いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校 公演情報 ロロ「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    いつのまにか忘れていたかもしれない柔らかいトコロなどを突っつかれて第三小学校
    これは個人的なことなんだけど、疲れていたんだな、この日は。
    身体もだけど気持ち的にも疲れていた。

    でもって、「若さ」が眩しかったりして、優しく接してくれた舞台だった。
    なんか、みんな優しい人たちだ、なんて感じたりして。

    ネタバレBOX

    なんだか変なことになったりしているのだが、あっさりとその世界に入り込めたし、とても穏やかな気持ちで観ることができたのだ。

    それはなぜか?

    いや、ま、それは考えたけどわからない。
    でも若さは眩しい感じがした。
    そして、誰もが優しいのだ。
    今思えば、眩しくて優しいのは、小学生のとき世界でもある。
    どこかに忘れてきてしまった世界。

    自分の身の回りだけが「世界のすべて」で、それで一杯一杯だった。
    「運命」なんて言葉は感じたことがないぐらい、一杯一杯。

    ま、個人的には彼らよりもガキだった私にとっては、中学生とか高校生の頃を思い出してしまう(だからと言って、「懐かしさ」とともに観たわけではない)。
    それは、理不尽なことをずっと浴び続けていたと、思い込んでいた、ある意味「お楽しみ」の時代だ。
    その「理不尽」の象徴はいつも先生である。まさにいきなりエーデルワイスを歌われたり、ブタ呼ばわれをされても、生徒さんたち(私もそうだったが)は、(そういうもんだからと思い)ハイハイと従っている。

    舞台を観て、それに郷愁を誘われたわけでは、まったくない、と言えばウソになるが、ひとつだけ言えるのは、やっばり今も自分の身の回りだけで一杯一杯であり、結局、今も第三小学校にいるんじゃないかよ、という私なのであった。

    かつて「必死なこと」は「カッコわりー」と思っていたはずなのに、必死に歌ったりする姿が「いいな」と感じたりするのは、「大人」になったのかなと思ったり。先生の演じるマグロのように。

    よくよく考えたら、好きだという気持ちを外に発散できるっていうのが凄いよね。私は、そんなことは、もちろんできなくて、内側にフツフツと溜めに溜めていて第三小学校だったんだな。

    それにつけても、電気仕掛けのエンプティがなくなるのはフルになったからのか。つまり、置き去りにされてしまった「哀しみ」で一杯になってしまったということなのか。

    エンプティとかのエピソードは、小学生のときには、あまり深く考えてなかったから、世の中のダークさとすれすれにあったりしたんだなあ、ということなんだな、たぶん。

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    2010/10/19 06:36

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