コーカサスの白墨の輪 公演情報 世田谷パブリックシアター「コーカサスの白墨の輪」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    瀬戸山美咲による古典作品の翻案の大きな舞台、と言うとKAATホールでの「オレステスとピュラテス」(2020年/演出=杉原邦生)、以後の瀬戸山氏の活躍は世田谷パブリック「現代戯曲集」や「ペーター・ストックマン」等が記憶にあるが、それ以外では劇作家協会会長に就任したくらいで舞台情報はあまり入ってこなかった。が、海外作品の日本輸入版の演出を結構やっている(商業演劇のチラシは小劇場の公演にはあまり入って来ない)。何時からこういう大御所な立ち位置となったのか、と調べると・・、コットーネ「埒もなく汚れなく」(2016)、ミナモザ「彼らの敵」(2016)、青年劇場「オールライト」(2017)、流山児「わたし、と戦争」(2018)、コットーネ「埒もなく汚れなく(改)」(2019)など作・演出をやる小劇場演劇人の仕事を見ていた所、2017年グローブ座系で「グリーンマイル」をやっていた。以後海外物などの大型舞台を手がけている。その合間に利賀演劇人コンクールにも実力派俳優を引き連れて上演。演出のみの仕事も多く、よく書いてもいる。
    そんなこんなで暫く見なかった女史の仕事を久々に見てみたく出かけた、というのもあった。
    さて、中々無理がある設定や翻案、そして生演奏の音楽の使い方に、些か難ありを感じてしまったのであった。俳優に関しては小劇場でお馴染みの実力は西尾氏、森尾氏らが脇でよく演じていたので嬉しくはあったが・・いずれじっくり書いてみたい。

    ネタバレBOX

    序盤からイラっとし始めてしまったのが「音」。第一には音量、音の出し方使い方。楽曲のタイプ、質感も、好みもあるだろうが原作からの飛躍がある分、情緒あるメロディ、ハーモニーの判り易い劇伴を欲するも、近未来設定に寄せてか、ビートの効いたロック調であった。

    瀬戸山女史が商業公演の音楽劇で毎度起用している坂井田裕紀氏、素性は知らないが海外で学んだ履歴があるよう。音楽プロデュースというポジションで恐らく瀬戸山氏に音楽コンテンツでなく方向性を提案する役割なのではないか。で、そういう立ち位置の人から、起用する音楽家、演奏家込みで提案されたら瀬戸山氏も断れない。人事の提案なので「やらせて見なきゃ分からない」部分が大。ワンクッション置かれている。作曲者と直接、楽曲の細部に分け入った具体的な議論ができる状況であれば、あの結果になっただろうか・・と。坂井田氏は自身が作るのでなければ「頼んでみます」と演出の要望を受けて伝える・・ワンクッション。(・・以上は全くの推測であるが、瀬戸山氏自身が果してあの出来を許しただろうか・・という一抹の疑念が過ぎるからである。)
    演出とはプラスに活用する所に腕の見せ所があったりする。今回のも演奏者として出演したドラマー、ベーシスト、ギタリストの手による曲が使われていたが、私はあまり良くなかったと思う。(好みの問題と言えば好みの問題だが。)

    それ以上に、音量の問題である。席によって条件は異なるだろうけれど、大変厳しかった。
    本作はコーカサスの本編を劇中劇としており、冒頭はオリジナル「人間」以外の種族(人工知能のアンドロイドだったとは後で認識)が、人間以上に人間的な共存関係を築いていたがそこに亀裂が生じかける場面で、両者がある合意に達し事なきを得るが、「コーカサス」はまだ始まっていない。この時点で音楽がビートを効かせて鳴り、台詞を消す。役者が喋り始めるとそれに乗っかって煽るような音が入る。だから台詞が聞こえない。近未来設定であれば今ここで何が起きているか、その土台としてこの近未来ではどういう法則が成立しているのか、それら全てを会話の中から汲み取ろうとする。だからまず台詞を聞かせる、が最優先のはずだ。だが音楽は台詞に当てに行くように鳴らされ、如実に邪魔になる。しかも音楽の格好良さを優先し、ベースがグイングインと押し出して来る。それが台詞をかき消す。台詞のために音量を少し落とす、といった事もしない。「台詞が聞こえてこない」は最悪だ。周りは気使い上手で「聞き返す」事はしない。その代り理解もできない。
    配役で言えば、主人公グルシェは良い出来だったが、悪役である王妃が主人公と見紛う派手で年恰好も似通い、何よりスリムなのが紛らわしい。少しでもぽっちゃり型が起用されるべきでは。

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    2026/04/06 01:22

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