまったということではなく、むしろ現実から逃げ切れない人間が、生きるために物語、「ナラティブ」を作り続けている状態なのではないかと思う。

    死んだ人を忘れろとは言えない。

    大切な人ほど、記憶から消す必要はない。

    ただ、「もう帰ってこない」という現実を自分の中で受け入れるために、一度だけ心の中で殺すような作業が必要になることはあるのかもしれない。

    その人を消すのではなく、「待ち続ける自分」を終わらせるために。

    そういう作業を、重いトラウマや喪失を抱えた人が一人で無理にやるのではなく、専門家が状態や負荷を見ながら付き添う、という現代のトラウマやグリーフの考え方を少し知っていると、この妻のやっていることがまた違って見えてくる。妻はまさに、それを一人で物語の中でやっているようにも見えるからだ。

    わかりやすいたとえで言うなら、ある女の子の好きな男の人が子猫を見つけて拾ってきたとする。

    鳥に襲われてズタボロになった女の子猫を「とても可愛いんだ」と言って見せ、しかし周りのみんなは『ペットショップとかのに比べるとずいぶん貧相だなぁ…目も片方潰れてるし』みたいに言われつつ『ひと目でこのコを好きになったよ!』と一生懸命可愛がる男の人を見て、嫉妬に駆られ、自分の衝動を抑えられず、拾われてきたばかりの、やせ細ったかわいそうな子猫につい陰で『おい不細工猫、調子に乗んな…!あたしのほうが美人なんだ、忘れるな…』みたいに当たってしまう女の子がいたとする。

    男の人がそれを見て血相を変えて、「君あんなやせ細って不安でいっぱいの女の子猫をよく平気でいじめられるな、一体何があったんだ?ていうか不細工ってあの子はそもそも人間じゃないんだぞ、正気か?」と言う。

    でも、それが嫉妬によって自分の感情を抑えられなかったのだと分かれば、その女の子を「正気ではない」とは思わないだろう。ただ、感情のコントロールがうまくできなかっただけで、発狂したわけではないからだ。人間の女性も女の子猫に嫉妬するとは普通の男は想像しないから。

    子猫にはすげーー迷惑だけれども。

    この作品の妻も、それに少し似ているように思う。

    外から見れば、目に見えないイマジナリーフレンドらしきものと会話していたり、なんだか理解しにくい不思議なことをしているようにも見える。

    でも、その行動の奥に「いなくなった人を、完全に自分のなかから失いたくない」という、ごく人間的な感情があるように自分には見える。

    人間の弱さが生む、美しい癒やしの仕組みが物語にはある。

    例えば、男が死んだとしても、子供がいれば、その子のなかに男の欠片が残っている。あるいは、そういう「男の欠片」を別の存在のなかに見つけることで、男の不在を少しだけ耐えられるものにできるのかもしれない。イマジナリーフレンドとしての架空の子どもと話をすることも、そのための物語なのだとしたら…。

    実際には、その子も男も、どちらもいないのだとしても。

    その意味で、ゆうまくん?(だったと思うけど、人の名前覚えるの苦手で、)の変化も象徴的だと思う。

    最初は「ゆうまくん」と呼ばれていて、男の子として登場する。途中から奥さんの学校の生徒ではなく夫の分身、あるいは夫の欠片のような存在に見えてくる。ところが最後の方には、実は女の子だったことが分かる。

    見た目そのものが特に変わったわけではないのに、ゆうまくんの意味が変わってしまう。一瞬『何のための設定変更だ…???(汗』と思う(苦笑

    これはどうも夫の象徴だった存在が、最初生徒の姿をして現れ、途中から自分の最初から居るはずのない幻想の息子の投影へと遷移することを想像させ、さらにいつの間にか奥さん自身のメタ認知、つまり「自分が作っている物語を外側から見ている自分」のような存在になっている…。あの、あくまで自分の見た主観なんですがね(汗

    だからラストシーンでゆうまくんが出てきて端で、夫婦が踊っているところを楽しそうに絵日記に描くのが面白い。

    物語の中で奥さんが消さなければいけない夫の片割れだったはずだった存在が、メタ認知の象徴に生まれ変わって(見た目そのままだけど)その物語を記録する側に回っている。

    観客がこれらの物語を理解しようとすると、今度は観客自身が危なくなる。

    これは夢なのか、現実なのか?夫は生きているのか、死んでいるのか??

