ハローボイジャー 公演情報 アヲォート「ハローボイジャー」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    アヲォート『ハローボイジャー』、そしてインディペンデントシアターOji柿落としへ。
    様々な葛藤を抱えながらの船出に、数々の思い出を含みながらの新たな始まりに立ち会いました。
    時に静かに、時に荒々しく。海に浮かぶとたまらなく小さく心細い私たちは、海のように果てしない心を抱えて生きている。(以下ネタバレBOXに公式にお寄せした劇評を転載します)

    ネタバレBOX

    『小さな声の届きにくい世界で、それでも私たちは「ハロー」と叫ぶ』/丘田ミイ子

    5歳くらいの頃だっただろうか。隣に住む同じ歳の幼馴染を半ば強引に誘って、2歳年下の妹の手を引いて、親に行き先を告げずに子どもだけで旅に出たことがある。旅といってもその行き先は家から徒歩10分ほどのスーパーの屋上にある小さな遊園地だ。アンパンマンカーやパトカー、『線路は続くよどこまでも』のメロディに合わせて小さな円周を2周だけ回る汽車、屋外を周遊できるパンダカーもあったけれど、その中で私がとりわけお気に入りだったのが、宇宙船の乗り物だった。おじいちゃんに連れて行ってもらえる時にだけできるそのアトラクションを楽しむ時間、私はここにいるようでここにはいない、どこか遠くへと勇ましく旅立っていくような心持ちでいた。「1回だけやで」と渡された100円玉をギュッと握りしめ、それがうっすらと手の平にくっつくほどに汗をかいた熱い手で宇宙船のハンドルを取る。その乗り物には無線機のようなものが付いていて、それを手にして「きこえますか、きこえますか」と私は叫ぶ。ややあって、少し遠くに立ったおじいちゃんが手を無線機に見立てて「きこえますよ」と笑って応答する。この瞬間がどうにもこうにも嬉しくて好きだったのだ。近所の公園で遊んでいた時、ふと天啓を受けるかのように「今すぐどうしてもあの宇宙船に乗りたい!」と思った私は、そんなこんなで隣の家のインターホンを押し、幼馴染と妹を道連れに宇宙へと駆け出した。
    「ハローハロー聞こえますか。そこに誰かいますか。誰か聞こえますか」
    ハロー、ハローと繰り返す度に切実さが増していく少女の声を客席で聞きながら、遠く遠くへ向かって声を絶やさぬ人の姿を見つめながら、私はぼんやりとあの瞬間を思い出していた。

    演劇ユニットアヲォートの第二回公演『ハローボイジャー』(作・演出:佐藤正宗)は、港町に暮らす女子高校生4人が海に墜落した幻の宇宙探査機「ボイジャー3号」を探すべく漁船で太平洋を航海する物語だった。数々の歴史と思い出を含んだ「王子小劇場」がその名を「インディペンデントシアターOji」と改めたその柿落としに、奇しくも“船出”の物語が重なったこと。ある種の感慨深さとともに新たな始まりに立ち会う気持ちで観劇に向かった。
    船内を模した舞台上に一人黙々と甲板を磨く少女の姿がある。漁師一家に生まれ育ったマミ(冨岡英香)は幼い頃から歳の離れた兄に漁船に乗せてもらっていたことから船の運転ができた。そんなマミに目をつけたのが、学校をサボり音楽ばかりを聞いているリカ(宮内萌
    々花)であった。リカは波止場で偶然知り合ったアマチュア無線機に夢中のヨウコ(小野里満子)を味方につけ、「ボイジャー3号の第一発見者になって一躍有名人になろう」という計画を持ちかける。さらにその噂を聞きつけた、カメラを趣味とするチヨ(アラキミユ)がスクープ撮影目当てに参戦。最初は気乗りしなかったマミもそんな3人に押される形で渋々運転を承諾し、4人は太平洋へと乗り出していく。
    舞台上で描かれるのはその出発から帰還までの約一ヶ月、つまり本作はおおよそ全編が海の上で繰り広げられる。ほとんど互いの素性を知らない4人は、物理的にも精神的にも荒波の航海をともに過ごす中で互いを知り、時にぶつかり、そして絆を深めていく。

