チャランポラン・トランポリン 公演情報 東京演劇アンサンブル「チャランポラン・トランポリン」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    8年は経っているか..東京演劇アンサンブルが在パレスチナのイエス・シアターという劇団の主宰と俳優の二人を招いてディヴァイジングで作った舞台があった。今知る所であるがパレスチナ、特にヨルダン川西岸地区では2000年代以降「分離壁」の建設と検問(移動の自由の制限)、入植者と軍の圧力による恐怖に晒される子どもの日常をケアする一方法として文化運動が生まれたと言う。
    思い出せばその舞台はアイデア満載の摩訶不思議な時間で、「芝居」は遊具無しに遊べる道具、また「遊び」が芝居になり得る、との発見をその時したように思う。
    現実を捉える視点を「物語」の形で提示する「劇」(ざっくり新劇、あるいはリアリズム演劇)と一線を画したそれは、左脳の検問を無検閲パスして情操に働きかける刺激を孕み(観る側以上に、作り手たちにとって、との印象は大きかったが)、(左脳では)評しがたいものがあった。

    今回のパフォーマンスは正にその地平にあるもので、出演陣が身体性の高い若手(選ばれし)5人、ノンバーバル(音韻を制限した発語を含む)表現、そしてトランポリンの活用、といった特徴を別にすれば、上記公演と共通する感覚のものである。
    ただし空間を演出する照明・音響(音楽)やストーリー構成などは当然ながら全く別物。本作はサイバー・ゲーム空間のような設えであった。
    聞けば、韓国人演出家ジャッキー・チャン氏は脳神経学、発達心理学に通じた学者でもあり、理論に裏付けられた実践を続けている人だという。子供を対象とした上演計画を劇団も考えているらしい。
    さて黒が基調の風変わりな衣裳の5人は、(後でパンフを読んだ所では)彼らの主人に対する「影」として登場し、時々主人が表れたりもする。影とは本体とは対照的な人格・性質であり、「無い」ゆえに憧れる対象でもある。その彼らはジャンケンという勝負にこだわり、強くなるための訓練をしていたりするのだが、「影」が主人の足を引っ張らないように(?なのかイマイチよく判っていないが)という理由で訓練に勤しむ。存在の最初からある一つの使命を帯びている条件も、ゲームに似ている。
    これは間違いなく何かのメタファーなのであるが「左脳」では理解に到達しない。
    そうした彼らの「動き」と、珍妙な「発語」による人物同士のコミュニケーション、ダンスやパフォーマンスで場面が構成されていた。

    大きな特徴として、フラットな会場が4エリアに分割され(正方形に×を書いた図形の線の部分が俳優たちの通り道)、そこに置かれた座布団が席である。即ち観客は靴を脱いで地べたに座る。
    出入口から見た反対側に、大きなトランポリン+両側にラックが組まれ、一人乗り用の低いトランポリンも客席エリアの周囲に4つ5つ置かれる。観客はパフォーマーたちを見るため360度体や首を動かす羽目になる。
    冒頭はダンスそしてマジック、芝居の流れの中でのトランポリンの技披露もあるが、一連のストーリーの流れはどことなく「ある」時間の流れにはなっている。

    これだけ文字を並べてもうまく説明が出来ていないのがもどかしいが、更にもう一つ大きな特徴が、凡そ1時間の上演を終えた休憩の後、フォーラムシアターをやるというもの。
    フォーラムシアターとはある短い劇の上演の後で、再度その劇を通す時には観客が劇に介入したり、別の設定や行動を指定して俳優にやってもらうという形式を言う。今回はそれなりに長かったパフォーマンスに対し、観客からリクエストされた事に俳優が応えて行く。休憩前に配られた紙に観客が書いて提出したリクエストを俳優が拾い、読み上げながらこれを進めて行く。ここではファシリテーターである三木氏(+ご意見番の太田氏)主導の場となり、俳優は俎板の鯉。それを楽しむ時間でもある。
    ストーリーとしては判りづらい内容に対して注文をするのは難しくもあるが、結構な量とバリエーションの富んだリクエストがあり、時間の許す限り次々と挑戦して行く。
    ある意味「ぶっ飛んだ」パフォーマンスだが劇団公演として成立していた。このあり方はどのような展開の可能性をも擁しており、今後も楽しみである。

    ネタバレBOX

    1970年代にブラジルの演劇運動家がフォーラムシアターを考案した目的は、人々のエンパワーメントであった。社会の構造悪や圧政に対し、人々が対抗し得るため、自分達の状況を客観的に把握するツールとして演劇=ドラマを用いられる、という所までは近代以降に期待された面もあった演劇の「効用」と言えるが、フォーラムシアターはワークショップの一形態で観客参加の仕組みがある。
    「うまく行かない」例えば家族のストーリーに対し、その登場人物の誰かが「こう行動すれば」どう変るか・・という発想を投入していく「変り得る劇」=受け皿である。言わば演劇Playを通じてのストーリーの実験。
    被虐に終る主人公が、あるいはそれに関わる人物の誰かが、元の劇とは異なるどのような行動を選ぶ事で事態は変化していくのかを、(俳優たちは精一杯本域で=そう簡単に事態が好転するとは行かないリアルな行動を演じ)見せて行く。それを参加者皆が共有する。
    識字率の低い社会ではドラマを用いた啓発教育が効果を持つと言われるが、自分たちを取り巻く何が問題の根源であり、何を変えて行かねばならないか、についての共通認識を多くの人々が持つことが「人々の力」の根源だとすれば・・、今日本は途方も無く分断され、エンパワーされ損なった状態が(もう何時の時代からか判らぬ程に)続いている、とも言える。
    演劇を通じて子どもたちの精神が開かれて行く運動が広まって行くとしたら・・と考えると、暗き世に光を見る思いである。

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    2025/09/14 05:50

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