母 公演情報 劇団文化座「」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    文化座の『母』を観た。
    多喜二の母・セキの姿に涙が止まらなかった。

    ただ、その涙は、「無学でも立派な母」の姿に感動しただけではありません。
    思ったのです。 どんな家族の選択も受け入れるような“献身的な母親像”が、 どれだけ多くの女性を縛ってきただろう、と。

    自由な生き方を選び、求婚を断った“タミ”のような女性を、 真正面から受けとめる男性は、舞台にも現実にも、未だなかなか現れない。
    涙を流した私は、その旧来の理想像に「負け」を認めたのかもしれない―― そんな複雑な気持ちが、観劇後もずっと残りました。

    それともう一つ。 特に女性観客に対して、演出が甘く見ていないか?と感じたことです。
    今は、女性の主体性や選択にとても敏感な時代です。 それなのに、あれだけ丁寧に描かれた“母”に比べて、 “タミ”は説明もなく姿を消し、受け身で言葉少なく生きる存在として描かれていた。
    観客として、不可解だと思うのは、自然な反応ではないだろうか。

    演劇は、時代の変化に応えているのか―― そんな思いが、私の中に強く残った作品でした。

    ネタバレBOX

    ―― 多喜二の前から姿を消したタミについて――  

    彼女は身体を売ったり水商売に落ちることなく、身寄りもいないこの時代にしっかり“まっとう”な仕事に就いている。にもかかわらず、彼女は「特高に詰問されても、何を話していいのかも分からない」と言い、不安げに求婚を断る。

    ① 時代背景とのズレ
    戦前の女性にとって、身寄りがなく一人で堅気に生活するのは並大抵の苦労ではないはず。なのにタミはなんとか自立していて、しっかりとした女性だと想像できる。

    ② 人物造形の心理的不整合
    特高に対し「何を話せばいいか分からない」と混乱しながら、自分のことになると、明確な意思で求婚を断る。説明も動機もないまま決断だけが唐突に示されるため、不自然さと説得力の欠如を感じた。

    ③ 結果としての「曖昧さ」
    彼女の選択が“自覚的な行動”とは見えず、まるで不安定さや無力さの果ての偶然の選択のようにも見える。これは「戦前に生きる“最初の自覚的な女性”像」としては、あまりに不自然ではないだろうか。

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    2025/06/24 09:58

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