    と、こんな風にあらすじのみを書くと、物語としては他にも例がある、ありふれた“ひと夏の冒険”が想像されるかもしれない。しかし、本作で描かれていたのは「冒険」そのものではなかったように私は思う。そして、彼女たちが本当のところ探していたのは「ボイジャー3号」それそのものでもなかったようにも。
    海の上ではたしかに嵐があり、エンジン故障があり、食料不足があり、そして極め付けには遭難がありと、ピンチに次ぐピンチを果敢にくぐり抜ける4人の姿があった。そうして予定よりも随分遅れ、彼女たちは無事救出されることになるのだが、こんなにも心細い状況下でありながら、彼女たちが「家に帰りたい」とはまるで思っていないように見えたのだった。本作が掬い上げていたのは、そんな心の海であり、波であったように思う。果てしない海にひとりきり、岸に向かっているのか、沖に向かっているのかわからぬ不安や焦燥を抱えた少女たちの姿がそこにはあった。
    何にもやる気を見出せなくなっていたリカが本当は将来を期待されたテニスのプレイヤーで怪我をきっかけに周囲に見放され、自暴自棄になっていたこと。より大きなものを、強い景色をとカメラを構えるチヨがジャーナリストであった亡き母の幻影を追っていたこと。ゴミ箱に捨てられた型落ちの無線機を見つけた日からアマチュア無線機に異常な固執を見せるヨウコが人知れず親から暴力を受けたいたこと。そして、マミが海に出たきり行方不明となった兄を想って、来る日も来る日も使うことのない船を掃除していたこと。それぞれの胸に秘められた、それぞれ異なる孤独や喪失や葛藤が、俳優たちの繊細な表情の変化、揺らぎを映した瞳や声色によって少しずつ詳らかになっていく。そういう意味でこの海は、この船は、居場所のない彼女たちが自ら見出した、たったひとつの居場所でもあったのだろう。時にぶっきらぼうに、時にまっすぐと、ひとりぼっちの胸の内を少しずつ分け合うように大きな海の上でささやかな対話を重ねる4人の姿にそんなことを思った。
    そうして、遭難する心と体を連れて、命からがら辿り着いたある島で4人はついにボイジャー3号を見つけ、この海に漂流していたいくつもの声を、そこに混線するマミの兄の「生きろ!」という声を聞く。
    「どんなことがあっても声を出し続けろ!誰かに届くように!誰かが聞いてくれるまで!それはきっと、きっと聞こえる」
    そんな兄の無線越しの必死の声に応答するようにマミは叫ぶ。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!
    この兄の懸命な声は、彼女たちが背負っているいくつもの人生に、ひいては世の中で起きているいくつもの出来事に対しても置き換えられるように思う。
    喪失や傷跡を抱えながら、「さみしい」、「かなしい」「こわい」、「助けて」といった声をあげられずにいた少女たちの小さく、しかし痛々しいほど切実な心の声。それを誰かに聞いてほしい、届いてほしい、そして願わくば、その声に誰かに答えてほしい、という祈りに重なる。「ボイジャー3号」は彼女たちにとってそんな祈りの集積、叫びのメタファーだったのではないだろうか。時に静かに、時に荒々しく。海に浮かぶとたまらなく小さく心細い私たちは、海よりも果てしのない心を抱えて生きている。無線から途切れ途切れに聞こえた声が、やがて少女たちのあげられなかった声になる。
    「私たちはここにいます。海原にたったひとりぼっちです。この音を聞いていたら、誰か返事をして欲しいです」
    海は海ではない。心の海である。心の音である。そうしてマミは一際に大きく叫ぶ。4人分めいいっぱい叫ぶ。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!

    子どもだけで辿り着いた屋上遊園地はいつもよりもうんと遠く広く思えて、急に心細くなった。それでも私はあの宇宙船へと乗り込んだ。お金を持っていないので、当然宇宙船は動かない。無線機も動かない。「きこえますか、きこえますか」と叫んでも、答えてくれるおじいちゃんもいない。あの日のえも言われぬ不安と焦燥はもしかすると、「自分の声に応答してくれる人がいない」という漠然とした喪失や絶望からだったのではないだろうか、と今になって思う。それから随分経って、屋上遊園地は壊され、おじいちゃんも死んでしまって、他にもたくさんの喪失や絶望や、声をあげられなかった、もしくは届かなかった様々な出来事を経験しながら、私は大人になった。「さみしい」、「かなしい」、「こわい」、「助けて」…。そうした小さな声が未だ届きにくい世界を見渡すような気持ちで、私もまたあの少女たちとともに叫ぶ。空の彼方の宇宙船から海の奥底までくらい、遠い遠いその距離を睨むように見据えて、それでも諦めてたまるかと叫ぼう。ハロー、ハロー、ハロー、ハロー!
    彼女たちの決死の声が、どうか本当の意味で岸にいる者へと届くように。届いて、この果てしのない航海がどうか本当の意味で終わりますように。そう願いながら、荒波を耐え忍んだ船のそばで頬を寄せ合う4人の笑顔を見つめていた。

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    2025/06/30 23:52

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