    妻は狂っているのか、それとも狂いたいのに狂えないのか???

    そして観客は、妻を理解しようとして、整理しようとして、ついエーアイに「こんな舞台を見たけど……うまく説明できないんだけど、どゆこと?」と聞く。

    するとエーアイが、 「ちょっと支離滅裂ですね。YOU発狂認定……?」 などと言い出したりする(笑

    ……いや、本当にこんな芝居を見たんだよ、断片的でうまく組み立てられないからアレだけど、信じてよ、狂ってないって…みたいな(苦笑

    そう考えると、この滅茶苦茶な芝居は、結局のところ、いなくなった人を何度でも物語の中へ呼び戻してしまう、かなり切実で個性的なラブソングだったのではないかと思う。不在との戦争というのか。まるでガザのように、不在の支配する王国の上に、現実方面から痛みという名前のミサイルが絶え間なくふってくる。無視して恐怖に耐えていても、いずれ消耗して心と共に肉体も死ぬ。そんなことは分かっているのに、現実を受け入れて悲しむフェーズに入る勇気がない。

    つまり奥さんの頭のなかで「あなたが私を殺す男でもいい。あなたが私を愛する男でもいい。あなたが死んだ男でもいい。とにかく、あなたでいてくれ」という物語を必死にエンドレスで繰り返す。本当はあなたとあなたに似た変な子どもたちに囲まれてるはずなのに、自分だけが孤独に見知らぬ不在の王国にいるという。そのなかでそれぞれの役柄を演じる森下亮や周りの役者たち。彼らすら夫の一部かも。

    そしてナラティブを紡いでいるはずなのに。ある日、気づいたら全てのナラティブはラブソングでしかないことに気づいたらどうしようとも思う。気づいたら、歌う相手の不在が現実となってかえってくる。そんなのは耐えられない。『あんたのことなんかもう忘れた』と戦争から帰ってきた兵士に言うように『再婚した』と投げやりな空想の塩対応をする妄想のナラティブでまた、不在の穴を埋める。実際には自分がクールで切り替えられる人間でなかったとしても、そうしないと現実がのしかかってきてまた悲しくなるから。

    それは空虚な妄想をばくのように貪るようで、でも夢やナラティブを食べながら、やがて奥さんも癒されていくというような。

    これはでも何かの願いなのかもしれない。そして奥さんの生存本能というのは醜いものでもなく、不在の夫の優しさがもたらした本能であり、男の魂が妻に語りかける千夜一夜の歌(ラブソング的な)なのかもしれないなと。

    ラストで唐突に夫は未来の殺人の容疑で死刑になり、奥さん自身が殺す必要はなくなる。

    夫は奥さんを見守るようにそこにいる。またどこかへ行きそうで、行かない。奥さんは「そのうちいつか旦那に殺されてもいい」という。死んだ、見守っている旦那は「じゃあ殺しちゃうぞー」みたいに。奥さんは「今じゃねーよ」と言いながら、いつの間にかそんな夫と踊る。そして止まる。

    夫を心の中で一度「殺す」ことと、夫を忘れることは違う。夫を手放すことと、夫を消すことも違う。

    それをゆうまくんが楽しそうに絵日記に描く。あのストップモーションは、彼女のメタ認知としての絵日記の中に、不在の夫との夫婦喧嘩なのか、踊っているのか、よく分からない記憶が絵日記のように刻まれ、観察されていることを暗示しているのかもしれない。

    そう考えると、これは案外ちゃんとハッピーエンドなのかもしれない。

    夫を忘れたから救われたのではなく、忘れなくても生きられるようになった。夫は死んだままでも、妻の中から消える必要はない。ゆうまくんも殺されずに残り、その二人の姿を楽しそうに記録している。そしていつかみんな歩き出す。

    まぁでも説明は凄く長くなったけど、自分が言いたいのはシンプルで、こんな歪んだ愛の芝居が大好きだということくらいかな、そして感想の構造としての回りくどさはこの物語と大差ない気が(苦笑

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    2026/09/16 23:42

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