はなしづか 公演情報 ラッパ屋「はなしづか」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    鑑賞日2025/04/27 (日) 14:00

    座席1階M列18番

    価格5,500円

    ■ラッパ屋 第50回公演『はなしづか』
    https://q-geki.jp/events/2025/rappaya50/

    ■春風亭昇太・柳家喬太郎・ラサール石井ら出演のラッパ屋「はなしづか」幕開け、配信も実施
    https://news.yahoo.co.jp/articles/d84c7bd0ebfa48addec68e6c49a73fb7029322be

     劇団ラッパ屋の北九州公演は第34回『ブラジル』(2009年)からだから、今回公演で17周年。まずはほぼ毎年、北九州を忘れずに来てくれたことに感謝。
     最初は芸術劇場でも小劇場での公演だったんだよね。それが今回は倍以上の座席数の中劇場公演。「日本を代表する喜劇と言えば、鈴木聡のラッパ屋」という認識が浸透してきたのだとすれば嬉しい。これ、お世辞じゃなくて、三谷幸喜や上田誠より鈴木聡の喜劇作家としてのアベレージは高いと思ってるんだよ。

     しかし、それだけ期待していただけに、第50回の記念公演の主演三人が劇団外からの客演とはどういうわけだろう、と思う。コヤも大きくしたんだもの、是が非でも集客したい、ということなのだろうが、ラッパ屋の皆さん、TVや映画でも活躍するようになって、これだけキャリアを積み重ねてきていても、まだ客が来るかどうか、不安なのだろうか。
     奇しくも同時期に、同じく落語を題材とした『昭和元禄落語心中』が上演されていたが、“演劇として”どちらがより面白かったか、と言われれば、『落語心中』の方に軍配が上がると言わざるを得ない。アベレージは高い、と書いたが、ラッパ屋の喜劇の中では、今回の『はなしづか』の笑いはかなり散発的だ。
     両者の間にどういう差があったのかって、『落語心中』は、俳優に「落語家の演技」をさせていたのに対し、『はなしづか』では落語家が「普段の演技」を披露している。言っちゃ何だが、晴々亭昇介を演じた春風亭昇太と、渋柿亭喬次役の柳家喬太郎二人の「普段の演技」が頗る下手なのである。いや、昇太の大根ぶりが喬太郎にまで伝染して演劇空間を作り損なってしまっていると言えばよいか。酷な言い方だが、それが事実だから仕方がない。

     お二人のファンの方は腹が立つかもしれないが、昇太師匠は物語冒頭の枕で、喬太郎師匠は途中、『居残り佐平次』を語るシーンがある。ここは本職なだけに噺は絶品だった。だからなおのこと、普通の芝居パートの下手さが目立つのだ。

     これならキャストはラッパ屋メンバーだけにして、俵木藤汰さんやおかやまはじめさんに落語家を演じさせた方が“演劇として”秀逸なものになったのではないか。おかやまさん、今回も派手な演技が受けてたものなあ。喬太郎師匠は『落語心中』の方の落語指導も行っていたそうだから、まさしく勝敗は一目瞭然だった。
     映画でも舞台でも、落語を題材とした作品は決して少なくはないが、その中で落語家を演じるのは大抵は普通の俳優である。俳優に落語指導をして噺家に見せているのだ。それはもう、「落語以外」での演技シーンが落語家には務まらない、と昔から分かりきっていたからに他ならない。

     そして、ラッパ屋のヒロインと言えば三鴨絵里子さんだが、なぜか今回、出演はなし。まさか退団したの!? とラッパ屋HPを見てみたら、ちゃんと名前が載っている。彼女もTVや映画にと活躍されているから、単にスケジュールが合わなかっただけのようだが、50回記念だよ…?
     三鴨さん目当てで観に来た客もいると思うんだがなあ(私だ)。

    ネタバレBOX

     「禁演落語」については、落語ファンなら先刻ご承知だろう。逆に言えばこの舞台、『落語心中』もそうだったが、落語ファン以外にはまずピンと来ない。戦時中、「笑い」が時局柄不謹慎とされ、弾圧を恐れた落語家たちが53の落語の台本を自主規制して、浅草の「はなし塚」に封印したという歴史的事実が今回の舞台のモチーフになっている。
     「はなし塚」そのものは現存しているが、当然、「禁演落語」は戦後すぐ解禁されることになったので、中にはもう何も封印されてはいない。お参りする意味もないから、記念碑的に残っているだけで、存在を知らない人も多いだろう。
     もちろん、劇中、何度も「はなし塚」についての説明はあるが、そこで挙げられる噺の演目、例えば『明烏』『品川心中』『二階ぞめき』などと聞けば、落語ファンなら、ははあ、これは廓噺が当局からケシクリカランとお咎めを受けそうだと判断したのだな、と見当がつく。同時に廓噺ったって、別にことに至る次第を演じてるわけでもなし、自主規制なんてやり過ぎなんじゃないか、と考えて、ここでハッと気がつくのだ。
     コンプライアンスだのハラスメントだの、まさしく今現在横行している「自主規制」の嵐、「表現」を敵対視して抹消しようとする勢力と、それにビビって表現を「なかったこと」にしてしまう表現者たち。その図式は全く変わってはいないのではないかと。
     「禁演落語」は今や解禁されて封印された噺はもうない、と書いたが、実際には未だに語り手が殆どいなくなった噺もある。『三人片輪』などはもう半世紀は寄席でもTVでも演じた噺家はいないのではないか。

     要するに、『はなしづか』は、現代に連なる表現規制の問題に突っ込んでいながら、今ひとつ、掘り下げて考えることを避けているように見えてしまうのである。
     国策落語で時流に迎合した落語家を演じたのはラサール石井だが、彼がどんな噺を語っていたかは具体的には語られない。これこそ説明だけで終わらせていいことではないだろう。落語家ばかりではない、作家も詩人も、当局に目をつけられないためにはこぞって転向して国策小説、国策詩を書いていた時代だ。その彼らが赤紙で戦争の真っ只中に送られる。ドラマ的には彼は戦地から帰ってきてはならないはずだが、「喜劇」であることに拘る鈴木聡は、彼をあっさりと復員させてしまう。仲間たちは彼を温かく迎えるのだが、さて、現実の復員兵は必ずしも何の屈託もなく帰還できたわけでもないのではないか。
     史実を元にしていながら、事実から離れて朝ドラのような予定調和で終わってしまった点が、『はなしづか』の弱さとなってしまっているのである。

     クライマックス、東京大空襲のさなかに、落語の登場人物たちの幻覚に苛まれて逃げ遅れる喬次(喬太郎)のシーンなど、もっとおどろおどろしく、『東海道四谷怪談』並みの恐怖に゙満ちた演出を試みてもよかったと思うし、この舞台を「演劇」にするなら喬次もここで死んで、生き残るのは昇介(昇太)だけ、とするのが本当は正しい劇作法なのだ。封印された居残り佐平次の幻にとり殺されてこそ、「噺」という表現の持つ「呪いの力」が発揮されるのだから。
     観客もこれが現代にも連なる問題を扱っているとはあまり感じてはいなかったのではないか。その点では鈴木聡の意図は完全に滑ってしまっている。
     そもそもラッパ屋の体質に合わない題材だったんじゃないかねえ。禁演落語ってのは、喜劇に仕立てて笑い飛ばせるような軽いものではないのだから。

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    2025/05/02 21:36

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