この上のない下水筒 公演情報 コトリ会議「この上のない下水筒」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    コトリ会議が素敵だな、と思う理由の言語化はうまくいかない。でも、ローザスやショスタコーヴィチを好きな人には好まれる余白がある気がする。強いて言うなら枝の上にとまる小鳥たちの囀りが、宇宙人の地球侵略か李白の詩についての批評のように感じるこころの余裕のある人に向いている気もする。

    繰り返すが、完全に同じではない。

    やがて消えていく…

    言うと詩的で、それこそショスタコーヴィチやローザスや李白のようでもありますが、ガジェットは藤子不二雄的でフィジカル会話劇なゆるふわ構造ホラーだと思います。

    途中で急な反転(詳しくは書かないが)があったりして思わず

    『李白かよ!』

    と思わず心無い観客なら突っ込んでしまいそうな部分もあるが…自分は大人なので、そんな突っ込みはしない…(苦笑

    過ぎ去ったものは、似たものがたまに通り過ぎる気がするが、同じではない、やがてすべてが消える…ローザスでありショスタコーヴィチで李白で、時たま藤子不二雄ですかね。薔薇の花のようと言ってもいいですが。

    ネタバレBOX

    今回みたいな唐突に現れ消える系の急な夢オチの登場で

    『…李白かよ!』

    とかはもっと広まっていい気がします。ここで

    『ケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)かよ!』

    とかやってたら『コイツバイトしながら岸田賞狙ってるな…というかそもそもケラってそんな夢オチやってたっけ?やってそうだけど』みたくなりそう…というか実際に見たらわかるんですが、この夢オチのくだりそのものが今の内容なんですよね…(苦笑 このあたりからでもゆるふわ構造ホラーというのが汲み取れそうな。

    全然ネタバレにするほどの内容ではないが…すんま村(そん)

    補足…

    ショスタコーヴィチとかローザスといったのが、雰囲気が似ているというよりかは、脳の使い方というのが伝わればとも思うのでの補足。李白とかは見れば分かるとおもう…

    ここで言っているショスタコーヴィチやローザスは、
    「この舞台の雰囲気がショスタコーヴィチっぽい」とか、 「ダンスみたいだった」とか、
    そういう表面的な話ではないんです。

    むしろ、

    この作品を見るときに使う脳の回路が似ている

    という。

    例えば普通の物語だと、
    観客は無意識に

    誰が正しいのか
    何が起きたのか
    結末はどうなるのか

    を追うと思います。

    つまり因果関係を追跡する。

    ところがショスタコーヴィチの後期四重奏を聴いていると、途中からそういう聴き方が破綻する。主題を追うより、

    あれ?
    今の音、前にもいた気がする
    とか、

    なんか記憶が刺激された
    とか、

    そういう聞き方になる。

    ローザスも同じで、
    振付を理解するというより、

    同じ動きに見えた
    でも違った
    とか、

    さっき見た気がする
    とか、

    身体の時間の流れを感じる。

    つまり、
    「答えを求める脳」から、
    「差異や残響を感じる脳」

    へ切り替わる。

    コトリ会議を見ながらやっているのも、それです。

    普通なら、
    この女性は生きているのか死んでいるのか
    を解こうとする。

    でも途中から、
    生きているかもしれない
    死んでいるかもしれない
    という状態そのものを眺めている。

    仮の朝倉君についても、
    本物なのか偽物なのか
    ではなく、

    朝倉君のようで朝倉君ではない
    という揺らぎを楽しんでいる。

    だからショスタコーヴィチやローザスという比喩は、
    作品内容の比較というより、
    鑑賞モードの比較
    なんだと…。

    ここで例えば『異人たちとの夏』
    (手近な例としての死者との夏の日の邂逅という意味で)
    を対比して構造化
    (…異人たちとの夏は死者は昔と変わらない姿だからひと目でわかるが、こちらでは変わっているから直ちに判別不能…みたいな…そもそも登場人物の誰が死者とも作品中では確定しない)
    しようとすると、なんかあまり良くない…みたいな(苦笑

    ※【補足】この時点で解釈は成立するが、成立した瞬間に少し嘘になる。…まるで仮のあさくらくんのように。
    これは本当にショスタコーヴィチやローザスだと思う。

    前と同じ音が始まる。

    美しいが、前と完全に同じ音階ではない。

    やがて消えていく。

    もっと極端に言うと、
    ミステリーを解く脳ではなく、
    詩を読む脳なんです。

    ただし李白の詩を「意味」で読むのではなく、
    月を見ているうちに昔の友人を思い出してしまうような読み方。

    以前に聞いた曲と同じ主題が浮かんだように聞こえるが、音階が違う…と思う間に消えていく…
    という事象も、
    実は作品のテーマを説明しているというより、
    自身が作品を受け取るときの脳の動き。

    何かが戻ってきたように感じる。
    確認しようとすると違う。
    その違いを感じているうちに消えていく。

    ショスタコーヴィチの後期四重奏を聴くときも、
    ローザスを見るときも、
    今回のコトリ会議を見るときも、
    たぶん
    「これは何か?」
    ではなく、
    「これはさっきの何かとどう違うのか?」
    を追っている。
    そしてその差異を追っているうちに、作品のほうが先に去っていく。

    だから解釈よりも、時間の感触が残る。
    その意味で、ショスタコーヴィチやローザスは作品の類似ではなく、
    世界を眺めるための脳の姿勢の類似
    なんでしょう…🎻🩰🐦🌙

    だから、知らない人には突飛な連想に見えても、
    自分の中ではかなり自然な接続なのだと。

    自分も
    『誰かを待ちつつ来ない感じがゴドーっぽい』
    とか、
    『不穏な感じがケラっぽい。ポップだけど』
    のほうが伝わりやすいとは思います。

    でもそれは僕っぽくない。

    自分が一番最初に思い浮かんだのはショスタコーヴィチで、ローザスとか李白ですから、その直感に従って観劇を楽しんだ時間の過ごしたかたを描写してみました…おそ松さまでした(苦笑


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    2026/06/14 22:26

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